| G411:源 義光 | 源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義光 ― 佐竹義業 | G412:佐竹義業 |


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| 佐竹義業 | 佐竹昌義 |
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初名は義成と称した。寛治元年(1087年)、父・義光が後三年の役に参戦し官職を解任される。嘉承元年(1106年)、父と共に従兄・源義国と関東において合戦をする。天仁2年(1109年)、義兄・鹿島三郎成幹が源氏の棟梁で従兄・源義忠を暗殺する。 |
嘉承元年(1106年)の常陸合戦の際には祖父の義光,父の義業,外祖父の平重幹(大掾重幹)とともに下野を地盤とする源義国(足利氏・新田氏の祖)と戦い、義国の勢力の常陸への浸透を防いだ。父から継承した久慈郡佐竹郷を中心に勢力を拡張し、小野崎氏(秀郷流藤原氏)などを屈服させ、奥常陸7郡の支配をさらに進めた。 |
| 佐竹義政 | 佐竹隆義 |
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実名は『吾妻鏡』では「義政」、『平家物語』系軍記では「忠義」とある。『尊卑分脈』や久保田藩の作成した系図類には佐竹氏初代昌義の長男と見える。元は佐竹氏の本拠地である久慈郡太田に住んだが、外戚の吉田大掾氏が断絶したため、その跡を襲って府中に居を移した。保元の乱,平治の乱では弟の隆義とともに平清盛に属して戦い、常陸七郡を領したという。 |
常陸奥7郡を領した有力者。治承4年(1180年)、隆義の上洛中に源頼朝が挙兵したが、佐竹氏は平治の乱以後、平氏に従っていたため、源氏ではあるが、頼朝に呼応しなかった。 |
| 佐竹秀義 | |
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治承4年(1180年)8月、以仁王の令旨をうけて源頼朝が挙兵したが、佐竹氏は平家との縁が深かったため、頼朝には従わなかった。同年10月、富士川の戦いにおいて頼朝を征伐にきた平氏軍は戦闘を交えることなく都に撤退する。その不戦勝の頼朝は上総広常らの薦めで佐竹氏を討つことを決める。長年の意趣を抱えていた上総広常は義政・秀義兄弟に会見を申し入れたが、これに応じた兄・義政が広常に殺害され、その後の治承4年(1180年)11月に秀義ら佐竹一族が立てこもっていた金砂城は頼朝軍に攻め落とされた。父・隆義の不在中の出来事で、代理で金砂城を守っていた秀義は奥州(もしくは常陸奥郡)の花園へと逃亡する。寿永2年(1183年)、父の死により跡を継いだ。 |