清和源氏

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佐竹義業 佐竹昌義

 初名は義成と称した。寛治元年(1087年)、父・義光が後三年の役に参戦し官職を解任される。嘉承元年(1106年)、父と共に従兄・源義国と関東において合戦をする。天仁2年(1109年)、義兄・鹿島三郎成幹が源氏の棟梁で従兄・源義忠を暗殺する。
 長承2年(1133年)、病没。父・義光を助け、源義光流の発展に寄与した。
 義業がこの地に勢力を据えることができた理由は、母及び彼の室がこの地の有力豪族・常陸平氏の吉田清幹(成幹の父)の娘であったことによる。義業と清幹の娘との間に生まれた昌義が佐竹氏の初代となる。佐竹氏の由来は常陸国久慈郡佐竹郷に本拠を構えたことによる。 

 嘉承元年(1106年)の常陸合戦の際には祖父の義光,父の義業,外祖父の平重幹(大掾重幹)とともに下野を地盤とする源義国(足利氏・新田氏の祖)と戦い、義国の勢力の常陸への浸透を防いだ。父から継承した久慈郡佐竹郷を中心に勢力を拡張し、小野崎氏(秀郷流藤原氏)などを屈服させ、奥常陸7郡の支配をさらに進めた。
 保延6年(1140年)、佐竹寺において一節の竹を発見し、吉兆と喜び姓を佐竹と称したとする伝承がある。また、馬坂城,太田城(舞鶴城)を改修しそこを拠点としている。
 昌義の子のうち長男の忠義は大掾氏を継ぎ、佐竹氏は隆義が継承した。

佐竹義政 佐竹隆義

 実名は『吾妻鏡』では「義政」、『平家物語』系軍記では「忠義」とある。『尊卑分脈』や久保田藩の作成した系図類には佐竹氏初代昌義の長男と見える。元は佐竹氏の本拠地である久慈郡太田に住んだが、外戚の吉田大掾氏が断絶したため、その跡を襲って府中に居を移した。保元の乱,平治の乱では弟の隆義とともに平清盛に属して戦い、常陸七郡を領したという。
 治承4年(1180年)10月、富士川の戦いで平家軍を撃退した源頼朝は余勢を駆って上洛の軍を起こそうと考えたが、三浦義澄,千葉常胤,上総広常らは義政やその甥・秀義ら常陸佐竹氏がいまだ服従していないことを持ち出してこれを諫めた。翌11月、頼朝は佐竹氏征伐のために常陸国府に進駐した。秀義は父・隆義がいまだ上方で平家方にあることを理由に金砂城に籠もったが、義政は縁者だった上総広常を通じて帰服を申し出た。義政は国府より5km北ほどにある大谷橋上で広常と面会したが、頼朝の命を受けていた広常にすぐさま討たれてしまった。一方『源平闘諍録』によると、佐竹忠義(義政)は下野国の足利俊綱とともに頼朝への反抗を企てたため、梶原景時によって大谷橋で斬られたとされている。
 文治5年(1189年)、奥州合戦で藤原泰衡方に組した武士の中に義政の子と称する者たちがおり、彼らは敗戦後に行方をくらましたという。なお諸系図で弟とされる国分義弘を義政の子とする系図もある。 

 常陸奥7郡を領した有力者。治承4年(1180年)、隆義の上洛中に源頼朝が挙兵したが、佐竹氏は平治の乱以後、平氏に従っていたため、源氏ではあるが、頼朝に呼応しなかった。
 『佐竹家譜』は、この頼朝に対する対抗措置として、隆義が平清盛の奏請により従五位に叙任されたとしている。ただし、『新編常陸国誌』においては、平宗盛の奏請によるとされている。
 佐竹氏は、治承4年(1180年)10月27日以降、頼朝の攻撃にさらされ、同月11月4日には、根拠地である常陸国の国府への侵攻を許した。留守を預かっていた隆義の子・秀義らは防戦したが、結局、頼朝軍に敗北した(金砂城の戦い)。しかしながら、秀義の家臣である岩瀬与一太郎の懇願によってそれ以上の追討は回避され、佐竹氏は滅亡を免れた。ただし、佐竹氏の所領は没収され、八田氏に与えられた。
 隆義は、寿永2年(1183年)、66歳で死去した。長男の義政は金砂城の戦いより前に上総広常により謀殺されており、次男の義清は庶子のため分家して稲木氏の祖となり、3男の秀義が跡を継いだ。

佐竹秀義

 治承4年(1180年)8月、以仁王の令旨をうけて源頼朝が挙兵したが、佐竹氏は平家との縁が深かったため、頼朝には従わなかった。同年10月、富士川の戦いにおいて頼朝を征伐にきた平氏軍は戦闘を交えることなく都に撤退する。その不戦勝の頼朝は上総広常らの薦めで佐竹氏を討つことを決める。長年の意趣を抱えていた上総広常は義政・秀義兄弟に会見を申し入れたが、これに応じた兄・義政が広常に殺害され、その後の治承4年(1180年)11月に秀義ら佐竹一族が立てこもっていた金砂城は頼朝軍に攻め落とされた。父・隆義の不在中の出来事で、代理で金砂城を守っていた秀義は奥州(もしくは常陸奥郡)の花園へと逃亡する。寿永2年(1183年)、父の死により跡を継いだ。
 その後、頼朝から罪を許されて家臣となり、文治5年(1189年)の奥州合戦においては頼朝軍の一員として参戦して武功を挙げたため、御家人の一人に列せられた。この奥州従軍の際に源氏の無地の白旗を持参したところ、頼朝の旗と区別が付くようにと、扇を旗の上に付けるよう命じられた。これが佐竹氏の家紋「五本骨扇に月丸」の由来とされている。建久元年(1190年)、頼朝の上洛に随行している。承久3年(1221年)の承久の乱では、自身は老齢のために参戦しなかったが、子の義重,秀繁,南酒出義茂,義将,北酒出季義らに配下を率いさせて派遣し、功を上げさせた。
 嘉禄元年(1225年)12月18日、鎌倉名越の館にて76歳で死去。跡を義重が継いだ。