清和源氏

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小笠原貞朝 小笠原長棟

 文明年間には在京して将軍・足利義尚の弓馬師範を務めた。文亀元年(1501年)、父の長朝が没し家督を継承する。同年、尾張守護・斯波義寛の要請に応じて遠江国二俣に遠征し、今川氏親と戦った。この時、斯波義寛の意向で対立する松尾家の小笠原定基と和睦するが、後に定基は今川方について三河国に出兵する。その後、永正6年(1507年)頃に改めて貞朝の娘を松尾家の貞忠の妻にすることで和睦を図っている。
 永正元年(1504年)、家臣の島立貞永に命じ、同じく小笠原家中の坂西氏の居館跡に深志城を築城させたとされる。長男の長高を廃嫡し、次男の長棟に家督を継がせた。 同12年(1515年)没、享年55。著書として『和礼儀統要約集』がある。

 林城を本拠とする府中小笠原氏出身。永正9年(1512年)、父の貞朝を師範として弓馬礼法を伝授され、永正12年(1515年)、父の死没に伴い家督を継承する。享禄元年(1528年)、将軍・足利義晴の命を受け上洛する。
 智勇に優れた人物で、天文2年(1533年)7月、高遠頼継,知久氏の軍勢を伊那谷に破ると、天文3年(1534年)、対立する伊奈(松尾)小笠原氏の当主・小笠原貞忠を打倒し甲斐国に追放し、分裂していた小笠原氏を統一した。また弟の信定を鈴岡城に入城させた。天文8年(1539年)、敵対していた諏訪頼重と和睦するなど、小笠原氏の戦国大名としての基礎と最盛期を築き上げた。
 しかし後継の子に恵まれず、弟の長利を養子とした。その後に長時が誕生し、やがて長利と不和となったため、長利は小笠原の家を離れ安曇郡に移る。そして小笠原家とは対立関係にあった村上氏配下の香坂氏に身を寄せて大日方氏を称したと伝えられる。
 天文10年(1541年)に長棟は出家して、嫡男の長時に家督を譲った。天文11年(1542年)の長棟の死後、8年で信濃小笠原家は武田晴信により滅亡に至った。

小笠原長時 小笠原吉次

 永正11年(1514年)10月23日、小笠原長棟の長男として生まれる。大永6年(1526年)元服し、家督を継いだのは天文10年(1541年)、父・長棟が出家したときと思われる。
 武田晴信(信玄)が信濃経略を開始すると、常に反武田氏勢力と手を結んで反抗したが、敗れている。天文14年(1545年)、長時の妹婿・藤沢頼親が武田軍に攻められ、これの救援に赴くも惨敗。天文17年(1548年)2月の上田原の戦いで武田方が村上義清に敗退すると、7月には機に乗じて諏訪郡へ侵攻する。さらに塩尻峠へ進撃して武田軍と戦うが、このときの戦いで家臣の裏切りにあい、迎撃する武田方との塩尻峠の戦いに大敗した。そして信玄に領国も追われ、大名としての小笠原氏は一時、滅亡した。
 その後、長時は村上義清、次いで越後の上杉謙信を頼った。そして同族の三好長慶を頼って上洛し、将軍・足利義輝の騎馬指南役を務めた。しかし永禄6年(1564年)に三好長慶が病死し、永禄7年(1565年)に足利義輝が暗殺され、さらに永禄11年(1568年)に織田信長が上洛して三好氏が没落したため、再び上杉謙信を頼った。
 天正6年(1578年)の謙信死後は越後を離れて流浪した末、天正11年(1583年)2月25日、会津の蘆名氏のもとで病死した。享年70。前年の天正10年(1582年)に宿敵・武田氏が織田信長に滅ぼされ、3男の小笠原貞慶が旧領に復帰しており、長時も旧領復帰への準備をしていたが、その最中に怨恨を抱いていた家臣に殺されたという説もある。

 父の長隆が天正3年(1575年)に没すると、引き続き松平家忠に仕え、関ヶ原の戦い後に家忠の跡を継いだ松平忠吉(徳川家康4男)が尾張国清洲城52万石に入部されると、家康の命でその付家老となり、犬山に所領を与えられた。このとき、吉次は犬山城を近世城郭にまで成長させ、城下町も整備した。慶長12年、忠吉が没すると江戸に召し返される。
 吉次はその後、下総国佐倉2万2000石を経て常陸国笠間3万石に移封されたが、慶長14年(1609年)3月26日に私曲連座によって改易された。これは江戸に召し返されるとき、忠吉付で自らが支配していた甲州武川衆の与力給を自身の家臣にしようと領地高に組み入れ、このことに反発した武川衆が家康に直訴したことが露見したためという。また、忠吉の後に尾張に入った徳川義直の付家老・平岩親吉と不和になったことも不正発覚の発端となったという。姫路藩池田氏に仕えていた次男の長光も同時に追放された。
 その後、武蔵国都筑郡池辺村にて余生を送り、1616年に69歳で死去した。次男の長光は池辺村に父とともに住し、元和6年(1620年)に没した。子孫は江戸幕府旗本。

小笠原吉光 小笠原貞慶

 父が徳川家康の4男・松平忠吉の付家老となったため、吉光も忠吉に仕えた。男色にて寵愛され、武に優れた家臣団を与えられ14,000石を知行していた。石川吉信,稲垣将監らと共に藩政を取り仕切っていたが、突然出奔し奥州松島の寺に蟄居した。
 しかし、翌年の慶長12年(1607年)に忠吉が没したとの報告を受けた吉光は、松島から4日で江戸に急行した。前日に父との再会を果たしたのちに、忠吉の菩提寺となった増上寺で殉死した。これは主君の生前に、石川,稲垣らと共に約束したことであり、2人は既に殉死していた。吉光は香を焚き、茶筅髪に白小袖と長袴の姿で寺の庭に出ると、立ったまま切腹し、生前から定めておいた介錯人(旧友である山内真次。山内に不都合がある場合は服部小膳)の手による介錯を受けたと伝わる。墓碑銘に「旧果一感之墓」とある。殉死の際、吉光家臣で松島蟄居時も傍に仕えた中川清九郎(佐々記内)も、吉光の数度の制止も聞くことなく、19歳にして吉光の後を追い殉死した。山内真次は介錯の際、礼の太刀・二の太刀の二刀で友の首を打ち落とした。江戸在中の伊達政宗がこの様を見物し、介錯人のよく故実を知ることを誉めたという。

 父・長時の時代に甲斐国の武田晴信(信玄)が信濃侵攻を開始し、長時は小県郡の村上義清らと共に武田氏に対抗するが、天文17年(1548年)の塩尻峠の戦いにおいて敗退すると、以後、諸国を放浪した。『小笠原系譜』などの系譜史料に拠れば、長時親子は信濃没落後に上杉氏(越後長尾氏)を頼り、越後国へ逃れた後、伊勢国を経て京へ逃れ、京都小笠原氏や三好氏を頼ったという。京において長時親子は信濃復帰を望み運動している。
 長時は長慶の死後、越後国の上杉謙信のもとへ再び寄寓した後、会津蘆名氏のもとに寄寓し、天正7年(1579年)会津を訪れた貞慶に家督を相続させた。一方の貞慶は京に残り、将軍・足利義昭に仕えた。永禄12年(1569年)の本圀寺の変では三好三人衆軍の一員として多聞山城に籠城したが織田信長に敗れ、更に元亀4年(1573年)に信長が義昭を追放すると、天正3年から同9年ごろにかけて、信長の使者として東国諸大名への対武田,対上杉,対後北条交渉を担当し、信濃筑摩郡に所領を約束された。天正10年(1582年)の甲州征伐では深志城を落城させた織田長益に拝謁したが、小笠原旧領は木曾義昌に安堵されたため、その回復は実現しなかった。同年6月の本能寺の変で信長が横死した後の天正壬午の乱において旧領回復を狙い徳川家康の家臣となる。
 北信ではこの頃、伯父の小笠原洞雪斎が上杉景勝の後援を受けて木曾氏を追放し深志城を押さえていたが、小笠原旧臣は上杉氏の傀儡であった洞雪斎から離れていたと言われ、貞慶は徳川氏や小笠原旧臣の支援を得て深志城を奪還する。これにより大名として復帰を果たした。その際、長男の小笠原秀政を人質として差し出し、家康の宿老であった石川数正に預けられた。またこの時、深志城を松本城と改名している。
 天正11年(1583年)には筑摩郡北部の青柳城,麻績城を上杉氏と争い、天正12年(1584年)には木曾義昌の本領木曽福島城を攻めた。
 天正13年(1585年)、突如として数正が人質の秀政を引き連れて豊臣秀吉の元へ出奔すると、貞慶もそれに従って豊臣氏の家臣となった。一説に、貞慶が真田昌幸とともに秀吉と内通していた形跡があって、その内通が家康に発覚したことによって、責任を問われたことが数正の出奔の一因になったともする。しかし『三河物語』や『松平記』では数正が天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったと記述されており、依然として数正の出奔が、貞慶の徳川氏離反の直接の原因である可能性も残される。
 天正18年(1590年)、小田原征伐で前田利家軍に従って軍功を挙げた。この功によって、秀吉から讃岐半国を与えられたが、九州遠征の際に秀吉に追放された構われ者の尾藤知宣を客将として庇護していたことが露見したため、秀吉の怒りを買って、所領を全て没収されて改易された。松本の所領は石川数正に与えられた。
 その後、子の秀政とともに再び家康の家臣となり、家康の関東入りに従って、秀政の領地として与えられた下総古河3万石に移った。文禄4年(1595年)に死去。享年50。茨城県古河市の隆岩寺に供養塔がある。

小笠原信定 小笠原洞雪斎
 府中小笠原家の一族。鈴岡城主。民部大輔。分家である松尾小笠原家に対抗するため父と兄により派遣され、鈴岡小笠原家を再興する。兄の長時が敗北した後も、伊那地方に拠り抵抗を続けたが、1554年に武田晴信の伊那侵攻の前に敗れた。兄とともに三好氏を頼り、その客将となる。永禄12年(1569年)、三好一族と共に足利義昭を本国寺に襲撃するも敗れ、信定は戦死する。

 信濃国林城に生まれる。戦国期に信濃守護小笠原氏は甲斐の武田晴信(信玄)の信濃侵攻に際して没落する。洞雪斎も兄の長時や甥の貞慶とともに信濃を追われ、三好氏を頼って京都へ亡命する。永禄12年(1567年)1月6日の本圀寺の変の際に洞雪斎も長時,貞慶らと三好方に属するが、この合戦において敗退している。その後は越後国の長尾景虎(上杉謙信)の後援を得て武田氏に対抗した。
 天正10年(1582年)3月に織田・徳川連合軍の武田領侵攻により武田氏が滅亡し、さらに同年6月の本能寺の変により甲斐・信濃をめぐる「天正壬午の乱」が発生すると、信濃川中島四郡を支配する織田氏家臣・森長可が信濃を退去する。これにより越後の上杉景勝は空白地域となった北信地域へ進出する。洞雪斎は景勝に擁立され、信濃筑摩郡の小笠原旧臣や、安曇郡の仁科氏遺臣の勢力を結集し、織田信長から両郡を安堵されていた木曾義昌の追放を画策した。洞雪斎の擁立に際しては、旧小笠原家臣の二木氏一族が仲介したという。また武田氏に属していた大日方一族が貞慶方と洞雪斎方とに分かれたと言われる。
 景勝は洞雪斎に家臣の梶田,屋代の両名200騎余を附属させ、木曾義昌を放逐して深志城(松本城)を奪還する。洞雪斎が深志に帰還した時期は同年6月のこととされ、7月初旬までに入城していたと考えられている。筑摩・安曇両郡の在地領主は義昌の支配を嫌い洞雪斎に協力したが、深志城奪還後の実権は梶田・屋代両名が握っていたため、洞雪斎の求心力は低下したという。
 こうした状況のなかで、小笠原旧臣は三河岡崎において徳川家康の後援を受けていた貞慶を擁立する。同年7月16日に貞慶は深志城攻めを開始し、洞雪斎は貞慶側との交渉により梶田・屋代とともに深志城を明け渡した。洞雪斎のその後の動向は不明であり、小笠原氏の記録によれば越後へ亡命、もしくは戦死したとされるが、天正16年(1588年)まで上杉氏の庇護下で活動していることが知られる。

小笠原長高 小笠原氏興

 別名は豊松丸,彦五郎。官位は 右馬助,左京大夫。馬伏塚城主。信濃守護の小笠原氏の一族。高天神小笠原氏の祖とされる。
 父の貞朝は、先妻の武田氏との間に生まれた長男の長高を廃嫡し、後妻の海野氏との間に生まれた次男の長棟を偏愛し、後継者とした。廃嫡された長高は尾張知多郡に出奔して、後に三河幡豆郡に移り、吉良義堯、ついで今川氏親に仕官する。遠江国浅羽荘を領し、馬伏塚城に住する。享年57。法名は浄願。長男の小笠原春義が家督を継いだ。

 氏興は今川義元に仕えていた。しかし、義元が桶狭間で戦死したため、義元嫡子・今川氏真が家督を嗣ぐ。しかし、氏真は凡庸な当主だったために甲斐の武田信玄に甲相駿三国同盟を破棄されて駿河に攻められ、さらに三河の徳川家康までもが遠江に侵攻して来ると、氏興は家康に内応して主君・氏真が籠城する掛川城を攻撃した。氏真はかなわず掛川城を撤退し、小田原の後北条氏のもとに亡命した。
 その後は家康に仕えたが、後に馬伏塚城にて病死した。高天神小笠原家の家督は息子の小笠原長忠が継承した。

小笠原信興 小笠原義頼

 信興(長忠)は、春儀の孫にあたる。父の氏興は今川氏の家臣として仕えていた。今川義元とその子である今川氏真に仕えるが、永禄11年(1568年)に甲斐国の武田信玄による駿河侵攻により今川氏が没落すると、遠江国の支配を今川氏から奪った三河国の徳川家康に属し、武田領国となった駿河との最前線にあたる高天神城主となる。永禄12年(1569年)に家督を継ぐ。
 家康に仕えてから、元亀元年(1570年)の金ヶ崎の戦い,姉川の戦いなどに参加して武功を挙げた。元亀2年(1571年)3月の武田氏の大規模な遠江・三河侵攻では武田方が大軍を率いて高天神城に攻めて来るが、長忠はわずかな兵力で籠城し、武田軍を撃退した。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いにも参加している。
 天正2年(1574年)6月、武田勝頼が大軍を率いて高天神城に攻めて来る。このとき、長忠は家康に援軍を要請したが、家康は武田軍を恐れて援軍を出さなかったため、やむなく長忠は勝頼に降伏した。長忠は駿河庵原郡,富士郡(鸚鵡栖)において1万貫と国替されている。
 高天神城主を離れて以降は駿河東部における動向が確認されるのみで文書には見られず、天正2年(1574年)に勝頼に降伏した後、ほどなくして病死したとも言われている。『北条記』によれば、天正10年(1582年)の武田氏滅亡後、北条氏政を頼って小田原に逃れたが、ここで織田信長の命令を受けた氏政によって殺されたとされている。さらに氏政に保護されていたが、天正18年(1590年)に北条氏が滅亡したとき、家康によって捕らえられ、処刑されたとされている。

 小笠原春義(春儀,春茂)の4男で、小笠原氏興(氏清)の弟。子に小笠原義信がいる。母は今川氏親の娘。高天神小笠原家の当主。
 兄の氏興と共に今川氏真に仕えたが、凋落しつつあった今川家は甲斐の武田信玄に甲相駿三国同盟を破棄されて駿河を攻め取られ、さらに三河の徳川家康までもが遠江に侵攻して来ると、永禄12年(1569年)に高天神小笠原氏は家康に内応して、主君・氏真が籠城する掛川城を袋井方面から攻撃し戦功を上げた。以降は徳川氏の傘下となる。
 天正2年(1574年)甥の小笠原信興(氏助,長忠)が守る高天神城を武田勝頼が攻めると(第一次高天神城の戦い)、窮地の信興は浜松城の家康に救援を要請し、義頼の兄の(弟とする場合有)清広を人質に供出するが家康は援軍を出さず、見捨てられた高天神城は開城し、信興は武田方の傘下となった。しかし義頼は同心する他の一族と共に家康の傘下であり続けた。居城の馬伏塚城には新たに大須賀康高が入り、さらに天正6年(1580年)康高が城東郡横須賀城に移されると、義頼も随行した。のち本領3000石を知行。致仕後は出家して道鉄と号した。享年79。妻は武藤氏。
 元和2年(1616年)、子の義信がのちに徳川御三家となる徳川頼宣に附属し、子孫は紀州徳川家の家臣となった。頼宣が紀州に移される前、駿河国駿府城主として遠江も支配下としていたことから、紀州藩には遠江国系の家臣が多い。