清和源氏

G166:宇野頼治  源 経基 ― 源 満仲 ― 源 頼親 ― 源 頼房 ― 宇野頼治 ― 隈部持直 G170:隈部持直


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隈部持直 隈部親永
 文永元年(1264年)、菊池武房から隈部姓を与えられ、以後、隈部を称し、菊池氏の重臣としての地位を固めた。そして、隈部氏は城,赤星氏とともに菊池三家老といわれ、肥後の有力国人領主、土豪領主のなかで最も有力な地位を占めた。

 永禄2年(1559年)、親永は領地問題から赤星親家と対立し、優勢な赤星氏が猿返城に押し寄せたところ、隈部氏は館を出て合瀬川で親家を打ち破った。親永はさらに竜造寺隆信と結び、その支援のもとで親家の子・統家の隈府城を攻め、これを追放した。以後、菊池・山鹿の両郡を押さえて旧主菊池氏の本城・隈府城を本拠とした。
 また、菊池氏の重臣であった城氏が城村城から隈本城に移った後に、嫡子の親安が城村城に入った。さらに、一族は永野城に入れ、この地域を制圧した。
 天正13年(1585年)、薩摩島津氏が肥後に攻め入ったが、隈部氏の城砦群は難攻不落で、一年余の篭城の間に一城も落ちず、結局、島津氏は隈部氏と和議を結んだ。隈部氏の精強ぶりがうかがわれる。
 天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐後、肥後国人衆は本領以外は没収となり、隈部親永は当時千九百町歩を所領としていたが、八百町歩というように、他の国衆ともども半分以下の所領となった。そして、秀吉は肥後一国を佐々成政に条件を付けて与えた。しかし、佐々成政は、秀吉の付けた条件を無視して検地を実行したことから、親永父子はその検地実施に反対して天正15年に挙兵、さらに、隈部氏を頭として肥後の有力領主が連合して国衆一揆が肥後全域に広がった。
 成政は早速5,000の兵で隈部親永の隈府城を攻め、敗れた親永は、嫡子・親安の守る城村城へ逃げ込むと、堀をさらえ、柵を造って防備を固め、15,000人で篭城した。一方、成政軍は城村城攻めを開始したが、その間に、甲斐親秀,菊池武国,赤星・城氏らが率いる三万余人の国衆は、成政の本城を隈本城を囲んだところから、成政は隈本城にとって返し、一揆軍の内応などもあって、これを撃退した。
 城村城はその後も成政の猛攻撃に耐え、延々9ヶ月の篭城となった。この事態をみて秀吉は成政を尼崎に呼びつけ、天正16年5月、命令を守らず一揆を引き起こした罪をもって切腹を命じている。
 一揆軍に対しては、近隣の黒田・立花・毛利・島津氏らに攻略の動員令を出し、黒田孝高は使者をもって和議開城させ、親永は立花氏に、親安は小倉の毛利氏に預けられ、切腹を命じられて、それぞれ腹を切り隈部氏は滅亡した。一揆に加担したその他の地侍や農民は帰農が許され、肥後国衆一揆は終結した。 

隈部親泰

 父・隈部親永によって城村城に配された。当時の所領は1,900町と推定される。天正12年(1584年)9月に島津氏が肥後に侵攻してくると、同月14日に城氏を通じて島津方に投降を打診し、まもなく人質を出してその傘下に入った。天正15年(1587年)6月、九州征伐終了後に豊臣秀吉によって元の所領からは大幅に削られた900町を安堵された。
 同年、父と共に肥後の新領主・佐々成政に反旗を翻し、肥後国人一揆の中心人物として肥後北部の反乱の中核を担った。山鹿重安,有働兼元らと共に城村城に籠城したが、同年末には安国寺恵瓊の勧めで開城した。降伏後は毛利氏に預けられ、翌年、豊前国小倉にて有働兼元らと共に処刑された。