清和源氏

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佐竹貞義 佐竹義宣

 1331年(元弘元年/元徳3年)に源頼朝による守護職創設以来、八田族に独占されてきた常陸国守護職に補任された。
 鎌倉幕府の討幕運動が始まると、同年9月に幕府軍の一員として笠置山攻めに参加し武功を挙げた。しかし、足利高氏の調略を受けて討幕軍に寝返る。建武2年(1335年)11月には、中先代の乱などにおける足利党としての軍忠によって、足利尊氏からもその功績により常陸守護を認められた。それ以来、佐竹氏の世襲となる。
 同年、尊氏追討の勅旨を受けた義良親王と陸奥守・北畠顕家が軍勢を連れて勿来の関を南下するとの情報を得た足利氏から、貞義をはじめとする与党らとともに行軍阻止の指令を受けた。1352年9月10日、66歳で死去し、跡を嫡男の義篤が継いだ。

 母の実家である小田氏が小山若犬丸を匿った罪により、鎌倉公方足利氏満の追討を受けた際は、小田氏と縁戚関係にあったため警戒され、家臣の小野崎通郷,江戸通高を派遣するに留まっており、通高は難台城の戦いで奮戦した末、討死した。


佐竹義人 戸村義倭

 関東管領上杉憲定(山内上杉家の当主)の次男で、第11代当主・佐竹義盛の婿養子。初名は上杉義憲(別名は義仁とも)。応永23年(1416年)に義憲から義人(義仁)に改名している。
 応永14年(1407年)、佐竹義盛が世継ぎを残さず病没したために、鎌倉公方足利満兼の裁可で義人を義盛の娘源姫の婿として迎えることになり、佐竹の家督を継承した。しかし、これを快く思わない一族庶流の山入家の佐竹与義らが干渉を行い、家督相続は円滑には進まず、足利持氏が後ろ盾となったことで義人は家督を維持していた。そのため、上杉禅秀の乱の際は持氏を支持し、上杉禅秀方についた与義や同じ一族の稲木義信,長倉義景を征伐した。義信は戦死し、与義は降伏したが、その後も山入氏は与義や子の祐義が室町幕府から常陸守護を拝命するなどして義人に抵抗を続けた。これに対して、義人も幕府の御料所の年貢の京進の完納を進めるなど、幕府の歓心を買う工作を行っている。また、上杉禅秀の乱に加わった大掾満幹が処刑されると、持氏の意向もあって義人の3男(後の戸村義倭)が大掾氏の家督を継いだ。
 義人は家督相続に恩のあった持氏を一貫して支持してきたが、室町幕府将軍・足利義教からの圧迫を受けて永享7年(1435年)に白河結城氏・那須氏と共に持氏討伐の命令を受けてしまう。折しも、長倉義成(義景の子)が持氏に叛旗を翻したが、こうした事情から義人はこれまで敵対を続けてきた長倉氏への援軍を送らざるを得なくなる。足利持氏は岩松持国,上杉定頼,結城氏朝,小田持家,千葉胤直らを派遣して長倉氏を降伏させてしまう。進退窮まった義人は持氏の側近・簗田満助の仲介を受けて翌永享8年(1436年)に家督を嫡男の義俊に譲ることを条件に降伏を許されて持氏側に復帰した。なお、この際に義人は佐竹氏の所領であった武蔵国埼西郡33郷と下総国関宿7村を仲介の労を取った満助に譲っている。
 永享9年(1437年)、持氏と関東管領上杉憲実(義人の従兄)の対立が深刻化すると、義人の立場は複雑なものとなる。実家である上杉氏の存在を背景として家督を継いでいた義人の足場は脆弱であり、次男・実定を猶子としていた上杉憲実と山入氏を支持する室町幕府の連携によって持氏派の義人は実家上杉氏の後ろ盾を失うことになった。まもなく始まった永享の乱で持氏が自刃し、さらに結城合戦で関東の持氏派の残党が一掃され、女婿・結城持朝も死去。遂に6代将軍・足利義教による佐竹氏討伐が計画されるに至った。また、大掾氏でも家臣が義人の子を追放して、大掾頼幹を当主に擁立して佐竹氏と敵対した。しかし、義教が嘉吉の乱で暗殺されるなど関東の政局が佐竹氏にとって好転したこともあり、その後も実権を握り続けた。
 山入氏など庶家の抵抗は依然として強く、さらに晩年は義人が実家上杉氏との関係改善を図り、当主の義俊を遠ざけ実定を偏愛したため、享徳元年(1452年)には義俊と孫の義治が居城を追放され、更に上杉憲実までが実定を正式に上杉氏の後継者に迎えて上杉の家名と関東管領の地位を譲ろうとしたことから上杉氏の家宰である長尾景仲と対立するなど、家中はますます混乱した。
 寛正6年(1465年)5月3日に実定の補佐役の江戸通房が死去、9月25日に実定が死去。応仁元年(1468年)に義人が死去。享年68。
 佐竹義定(実定の嫡子)は江戸通長の元に追放され、代わって義俊父子が常陸太田城に復帰することになる。

 戸村氏は藤原秀郷の末裔とされる戸村能通により創始された家柄であるが、南北朝時代に入って、南朝方に属した6代目の戸村又五郎(実名不詳?)が宗家の那珂通辰とともに北朝方の佐竹貞義と戦って自刃して一時断絶。その後、佐竹義人の3男で大掾満幹との養子縁組を解消した佐竹義倭が前戸村氏の居城であった常陸国戸村城を再建したことによりその苗字を称して佐竹氏の一族となる。 
戸村義国 戸村義道

 父の義和は文禄の役の際に朝鮮高麗熊川にて病死(一書には船中とも)。義国は父の顔を知らずに成長する。常陸国戸村城より、慶長7年(1602年)、宗家の佐竹義宣が出羽久保田藩への国替えとなり、これに従い出羽国に入る。慶長10年(1605年)から慶長12年(1607年)にかけて用水路を完成させた(戸村堰)。主君久保田藩主・佐竹義宣と大坂冬の陣に従軍。今福の戦いにおいて、佐竹軍は苦戦に陥り、刀鍔に銃弾を受けるが怯まずに奮戦し、大坂方の将矢野正倫を討ち取った。その功で将軍徳川秀忠より感状と刀「青江次直」を拝領。のちに第2代藩主・佐竹義隆の執政を務め、寛永8年(1631年)に角館の代官として赴く。
 寛文9年(1669年)に久保田藩が松前藩からのシャクシャインの乱の鎮圧応援要請を受けて派遣軍が編成されるが、義国は派遣軍の軍将となる。ただし、派遣前に乱が平定されたので派遣は中止となった。
 寛文10年12月(1671年)に80歳で没した。墓所は秋田県横手市の龍昌院。

 書画や詩歌を能くし、文人として名を馳せた。絵画は当初は狩野派、のちに南画を習得したが、画人・佐々木原善と知己になりその影響を受け作風を一変させた。寛政6年(1794年)に南蘋派(当時の中国の洋画技法)の画風を習得されるために長崎に原善を留学させた。留学が帰った原善から南蘋派の技法を学び、花鳥図を書いた。嘉永7年(1854年)、87歳で没した。
 なお、天保12年(1841年)から弘化元年(1844年)に草稿が書かれた『秋田武鑑』で戸村氏当主は戸村十太夫義利とあるのでそれ以前に隠居していたと思われる。

戸村義效 山入師義

 文政11年(1828年)、家督を継ぎ横手城代となる。安政5年(1858年)2月、息子・義寿の久保田新田藩佐竹家相続を実家の中村藩相馬家に働きかけた佐竹義祚を、藩の命により同年6月11日の死まで預かることとなる。この縁により、娘を義寿に嫁がせている。
 文久3年(1863年)、家老に就任し8月に藩主・佐竹義堯(義核より改名)の名代として京に行き、12月まで警護の任を受けた。元治元年(1864年)、禁門の変に京に出動するが、混乱の中で公家衆の警護の依頼がなく帰国した。慶応2年(1866年)、江戸在番,重事参与となる。
 慶応4年(1868年)、白石会議に出席し、奥羽越列藩同盟の盟約に調印した。これは独断による越権行為と新政府軍から咎められ、久保田城に謹慎・永蟄居の処分となった。明治3年(1871年)、家督を子の義得に譲った。
 1958年(昭和33年)に公開された2,000余の戸村文書の中から、同盟調印は義堯の指示によるものであった旨の文書が発見され、90年ぶりに名誉が回復された。

 足利尊氏が建武政権と戦うために上洛した際に異母兄の義篤とともに足利直義傘下に加わり、後に義篤が尊氏の命を受けて東国の新田側勢力と戦うために帰国すると、師義はそのまま残留して尊氏・直義とともに九州に向かった後、多々良浜の戦い,湊川の戦いで活躍する。以後、師義が尊氏に近侍して、義篤が領国経営にあたる体制が構築される。貞和元年/興国6年(1345年)の天龍寺落慶供養の際に後陣の随兵を務め、4年後に直義と高師直が対立した際には師直を支持した。また、連歌にも優れ『菟玖波集』にも所収されている。後に尊氏から常陸国久慈郡山入を所領として与えられ、山入氏の祖となった。
 『佐竹系図』(戸村本)には観応2年/正平6年(1351年)死去と伝えるが、『太平記』には翌年の碓氷峠での戦いをはじめとする観応の擾乱関連の戦いに参戦し、嘉慶年間成立の『源威集』では東寺合戦直前に尊氏と和歌について語る記事が載せられるなど、矛盾が多い。


山入与義 山入祐義

 応永14年(1407年)秋、一族の惣領であった常陸守護・佐竹義盛が危篤となると、関東管領・上杉憲定の次男の龍保丸を義盛の娘婿として後継者の白羽の矢が立った。龍保丸は鎌倉公方・足利持氏の後援を得て、佐竹義憲(後に義人と改名)として佐竹宗家を継いだ。しかし、佐竹氏の庶流の多くが藤原姓の山内上杉家からの入婿に反発しており与義は反対派の急先鋒として稲木義信や長倉義景,額田義亮らと結んで義憲と対立した。ただし、小田野氏を興した弟の自義は宗家方に属している。
 応永23年(1416年)、鎌倉府と対立した前関東管領の犬懸上杉氏憲(禅秀)が持氏に対して乱を起こすと(上杉禅秀の乱)、与義も氏憲に呼応して挙兵した。翌応永24年(1417年)には室町幕府の介入もあって氏憲一派は自害し、乱は収束した。これによって与義は義人に降伏を余儀なくされたが、同年中に与義と結んでいた稲木義信が義人によって滅ぼされている。
 禅秀の乱後も与義は京都扶持衆となり、独自に幕府との繋がりを持って義人に反抗的な態度を取り続けた。鎌倉公方の持氏は京都扶持衆の諸将に対して警戒を強め、遂に応永29年(1422年)、義人らに与義の追討を命じ、与義は鎌倉の比企谷で自刃した。

 応永29年(1422年)に父の与義が戦死し、兄の義郷もまた短期間で隠居もしくは死去したことから、甥の義信に代わって祐義が山入氏の家督を継いだ。応永30年(1423年)6月、将軍・足利義持は、常陸守護である惣領の佐竹義憲(後の義人)を解任して祐義を任命しようとし、鎌倉公方・足利持氏の反発を買った。この後、幕府は義憲と祐義の両者を一方的に半国守護に任じ、守護が事実上分立する状態になった。
 永享の乱,結城合戦では祐義はいずれも幕府方に属しており、鎌倉府方に属した惣領の義人と敵対している。結局、鎌倉府方は2度にわたる大敗北を喫したため、義人は隠居して長男の義従(後の義俊)に家督を譲った。
 しかし、義人は次第に義俊を疎んじて次男の実定を偏愛するようになり、そのため義俊と実定の間で家督をめぐる抗争が巻き起こった。祐義はこの乱に際して実定を支持して介入し、享徳元年(1452年)には江戸通房らと結託して義俊・義治父子を本拠地太田城から追放した。この抗争は義人・実定の相次ぐ死によって義俊方が勝利し、応仁元年(1467年)に義俊は太田城に復帰している。祐義の後は長男の義知が継ぎ、宗家との争いを続けた。

山入義知 山入氏義

 父・祐義の後継として山入氏を継いだ。山入氏は常陸守護・佐竹氏の一族であるが、応永年間に祖父の与義が宗家の義人と対立し、以来50年近く抗争を続けていた。
 宗家当主の義治(義人の孫)は、自派に近しい一族の者を要所に配置し、衰退の色を見せていた佐竹宗家の建て直しを図るとともに、山入氏の牽制に乗り出した。これに危機感を募らせた義知は文明10年(1478年)に軍勢を率いて宗家拠点の久米城を攻め、城主の佐竹義武(義治の弟とされるが異説もある)を討ち取った。しかし、その直後から岩城氏の支援を受けた義治の反撃に晒され、義知は敗れて戦死した。山入氏は弟の義真、次いでその子の義藤が継いだ。

 山入氏は常陸守護佐竹氏の一族であるが代々宗家との抗争を繰り広げており、父・義藤の代には宗家当主の義舜を太田城から追放するなど宗家に対して優位に立っていた。しかし、明応元年(1492年)に義藤が病死すると、岩城氏の仲介で宗家との間に和議の気運が持ち上がった。翌明応2年(1493年)にはやはり宗家に反発していた佐竹氏庶流の長倉義久が義舜に攻められ降伏、更に岩城氏宿老であった岡本妙誉の工作により、氏義と協力関係にあった江戸通雅,小野崎親通らが離反するなど、山入氏は全盛時の勢いを失いつつあった。
 しかし、氏義はあくまで義舜との対決に固執しており、和議の条件となった太田城の返還を行わず、明応9年(1500年)に孫根城の義舜を金砂城に逐い、さらに金砂城を攻めた。この戦いで氏義は義舜を自害寸前まで追い詰めたが、天候の変化に乗じた義舜が反撃に出たために山入勢は散々に打ち破られて撃退されてしまった。
 その後、岳父の岩城常隆の後援を得た義舜は体勢を立て直す一方で、氏義の劣勢は明らかとなり徐々に本拠地の太田城に追い詰められていった。永正元年(1504年)、遂に義舜は山入氏に止めを刺すべく太田城に攻め込んだ。籠城戦の末に太田城は陥落し、氏義と子の義盛は山入氏庶流の小田野義正に捕えられたと伝えられる。氏義らは下野茂木で斬られ、その死によって高祖父・与義の代から5代約90年にわたって続いていた山入の乱はようやく終結した。山入氏は滅亡したが、小田野氏・高柿氏・国安氏などの庶流は生き残り、佐竹宗家の家臣として存続した。