清和源氏

G163:源 頼房  源 経基 ― 源 頼親 ― 源 頼房 ― 宇野頼治 G166:宇野頼治


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宇野頼治 宇野頼弘

 嘉保2年(1095年)に延暦寺の僧兵が源義綱の配流を要求して強訴を起こした際に、関白・藤原師通の命により賀茂川原の守備に就き、これを撃退する。しかしその際、頼治の手勢が日吉神社の神輿を射たことが、さらなる延暦寺側の態度の硬化を招くこととなった。降って4年後の承徳3年(1099年)には、師通が38歳にして急死。これを神罰と恐れた朝廷は、ついに頼治を処罰することを決断し、佐渡国(一説には土佐国)への配流とした。
 曾祖父・頼親,祖父・頼房に次ぐ頼治の失脚は、大和源氏の勢力衰退に一層拍車をかけることとなった。  

 摂津国豊島郡に住し、豊島権守と号した。後に宇野頼弘と改名したという。
本貫の地であった大和国宇野荘は子・親治との不和によりその弟妹に譲渡していたが、相論の末、久寿2年(1155年)に宣旨によって親治の知行が認められた。これにより親治は同荘を醍醐寺三宝院の勝尊に寄進し、自ら知行安泰を図っている。 

宇野親治
 大和国宇智郡宇野荘に住した。久安元年(1145年)、興福寺の衆徒が金峰山寺を攻めた時には、金峰山側について戦った。保元元年(1156年)に勃発した保元の乱において、崇徳上皇,藤原頼長方に加担。兵を率いて京に入ろうとするところを警護にあたっていた敵方の平基盛に見咎められ、合戦の末に敗れて捕虜となる。本戦の間は獄舎に繋がれていたが、戦後赦免されて本拠の大和に帰された。これは、親治が大和国内で興福寺と対立関係にあることに目をつけた後白河天皇による、興福寺牽制のための政治的措置だったと言われている。治承4年(1180年)の以仁王の挙兵の際は、息子を源頼政に応じさせた。