清和源氏

G366:畠山義純  源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義国 ― 畠山義純 ― 畠山満慶 G367:畠山満慶


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畠山満慶 畠山義忠

 室町幕府相伴衆、越中・紀伊・河内・能登守護。能登畠山氏の初代当主。詳しい生誕年は不明だが、元服時には室町幕府第3代将軍・足利義満より偏諱を賜って満慶(または満則)と名乗る。
 応永13年(1406年)に父が亡くなると、将軍・義満の逆鱗に触れて蟄居していた兄満家に代わって畠山家の家督を継いだが、応永15年(1408年)に義満が死去すると、満慶は家督を兄に返還することとした。このことは当時、「天下の美挙」と言われた。このため、兄は感謝の意から分国のうち能登一国を満慶に与え、同年には満慶を初代とする能登畠山氏が創設された。
 しかし、義満の長男で第4代将軍の足利義持とは不仲だったようで、義持と対立していた足利義嗣が上杉禅秀の乱に呼応して反乱を起こそうとすると、満慶は義嗣を援助しようとしたため、義持の命令により捕らえられ、剃髪して蟄居するように命じられた。
 永享4年(1432年)6月27日に死去。長子の義忠が家督を継いだ。また、次子は第6代将軍・足利義教(義持の弟)から偏諱を賜って教国と名乗り、御供衆の一人となっている。 

 永享元年(1429年)に6代将軍・足利義教の元服で理髪役を務める。翌2年(1430年)から父に代わって守護の役割を代行、永享4年(1432年)に父が亡くなり家督を継いだ。永享6年(1434年)に相伴衆に任じられ幕閣に参加、翌7年(1435年)に修理大夫に任じられた。しかし、永享12年(1440年)頃に子の義有が義忠に先立ち戦没したため、嫡孫の義統を後継者と定めた。嘉吉年間に出家し、賢良と号した。
 享徳3年(1454年)、本家である従兄の畠山持国の後継を巡り甥の弥三郎,政長兄弟と子の義就が対立したとき、義忠は義就に味方して弥三郎の追討に参戦している。翌4年(1455年)に義統に家督を譲って隠居、寛正4年(1463年)に京都の屋敷で亡くなった。
 文化に関心が深く、幕府の和歌会に列席、尭孝,冷泉為之,正徹らと交流があった。蹴鞠,松噺子にも関心があり、当時の大名の中でも文化人として知られていた。

畠山義統 畠山政国

 永享12年(1440年)頃に父が祖父に先立って戦死したため、祖父より世子として指名された。そして享徳4年(1455年)に祖父が隠居したため、家督を継いで当主となった。ただし若年のため、祖父による補佐をしばらくは受けた。
 応仁の乱では畠山義就を支持して山名宗全が総大将である西軍に与し、細川勝元や畠山政長の東軍と戦った。応仁の乱が終わると能登に帰国し、以後は在国大名として守護大名としての権力再編・強化に務めた。文明11年(1479年)頃には越後守護・上杉房定と婚姻関係(具体的な婚姻関係は未詳)を結び、越中侵攻を企てる。長享元年(1487年)、加賀一向一揆が起こると、加賀守護・富樫政親を支援した。
 やがて、延徳2年(1490年)に能登門徒による義統暗殺計画が発覚し、義統は越後守護代・長尾能景と連合して越中・加賀の一向一揆と開戦する。だが、一揆側は畠山一族の勢力削減を図る管領・細川政元の支援を受けており決着はつかなかった。
 義統は文化人でもあり、応仁の乱で荒廃した京都から多くの文化人が能登に下向してきたため、能登は大いに繁栄した。明応6年(1497年)8月20日、鹿島郡府中の屋敷において死去。跡を嫡男の義元が継いだ。

 畠山義就の猶子。通称は次郎。室町幕府第8代将軍・足利義政より偏諱を受けて政国(旧字体:政國)と名乗る。本家の河内畠山氏の内紛の際、能登畠山氏は義就を支持し、政国を義就の猶子として関係を強化した。
 文正元年(1466年)12月、紀伊国牟婁郡芳養荘(現・田辺市)を熊野新宮に寄進した。この後、熊野三山は蜂起する。応仁元年(1467年)にかけて紀伊国の大半を平定した。
 応仁の乱直後の同年(応仁元年)6月、紀州勢を率いて上洛し義就に合流した。
 義就に実子の修羅が誕生すると追放され、越前において朝倉孝景に殺害された。

畠山義元 畠山慶致

 畠山義統の嫡男として生まれる。明応6年(1497年)、父が死去したため、家督を継いで当主となった。しかし父と違って統率力が無く、そのために明応9年(1500年)に弟の畠山慶致を擁立しようとする守護代・遊佐統秀らに謀反を起こされて、越後に追放された。
 しかし、永正3年(1506年)、北陸において大規模な一向一揆が起こると、畠山氏内部で義元の復帰を望む動きが起こった。永正5年(1508年)、第10代将軍であった足利義稙が大内義興に擁されて上洛して復権を果たすと、親義稙派であった義元陣営の巻き返しが本格化し、これに押された慶致は隠居して、義元が当主として復帰することとなった。このとき、慶致の嫡男である畠山義総を養嗣子として迎え、二元政治を開始している。程なく上洛して義稙の側近として仕えた。永正10年(1513年)、能登で家臣による反乱が起こると帰国し、義総と共に鎮圧している。
 永正12年(1515年)に死去し、後を養子の義総が継いだ。

 能登畠山氏の第5代当主。第3代当主・畠山義統の次男として生まれる。明応6年(1497年)に父が死去した後、家督は長兄の義元が継いだが、これに不満を持った守護代の遊佐統秀らによって対抗馬として擁立され、明応9年(1500年)に兄が統秀によって追放されると、当主として擁立された。
 しかし、永正3年(1506年)に北陸で一向一揆が起こり、続いて義元と協力関係にあった足利義稙が将軍に復帰すると、畠山家臣団の中で義元の復帰を望む声が上がったため、慶致は隠居して、義元が当主として復帰することとなった。ただし、自分の嫡男である畠山義総を義元の養嗣子としている。その後は兄・義元を助けて、大名権力の強化を図った。
 永正12年(1515年)、義元が死去して、義総が跡を継ぐと、その実父としてなおも二元政治を行なった。
 大永5年(1525年)閏11月18日、七尾城にて死去した。

畠山義総 畠山義続

 延徳3年(1491年)、能登畠山氏の第5代当主・畠山慶致の子として生まれる。祖父で第3代当主であった畠山義統が死去した後、第4代当主となった畠山義元は追放され、代わって第5代当主に父の畠山慶致が擁立された。しかし、永正3年(1506年)に義元が第6代当主として復帰したため、父の慶致は隠居し、その実子である義総が義元の養子となり、後継者に指名された。
 船岡山合戦の前段階で義元と共に京から退避した「同次郎」は義総のことと思われ、これ以降しばらく在京活動が見られる。その後は義元と共同統治を行って一向一揆を鎮圧し、畠山家当主の権力強化による守護大名から戦国大名への脱皮にも成功した。 
 永正12年(1515年)の義元の死去により、家督を継いで第7代当主となる。ただ大永5年(1525年)までは父・慶致と共に共同統治を行なった。
 義総は積極的な国作りを行い、居城を七尾の城山に移して五大山城と称される名城・七尾城を築いた。また、義総は文化人でもあり、戦乱を逃れて下向してきた公家や連歌師などの文化人を積極的に保護し、さらには商人や手工業者にも手厚い保護を与えて、義総治世の七尾城下町は、小京都とまで呼ばれるほどに発展したという。
 天文14年(1545年)5月、畠山氏本家の畠山稙長が病死。生前に稙長は義総の子を次の家督として迎えることを企図していたが、義総自身も7月12日に病死してしまい、これは実現されること無く終わってしまった。享年55。後を次男の畠山義続が継いだ。
 義総の時代は、能登畠山氏の全盛期であった。しかし、義総が死ぬと重臣たちの主導権争いが始まり、畠山氏は衰退していくこととなる。  

 第7代当主・畠山義総の次男として生まれる。長兄で嗣子である義繁がいたが早世したため、後継者となる。天文14年(1545年)に父・義総が死去すると、家督を継いで第8代当主となる。しかし、義続の頃には家臣団による権力争いが頻発した。
 天文16年(1547年)には加賀に追放されていた叔父の畠山駿河が一向一揆の助力を得て能登に攻め込んでくる(押水の合戦)。天文19年(1550年)には重臣の遊佐続光と温井総貞の権力争いのため七尾城が一部焼失するなど、義続は家臣団をうまく統率することができなかった。
 この結果、大名権力が失墜し、重臣達は大名権力を傀儡化する畠山七人衆と呼ばれる年寄衆組織を作り、実権を握った。天文20年(1551年)に義続はこれら一連の騒乱の責任を取り、家督を嫡男の畠山義綱に譲って隠居し、以後は義綱の後見人を務めた。
 その後は大名権力の回復を目指し、弘治元年(1555年)に義続は畠山七人衆の実権を握る温井総貞を他の重臣と協力して誅殺した。こうして一時は大名権力を取り戻したのだが、その後にさらなる権力強化を図ってかえって重臣の反発を招き、永禄9年(1566年)に重臣によって孫の畠山義慶が擁立されると、義続は義綱と共に国外追放とされてしまった(永禄九年の政変)。
 その後、六角氏と縁戚関係があったために六角氏の領国である近江坂本に逃げ延び、永禄11年(1568年)に義綱と共に能登復帰を目指して挙兵したが失敗した。天正18年(1590年)3月12日に死去。

畠山晴俊 畠山義綱

 能登畠山氏の内紛によって能登を離れ京都に移り住んだ畠山九郎の一党と考えられ、弓倉弘年は天文14年(1545年)3月13日、幕府に太刀と馬を献上した畠山四郎を晴俊に比定している。
 天文24年(1555年)に起こった弘治の内乱で温井続宗,三宅総広らに擁立されて反乱軍の盟主となり、畠山義綱を籠城に追い込んだ。
 その後、甲斐の武田信玄や加賀一向一揆,阿岸本誓寺などの援護を受けて戦勝を重ね、弘治3年(1557年)頃まで勝山城を拠点に活動した。しかし、越後の上杉謙信や越中の椎名宮千代の支援を受けた義綱の反撃により、永禄元年(1558年)頃に勝山城は落城、晴俊も敗死したとみられる。 

 天文21年(1551年)、父・義続が前年に起きた能登天文の内乱での責任を取って隠居したことで、義綱は家督を譲られ継承した。しかし、義綱政権の初期では、義続が後見人となっていたため、義綱の主体的な行動は弘治元年(1555年)まであまりみられない。
 弘治元年(1555年)、重臣たちの政治合議組織で大名権力を傀儡化させた「畠山七人衆」を崩壊させるため、中心人物である温井総貞を義続・義綱父子らは暗殺した。この暗殺事件をきっかけに温井氏と、温井氏と親しい三宅氏が加賀一向一揆を味方につけ大規模な反乱を起こし、一時は外浦を占領された(弘治の内乱)。しかし、この内乱も永禄3年(1560年)頃までには義綱方が鎮圧した。この内乱の過程で義綱方は士気が高まり、大名専制支配を確立した。
 この内乱が終息した永禄3年(1560年)から永禄9年(1566年)の時期は、末期の能登畠山家にしては安定した時期といえる。能登国内での家臣たちの戦争や内乱は起こらなかった。また、将軍家への贈答を永禄4年(1561年)に再開したり、気多社の造営を朝廷の許可を得て実行している。さらに、永禄5年(1562年)には上杉謙信に攻められた神保長職に仲介を頼まれ争いを調停し合意させるなど、外交活動が活発化している。また、同じ年には正親町天皇の勅許を奉じて能登一宮の再建にあたり、自らも朝廷や幕府を介して銭7千疋という多額の寄進を行っている。
 しかし、義綱中心の大名専制支配に反発した長続連,遊佐続光,八代俊盛などの重臣が、永禄9年(1566年)にクーデタを起こして義続・義綱父子らを追放した(永禄九年の政変)。このため、義綱らは縁戚関係にあった六角氏の領地である近江国坂本に亡命。
 永禄11年(1568年)7月7日から10月26日の間に、義綱から義胤に改名をしている。
 能登奪回を目指す義綱らは、六角氏の支援と上杉謙信や神保長職らの連携により、永禄11年(1568年)に能登に侵攻したが、失敗して敗退した。その後も復権するために画策するが叶わなかった。
 当主の地位を奪回すべく奔走していた永禄9年から同12年にかけて、医道奥儀相伝を基礎とする義綱と曲直瀬道三の交流が確認される。この背景には能登畠山氏の歴代当主が文化を尊び、医道に深い関心を持っていたことと、義綱が中風の治療を希望していたことが挙げられる。
 文禄2年(1593年)12月21日に近江国伊香郡(余呉町)の余吾浦で死去した。  

畠山義慶 畠山義隆

 永禄9年(1566年)に永禄九年の政変にて祖父・畠山義続と父・畠山義綱が重臣たちによって追放されると、遊佐続光,長続連,八代俊盛らに、元服前の義慶が傀儡君主として擁立された。しかし、元亀2年(1571年)に修理大夫に任じられたり、天正元年(1573年)には能登の一宮気多大社造営の棟札に義慶の名が見えるなど、その行動が知られる。
 天正2年(1574年)に急死した。この死因は病死説もあるが、暗殺されたとも言われる。暗殺説の実行犯については遊佐続光と温井景隆が有力である。跡を弟の畠山義隆が継いだ。
 上記が定説となっているが、十分な資料が残されていないため、仮説の域を出ていない。現在も弟の畠山義隆との同一人物説があり、まだ完全に否定されていない。

 畠山義綱の嫡子として誕生(『長尾家譜』では長男)。異母兄・二本松義有(伊賀守)は、妾腹のため2男とされた。弟に随林。
 永禄8年(1565年)3月、父・義綱の後継を巡って家中が分かれる。義綱と重臣・遊佐続光らは、異母兄・義有を擁立しようとし、これに対して、飯川義宗(肥前守)や長続連らは正室の子である義隆を支持した。
 同年4月、父・義綱は、後継者問題や自身の行状のこともあり、家臣によって能登を追われ、越後国の上杉謙信を頼った。以後、義綱は上杉氏の援助により、複数回にわたり七尾城復帰を目指すことになる。
 義隆は重臣に擁立され、13歳で七尾城主となった。天正2年(1574年)7月12日、遊佐続光により毒殺された。享年19。このとき2歳だった息子・春王丸(義春?)が跡を継いだ。

畠山春王丸 畠山義真

 天正4年(1576年)、父・畠山義隆が急死したため、その跡を継いだ(父と伯父・義慶との同一人物説を肯定すると1574年とも)。しかし幼年のため、実権は重臣の長続連に握られていた。
 『長尾家譜』によると天正5年(1577年)、越後の上杉謙信の攻撃を受け、七尾城を取り囲まれたとき、城内で発生した疫病に罹って死去したという(七尾城の戦い)。まもなく七尾城も落城し、戦国大名としての能登畠山氏の歴史はここで幕を閉じた。畠山氏の血統は上杉家の臣となっていた義春(春王丸の祖父・義綱の弟。上条政繁と同一人物とも)の系統が残った。のち、義春は江戸幕府の高家となり、一時、上条や上杉を名乗っていた名字も畠山姓に復している。  

 畠山義春の3男として誕生。はじめ上杉景勝の養子となる。天正11年(1583年)、5歳のとき、豊臣秀吉の人質として京に送られ、同15年(1587年)、越後に帰国した。
 しばらくして、上杉家を出て河内国に住していた実父・義春の許で暮らす。関ヶ原の戦いで父は東軍に属し、兄・長員が1490石の所領を与えられ別家(高家上杉家)を興す。その後、義真は畠山姓に復し、名実共に能登畠山氏の名跡を継承した。
 慶長6年(1601年)、徳川家康に初めて拝謁し、同17年(1612年)閏10月15日、従五位下長門守となる。元和3年(1617年)5月26日、大和国宇智郡のうち1500石を加えられ、旧地などを併せて3120石余の朱印を賜った。
 徳川秀忠に草創期の高家として傍に仕え、江戸城で行われる式典の基礎を築いた。また、景勝の孫・上杉綱勝がわずか8歳で米沢藩3代藩主となると、義真は江戸城登城の際に必ず同伴するなど、後見的な役割を果たした。また、綱勝が幼少で家督を継ぎ、次の上杉綱憲は養子(綱勝の妹の子)であることから上杉氏において謙信以来の軍法が絶える恐れが出た際に米沢藩から派遣された益田政重に軍法を伝授している。
 寛永10年(1633年)、三次藩藩主の浅野長治に『上杉流之軍配免許』「九重巻号令幕之巻」を授与する。万治2年(1659年)2月9日、致仕。次男の義里が家を継いだ。延宝2年(1674年)9月28日、京都で死去。96歳。河内国安宿郡玉手村の安福寺に葬られた。

畠山義寧 松波義親

 高家肝煎・畠山義里の長男として誕生。延宝3年(1675年)2月28日、始めて4代将軍・徳川家綱に謁見。延宝6年(1678年)5月4日表高家に列した。天和元年(1681年)7月22日、高家旗本の列を離れ、小姓に転じたが、天和2年(1682年)7月15日に辞職。貞享3年(1686年)7月9日の父・義里の隠居により、大和国宇智郡,河内国交野郡,摂津国豊嶋郡の所領3,126石を相続。元禄元年(1688年)7月18日、再び小姓となったが、12月11日には5代将軍・徳川綱吉の不興を買い、遠ざけられる形で再び表高家に戻った。この際将軍への拝謁も禁止されたが、元禄7年(1694年)5月8日から再び拝謁を許され、元禄12年(1699年)11月28日には奥高家に昇格と共に従五位下侍従に叙任し下総守と称した。
 宝永4年(1709年)5月13日、東山天皇の譲位に伴い、将軍の使者として上洛し、7月12日に従四位下に昇った。同年中の12月21日、東山上皇が崩御し、その際も使者として京都へ派遣された。享保元年(1716年)7月1日に高家肝煎となり、8月18日に徳川吉宗の将軍宣下のために松平頼豊と共に京都へ赴いた。10月21日左近衛少将に進む。享保2年(1717年)5月7日、増上寺において7代将軍・徳川家継の一周忌法事の席において諸大名・旗本が平伏していた際に勅使として参拝していた鷲尾隆長が「公家の自分も平伏するのか?」と義寧に尋ねたが、義寧は「その必要はないでしょう」と答えた。これが不念として幕府から出仕を留められたが、6月25日には許された。享保14年(1729年)3月19日に高家肝煎職を辞して表高家に列する。享保18年(1733年)12月4日に隠居し、嗣子・義躬に家督を譲った。隠居後は梅厳と号した。延享3年(1746年)6月4日に死去。享年83。菩提寺の臨江寺に葬られた。
 親戚である米沢藩上杉家の江戸藩邸にしばしば出入りしていた。元禄15年(1702年)12月15日、赤穂事件が起きた際、実父を殺害した赤穂浪士たちに対して追討軍の派遣を企図した上杉綱憲を諌止している。しかし創作上においては、史実と異なりその役割は上杉家の家老だった千坂高房や色部安長に変更されてしまっていることが多い。
 そもそも事件の発端となった江戸城中での傷害事件の当時、指南役だった高家肝煎の吉良義央の補佐を高家・品川伊氏と共に担当しており、江戸城松の廊下おいて赤穂藩主・浅野長矩が、吉良に斬りつけた際に現場に居合わせ、同役の品川と共に負傷した吉良を運んだと記録されている資料が残る。
 宝永6年(1709年)1月15日、前将軍・徳川綱吉の葬儀に際し、吉良に代わり高家肝煎となった品川と共に再び勅使御馳走役への指南役となるが、赤穂事件の二の舞を避けるためか、饗応役筆頭の大和国柳本藩主・織田秀親に同役への指導権限を委譲した。織田は名誉な事と張り切り、同役の大聖寺新田藩主・前田利昌に厳しく当たり、老中の奉書を利昌に回覧させない等という嫌がらせを行った。織田と前田は先祖が主従関係であり、主筋を自認する織田と前田は以前から仲が悪かった。翌日の2月16日、綱吉の法会が行われた寛永寺で、前田は織田を刺殺した。義寧は高家肝煎として法会にも出席しており、生涯で二度も大事件の現場に居合わせたことになる。

 能登畠山氏の家臣で松波畠山氏6代当主。能登国松波城主。
 奥能登の松波城を本拠とした松波畠山氏は、能登畠山氏3代当主・畠山義統の末子とされる義智を祖とする。初めは能登畠山氏の庶流に過ぎなかったが、能登珠洲郡の土豪・松波氏を吸収し、能登の有力国人の長氏と縁戚関係を結ぶなど次第に勢力を拡大したため、のちに一門に列して松波城は七尾城の支城的な役割を担った。
 『加能城址集』「加能越文庫」によると、畠山義綱の3男とされる。天正年間、松波畠山氏5代当主・松波義龍が早世したため、その名跡を継ぎ、松波義親と名乗って松波城主となる。義親は生家とされる能登畠山氏に従い、天正5年(1577年)、七尾城の戦いで七尾城の救援に向かい、奮戦するもまもなく落城したため、密かに脱出して居城・松波城に逃れて再起を図るが、長沢光国率いる上杉軍に包囲されて自害した。石川県能登町の万福寺に葬られた。
 また、未亡人となった義親の室は前田利家の正室・芳春院の侍女となり、子女は加賀藩士の長氏の家臣や利家の次男・前田利政の家臣になったという。