清和源氏

G454:小笠原貞朝  源 義清 ― 小笠原長清 ― 小笠原長忠 ― 小笠原政康 ― 小笠原貞朝 ― 中島宗延 G458:中島宗延

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中島明延 茶屋四郎次郎清延
 信濃守護・小笠原長時の家臣であった中島宗延の子の明延が武士を廃業し、大永年間(1521~27年)に京に上って呉服商を始めたのがはじまりとされる。「茶屋」の屋号は将軍・足利義輝がしばしば明延の屋敷に茶を飲みに立ち寄ったことに由来する。茶屋家は屋敷を新町通蛸薬師下るに設け、160年にわたって本拠とした。  上京して京都に居を構えて商売を始めた「茶屋家初代」とされる。本能寺の変の際、堺に滞在中であった徳川家康一行に早馬で一報し、後世に「神君伊賀越」といわれた脱出劇の際、物心ともに支援を行った。この恩により、徳川家康の御用商人として、徳川家の呉服御用を一手に引き受けるようになった。
茶屋四郎次郎清忠 茶屋四郎次郎清次
 父の地盤を引き継ぎ、徳川家御用達商人をつとめた。豊臣秀吉死後、徳川家康の権勢が絶大になるに及び、清忠も「淀川過書船支配」など京・大坂の物流の取締役に任命され、優遇されるようになる。江戸幕府開設後も御用達商人となる一方、京都町人頭にも任命され権勢を誇る。しかし若くして早世した。

 兄の急逝のため江戸幕府の命で急遽跡を継いだ。江戸幕府の御用達商人を引継ぎ、長崎代官補佐役などを務める。1612年、朱印船貿易の特権を得ることに成功し、主にベトナム北部に船を派遣し莫大な富を得た。角倉了以の角倉家,後藤四郎兵衛の後藤四郎兵衛家とともに京都町人頭を世襲し、「京の三長者」と言われた。その財産によって茶道具を蒐集し、芸術のパトロンとなったり、本阿弥光悦らと親しくするなど芸術支援にも熱心であったが、35歳の若さで死去。
 家康の死の原因とも言われる「鯛の天ぷら」を家康に勧めたのは清次とされる。しかし鎖国後は朱印船貿易特権を失い、以後は呉服師,生糸販売を専業とするようになる。

茶屋四郎次郎延国
 10代・延国(延因)時代の1800年(寛政12年)には納入価格をめぐって呉服御用差し止めを受け、1807年(文化7年)に禁を解かれたものの以降はふるわず、明治維新後間もなく廃業した。