清和源氏

G452:小笠原長忠  源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義光 ― 源 義清 ― 小笠原長清 ― 小笠原長忠 ― 小笠原政康 G453:小笠原政康

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小笠原政康 小笠原宗康

 政康は嘉慶2年(1388年)に13歳で元服し、応永12年(1405年)に兄・長秀から家督と小笠原氏の所領を譲られた。応永23年(1416年)に関東で発生した上杉禅秀の乱鎮定に駿河守護・今川範政や越後守護・上杉房方と共に出陣し、また応永30年(1423年)には鎌倉公方・足利持氏と対立した京都扶持衆の山入氏,小栗氏,真壁氏らを救援するため、幕府代官・細川持有と共に常陸国に出陣するなど、足利将軍家に反抗的な関東足利氏への抑え役として4代将軍・足利義持から重用され、応永32年(1425年)に信濃守護職に任命された。信濃の幕府直轄化は元々は守護による統治を嫌って幕府直臣化を望む信濃村上氏ら国人の動きに応えたものであったが、自立志向が強い彼らは幕府の命令にも従わず関東足利氏に通じて反抗することもあったため幕府にとって直轄支配のメリットがなかったこと、関東足利氏に対抗する軍事的再編の中で守護による軍事指揮権の再構築が図られたことによるとみられている。
 正長元年(1428年)の正長の土一揆に対して上洛し一揆勢の鎮圧にあたった。また、この年に足利持氏が越後守護代・長尾邦景や同国の国人を寝返らせようとして邦景から告発を受けると、政康を急遽帰国させて越後出陣の事態に備えさせている。
 永享4年(1432年)には6代将軍・足利義教の弓馬師範に推挙された。永享8年(1436年)には持氏と通じた村上頼清と芦田氏討伐を果たし、義教から感状を授かった。村上氏は永享9年(1437年)に幕府に降伏し、小笠原氏の信濃支配は一応達成することになる。これに先立つ応永24年(1417年)、在京していた武田信元の甲斐帰還を手助け、守護代として跡部氏を派遣している。甲斐では持氏の支援を受けた国人・逸見有直が勢力を強めており、その対抗的意味があったと考えられている。
 永享10年(1438年)の永享の乱では上野国に出陣し平井城に向けて北上する持氏方の軍勢を討ち破った。永享12年(1440年)の結城合戦にも信濃武士を統べて参戦しており、『結城陣番帳』にその諸将の名が見える。
 嘉吉2年(1442年)、小県郡海野で死去。享年67。長男の宗康が後を継いだが、正式な譲状を作成しなかったことから、この継承に異論を挟む余地を生んだ。甥で長兄・長将の子の持長が畠山持国の支持を背景に相続を主張、国人も2派に分かれて抗争、小笠原氏はお家騒動で混乱、信濃の支配に動揺をきたし漆田原の戦いを起こすことになった。
 信濃の支配権確立にも取り組み、広沢寺や筑摩神社を開基した。 

 嘉吉2年(1442年)に父が死去、小笠原氏惣領職をめぐって従兄(伯父の小笠原長将の子)の小笠原持長との間で争いが起きた。持長は結城合戦や赤松満祐の討伐(嘉吉の乱)でも功績があり、幕府の実力者で管領・畠山持国とも縁戚関係にあり、問題を複雑化させた。
 しかし、当時の現状に鑑みれば、在京期間が長く、信濃と縁の薄い持長では信濃の国人を治めきれないと判断され、文安2年(1445年)11月、幕府問注所は宗康を信濃守護職に任命した。だが、小笠原氏は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、それにともない国人衆も二派に分裂して対立が続いた。
 文安3年(1446年)、宗康は弟の光康に後援を頼み、自身が討ち死にした場合は光康に惣領職を譲り渡すと取り決め、水内郡漆田原で持長軍と戦ったが敗れ討ち死にしてしまった(漆田原の戦い)。
 持長は宗康を討ち取りはしたが、家督は既に光康に譲られていたため、幕府も守護職と小笠原氏惣領職を光康に与えた結果、持長と光康の対立は続いた。やがて光康と宗康の子孫同士も争うようになり、小笠原氏は持長系の府中小笠原家、宗康系の鈴岡小笠原家、光康系の松尾小笠原家との三家に分裂し、再統一は戦国時代初期の小笠原長棟(府中家)の登場を待つことになる。 

小笠原政秀 小笠原長朝

 室町時代の小笠原氏は中興の祖である祖父・小笠原政康の没後、家督争いが起き衰退していた。父の宗康は従兄の小笠原持長と争い、戦死している。宗康は死の直前に弟の光康に家督を譲っており、政秀は叔父の下で養育された。
 政秀は寛正2年(1461年)、叔父の死により家督を継承したと推測されている。鈴岡城に拠り、従弟の松尾城主・小笠原家長(光康の子)や又従兄の府中城主・小笠原清宗(持長の子)と並ぶ勢力となった。
 応仁元年(1467年)頃から清宗を攻撃して、一時は小笠原家の惣領となった。文明5年(1473年)には室町幕府から信濃守護に任命されている。しかし、小笠原家をまとめ上げることはできず、小笠原長朝(清宗の子)を養子に迎え、再び家督を譲らざるを得なくなった。
 一方、松尾家とは当初は良好な関係であり、応仁の乱においては、幕府の命令で東美濃に共同で出陣し、西軍の足利義視に通じて将軍・義政に抵抗する土岐成頼と交戦する等、歩調をあわせていたが、後に伊賀良荘の領有を巡って争うようになった。政秀は諏訪大社の上社諏訪氏や高遠諏訪氏と同盟を結び、文明12年(1480年)に家長と戦って討ち果たしたが、明応2年(1493年)1月4日、家長の子である小笠原貞基や知久氏に松尾城で実子の長貞と共に暗殺された。
 鈴岡小笠原家は滅亡したが、政秀の未亡人は生家の下条氏を通じて府中家の小笠原貞朝(長朝の子)を頼って落ち延び、天文3年(1534年)貞朝の子の小笠原長棟が松尾家を下して小笠原氏の統一を果たすこととなる。 

 宝徳元年(1449年)11月に元服、民部大輔,大膳大夫,信濃守に任じられる。文明5年(1473年)、室町幕府9代将軍・足利義尚就任後初の参内に供奉し、花の御所で犬追物を興行した際に奉行を務めた。文明10年(1478年)、父の死去に伴い家督を相続する。応仁の乱では西軍に与し、東軍方の伊那小笠原氏や諏訪大社上社に対抗した。
 文明12年(1480年)には諏訪大社下社の金刺氏と結んで仁科盛直を穂高川で破るが(穂高合戦)、翌13年(1481年)に仁科氏が頼った諏訪氏に敗れた。また長享2年(1488年)に鈴岡小笠原家の小笠原政秀に井川館を陥落させられ、更級郡牧之島城に逃れたが、筑摩郡の国衆が鈴岡家の府中支配を支持せず、延徳2年(1490年)以後、信濃守護に補任された政秀の養子となることで和睦した。
 明応元年(1492年)、10代将軍・足利義稙の命により六角高頼征討(長享・延徳の乱)に出兵した。明応2年(1493年)、政秀が松尾家の小笠原定基に暗殺されると、孫の小笠原長棟の代まで対立した。文亀元年(1501年)没、享年59。 

柴田康忠 柴田康長

 永禄4年(1561年)から徳川家康に仕える。永禄6年(1563年)に起こった三河一向一揆では、自ら浄土宗に改宗し、この時の槍働きを評価されて家康より諱を賜り康忠と名乗った。永禄10年(1567年)に家康が家中の職制を新設すると、康忠は旗本先手侍大将の1人に任命される。永禄12年(1569年)、遠州攻略の戦功により家老に任命される。
 元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは先鋒として戦功を挙げた。
 天正10年(1582年)3月の甲州征伐で多くの武田旧臣を従わせ、6月の本能寺の変で織田信長が横死すると、甲州奉行に任命される。旧武田領統治では諏訪郡高島城に滞在して徳川家康の命で依田信蕃のもとに軍監として赴き協力した。天正13年(1585年)の第一次上田合戦を戦い、佐久地方の平定を依田とともに行う。
 天正18年(1590年)の小田原征伐後に家康が関東に入部すると、大久保忠世と共に上総の民政を司る。
 天正19年(1591年)、武蔵国菖蒲(現在の埼玉県久喜市)、私市(現在の加須市)で5000石を賜る。文禄2年(1593年)5月に56歳で没し、埼玉郡樋ノ口村に葬られる。のちに康長により今泉村の十連寺に改葬された。

 慶長5年(1600年)第二次上田合戦では本多正信隊に属して従軍。慶長9年(1604年)、火の番頭となる。文禄2年(1593年)に父・康忠が没し、慶長18年(1613年)家臣の不祥事により改易となり、下野国足利に住む。しかし、大坂の陣に従軍し、伊達政宗隊に属した。
 元和9年(1623年)に赦され、寛永元年(1624年)、武蔵国大谷領3000石を賜り、向山村に陣屋を置く。翌年徒頭となり、寛永3年(1626年)書院組頭となる。寛永10年(1633年)上総国長柄郡において700石加増される。同年小姓組番頭となり、寛永13年(1636年)、書院番頭となるも領地にて没する。墓所は今泉村の十連寺。
 その後、康久,康利と続き、元禄11年(1698年)康利の代に丹波国に移封された。 

小笠原光康 小笠原家長

 父の死後、小笠原氏惣領職を巡って兄の宗康と従兄の小笠原持長との争いが起きていた。小笠原氏は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、それにともない国人衆も2派に分裂して対立が続いた。
 文安3年(1446年)、光康は兄に後援を頼まれ、自身が討ち死にした場合は光康に惣領職を譲り渡すと取り決めをした。宗康は漆田原で持長と戦ったが敗れ討ち死にしていたため(漆田原の戦い)、約束通り家督は光康に譲られ、幕府もまた信濃守護職と小笠原氏惣領職を光康に与えた。
 しかし、持長と光康の対立は以後も継続し、一時は持長(府中小笠原家)が守護職を襲うなど混乱は続いた。甥で宗康の遺児の小笠原政秀もまた勢力をもち(鈴岡小笠原家)、政秀と光康の子・家長もまた争うようになる。長年の守護家の混乱は信濃における守護の権威そのものの失墜につながり、信濃においては、守護に代わりそれぞれの地域の有力国人が独自の安堵状を発付するようになった。
 関東で享徳3年(1455年)にはじまる享徳の乱が発生した時、光康は幕府から駿河守護・今川範忠,越後守護・上杉房定と共に、堀越公方・足利政知を支持して関東へ出陣することを度々命じられたが、古河公方・足利成氏に通じる府中の小笠原清宗が国人衆と結託して光康の出陣に反対し、なかなか発向できない有様であったとされる。
 将軍・足利義政は康正2年(1456年)、光康に対し清宗討伐を、また寛正6年(1465年)、光康と上杉房定に対し、成氏に通じる村上政清と高梨政高の討伐を命ずる御教書を発した。 

 応仁元年(1467年)からの応仁の乱では東軍側に付く。文明5年(1473年)、家長は将軍足利義政の命により、子の小笠原定基や木曾家豊(木曾義元の父)と共に東美濃攻略のため、足利義視方の土岐成頼が京に居る隙に、美濃恵那郡の大井城や土岐郡の釜戸村にあった荻島城を攻め落とす。その後、恵那郡の中部と土岐郡の一部は、天文3年(1534年)まで小笠原氏の駐留が続いた。
 京極氏のお家騒動(京極騒乱)にも介入、東軍の京極政経,多賀高忠に加勢して西軍の京極高清,多賀清直・宗直父子、六角高頼を打ち破った。『小笠原文書』によると武田兵庫助を介して、文明10年(1478年)、尾張の守護代であった織田敏定の要請で美濃の斎藤妙椿を牽制するため、援軍を送っている。
 小笠原家当主の家督を巡り、従兄にあたる信濃守護・小笠原政秀と対立し、文明12年(1480年)、政秀によって討たれた。なお、『寛政重修諸家譜』などでは延徳2年(1490年)10月15日死去とされている。 

小笠原定基 小笠原貞忠

 定基は、家伝の糾法に精錬していた鈴岡小笠原家の小笠原政秀から伝習を受けていたが、明応2年(1493年)1月4日、年頭の祝賀と称して政秀を松尾城に誘い、帰途を攻撃して暗殺したことから、鈴岡家は滅亡し、その遺族は府中小笠原家の小笠原長朝を頼った。翌3年(1494年)1月13日、松尾城外の毛賀沢で長朝と戦い撃退した。文亀元年(1501年)、周防国に亡命中の先代将軍・足利義稙から書を贈られた。
 府中家の小笠原貞朝が11代将軍・足利義澄方の尾張国守護・斯波義寛と結び、義稙方の今川氏親を攻めたことから、永正3年(1506年)定基は氏親や伊勢宗瑞の要請に応じて三河国に出兵した。
 永正8年(1511年)死去。天文3年(1534年)、子・貞忠の代に府中家の小笠原長棟に松尾を攻められると、敗れて甲斐国に逐電し甲斐武田氏を頼ることとなった。 

 父の定基は京都の政情に明るく、大内氏らとも友誼を結んでいたため、文亀元年(1501年)6月、周防に亡命中の先代将軍・足利義稙から、上洛の際は忠節を尽くせとの奉行人奉書と大内義興の副状を受けたが、実際に上洛は実現しなかった。また、今川氏親の遠江侵攻に悩まされた斯波義寛の意向で府中家の小笠原貞朝と和睦をした上で、遠江に派兵するが敗れている。後に貞朝の娘を娶っているが、和睦は長くは続かなかった。
 永正3年(1506年)父の定基と共に今川氏親や伊勢宗瑞の要請に応じて三河国に出兵した。
 天文3年(1534年)、府中家の小笠原長棟(貞朝の子)に松尾を攻められると、敗れて甲斐国に逐電し武田氏を頼った。 

小笠原信嶺 小笠原政信

 『諸州古文書』によれば、永禄元年(1558年)6月に甲府に人質として送られる。父と同様に武田信玄配下の信濃先方衆として働いた。永禄末年頃までに家督を継承する。永禄5年9月18日には伊那郡飯田城城主の坂西永忠を所領を巡り対立し、信嶺が永忠を信濃木曽郡へ放逐する事件が発生する。
 元亀3年(1572年)11月15日には徳川方の国衆に対して書状を送っており、信嶺は三河国,遠江国,美濃国に対する調略を任されていたことが指摘される。
 元亀4年/天正元年(1573年)4月の信玄死後には当主となった武田勝頼に仕え、同年7月6日には三河長篠城への在番を命じられ、遠江井伊谷を与えられている。信嶺は井伊谷に一族の小笠原忠長や家臣の常葉常陸守らを配置したと考えられている。同年7月には三河の徳川家康が長篠城を包囲し、勝頼は援軍として信嶺らを派遣しているが、同年9月には長篠城を放棄し退去した。天正3年4月には勝頼の三河侵攻に際して、信嶺は山県昌景とともに山家三方衆の案内で足助城など諸城を攻撃し、作手城を経て野田城から徳川方の菅沼定盈を駆逐した。続けて徳川方の二連木城を攻略すると、吉田城を攻撃した。5月21日には織田・徳川勢との長篠の戦いで武田方が敗退すると、信濃へ撤退した。なお、長篠の戦いに至る天正3年の勝頼による遠江・三河侵攻は従来元亀2年4月の武田信玄による西上作戦に伴うものとされていたが、関係文書の年代再考により、これらは天正3年の出来事であったことが指摘される。天正8年(1580年)には駿河三枚橋城の在番にあたった。
 天正10年(1582年)2月には織田信長による甲州征伐がはじまる。同年2月14日に織田方の主将・信忠が岩村城に入ると、松尾城主の信嶺は織田方に帰属し、仁科盛信の拠る高遠城攻めに参加した。信嶺の離反に対し勝頼は人質であった信嶺の母を処刑した。同年3月2日上諏訪で信長に拝謁し旧領を安堵された。
 同年6月、信長が本能寺の変で死去したため、かつて自分の暗殺を狙った飯田城主・毛利長秀を討とうとしたが、長秀は人質であった信嶺の正室を引き渡して尾張へ逃亡した。天正壬午の乱では徳川家康に属し、酒井忠次の家臣として信濃・甲斐の各地を転戦し諏訪頼忠や大道寺政繁など後北条氏の勢力と戦った。長久手の戦いでは小牧の陣営を守備し、小田原征伐にも出陣した。その功績から松尾城などの知行を安堵されるとともに、天正12年(1584年)には、元武田家臣の下条頼安(下条信氏の子)を誘殺するなど支配力の強化にも努めた。
 天正18年(1590年)に家康が関東に入部した際、武蔵児玉郡本庄に1万石を与えられ、本庄城主(本庄藩の藩祖)となる。本庄氏時代の城を廃し、久城掘り西側に新たに城を築き、低地である花の木で生活していた住民を台地へ移住させ、新しい町造りを開始した。
 翌年の天正19年(1591年)には、夫人の兄である甲斐国・永岳寺の救山宗温を迎え、自らが開基となり、畳秀山の開善寺(小笠原氏の菩提寺と同名の寺)を本庄宿の中宿に建立した。
 豊臣秀吉の朝鮮出兵時には九州まで出向いている。伏見城の築城工事の際には人足200人を引率した。慶長3年(1598年)2月19日、江戸で死去。享年52。家督は養嗣子の小笠原信之(三河出身で酒井忠次の3男)が継いだ。

 慶長12年(1607年)、小笠原信之の長男として武蔵国児玉郡本庄城に生まれる。本庄の金鑚神社を深く信仰していたとされる。慶長17年(1612年)に父が本庄藩から古河藩へと加増移封されたことで下総国で育つこととなるが、その後も当地の金鑚神社を信仰していたため、元和年間に当社が洪水被害を受けた際には寄進し、現在地に社殿を建立した。
 慶長19年(1614年)、父の死去により家督を相続した。同年冬からの大坂冬の陣では、伯父・酒井家次の助けを得て出陣し、近江国佐和山城の守備を任された。翌年の大坂夏の陣でも家次の助けを得て出陣し、伏見城の守備を任じられた。
 元和5年(1619年)、下総古河2万石から同関宿に移封された。寛永17年(1640年)7月2日、34歳で死去した。死後、家督は婿養子の貞信が継いだ。 

小笠原長巨

 天正10年(1582年)2月13日、織田氏による甲州征伐では兄の小笠原信嶺が織田信忠に降る際に人質として供出され、本能寺の変直後の同年6月14日には菅沼藤蔵を仲介して、信嶺と共に駿府城で徳川家康に拝謁する。豊臣秀吉恩顧の大名である飯田城主・京極高知の形勢を伺い、徳川方に対して謀反の気配がないことを報告した。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは山村良安,千村良重に加勢し美濃苗木城,岩村城を攻撃した。小笠原信之が本領の伊那郡松尾への帰住を拒むと家康の怒りを買い、松尾仕置として長巨が武蔵本庄から伊那郡伊豆木1000石に移封し伊豆木陣屋を築く。また高遠領保科氏、飯田領小笠原氏等の伊那谷の新領主が定まるまで、伊那郡10万石を一時的に預かった。
 慶長19年(1614年)大坂冬の陣では箱根関を守衛し、元和元年(1615年)大坂夏の陣では松平乗寿軍に属し、枚方に帯陣した。