宇多源氏

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京極高次 京極忠高

 永禄6年(1563年)、京極高吉と浅井久政の娘で長政の姉(京極マリア)の長男として、浅井氏の居城である近江の小谷城京極丸で生まれ、幼名は小法師と称した。父の高吉は足利義昭に仕えていたが、義昭と織田信長が対立した際に出家し、高次は美濃へ人質として送られ幼少期を過ごす。元亀4年(1573年)7月には宇治の真木島城に篭もる義昭を攻めた信長に従い、近江奥島5000石を与えられる。
 天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、高次は妹の龍子が嫁いでいた若狭の武田元明と共に光秀に属し、羽柴秀吉の居城である長浜城を攻めるが、13日の山崎の戦いで光秀は秀吉に討たれ、19日に元明は自害し、高次は若狭の武田領へと逃れる。その後、秀吉の側室となった姉・龍子の嘆願などにより許され、秀吉に仕えることとなり、天正12年(1584年)に近江高島郡2500石を与えられる。翌々年には高島郡5000石へと加増された。さらに同年の九州攻めの功により高島郡で大溝1万石を得、大溝城も与えられ、初めて大名となった。天正15年(1587年)、信長の妹である市の娘で従兄弟でもある初を正室とする。 天正18年(1590年)、小田原攻めの功により近江八幡城2万8000石となり、文禄4年(1595年)には大津6万石へと加増され左近衛少将に任ぜられ、翌年には従三位参議に任ぜられる。この頃の高次の出世は自身の功では無く、妹や妻の尻の光(閨閥)に拠ったとされ、高次は陰で蛍大名とささやかれたと伝わる。
 豊臣秀吉が亡くなった後の慶長5年(1600年)、高次は徳川家康と石田三成双方からの誘いを受け、大津城の守りが弱いことから一旦は西軍へ属することを決め、大坂へ嫡子の熊麿(京極忠高)を人質として送り、大津城を訪れた三成と酒を酌み交わす。そして関ヶ原への出陣に備えつつ、西軍の動向を東軍に伝える。
 9月1日、高次は西軍と共に大津城を発ち、2日には越前の東野へと至るが、ここから海津を経て船で大津城へと戻る。3日、城に兵を集め兵糧を運び込み、籠城し西軍を抑える旨を家康の重臣である井伊直政に伝える。高次の裏切りに対し西軍の立花宗茂,毛利元康軍が大津の町へと攻め寄せ、11日夜には京極家臣の山田大炊,赤尾伊豆らが夜襲をかけ戦果を得るが、12日に堀は埋められ、13日には総攻撃を受け、高次自身も応戦するが2ヶ所に槍傷を受け、三の丸、続いて二の丸が落ちる。14日、北政所の和平の使者・孝蔵主を受け、老臣の黒田伊豫の説得もあり、夜になって降伏した。15日朝には城に近い園城寺で剃髪し、70人程の兵と共に宇治へと去り、その後、紀伊の高野山に入った。15日朝には関ヶ原の戦いが始まっており、正午過ぎには軍が総崩れとなったため、高次の篭城により足止めされた毛利元康および立花宗茂らは関ヶ原に参陣できなかった。
 関ヶ原の戦いの後、徳川家康は高次の功績を高く評価し、高次は井伊直政からの使者を受け早々に高野山を下りるように伝えられる。始めはこれを断ったが、更に山岡道阿弥を送られ、それに弟の高知も加わった説得を受けて下山し、大坂で家康に会い若狭一国小浜城8万5000石へ加増転封され、慶長5年(1600年)10月に小浜に入り、翌年には近江高島郡の内7100石が加増される。
 小浜では、従来の後瀬山城を廃して日本海と北川と南川に囲まれた雲浜に小浜城を築く。また、後瀬山の麓に残った城跡と武家の屋敷を町屋として街路を整備し、新たな街区を設けるなど、城下町を整備した。

 初代藩主・京極高次の庶長子。正室は江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の4女・初姫(高次正室・常高院の養女)。幼名は熊麿。慶長14年(1609年)、父の高次が死去したため、若狭小浜9万2000石(若狭一国)を相続した。
 慶長19年(1614年)の大坂の陣では徳川方として参戦し、冬の陣での講和は、義母の常高院を仲介として京極忠高の陣において行われる。寛永元年(1624年)には越前国敦賀郡が加増された。
 寛永11年(1634年)には、毛利家に対する押さえとして、京極氏が室町時代に守護をつとめた出雲国・隠岐国2ヶ国へ加増転封となり、石見銀山も当てられる。
 将軍家姻戚として優遇された京極家だったが、正室・初姫との夫婦仲はよくなかったとみられる。寛永7年(1630年)に初姫が死去した際は、忠高は臨終に立ち会うこともなく相撲見物に興じていたと伝えられる。このため舅である大御所・秀忠の怒りを買い、初姫の葬儀は秀忠により徳川家所縁の小石川の伝通院にて執り行われ、忠高をはじめ京極家関係者は葬儀への臨席を許可されなかった。 寛永14年(1637年)、45歳で死去。嗣子がなかったため、京極氏は改易されかけたが、それまでの徳川家に対する忠義を考慮されて、甥に当たる京極高和が播磨龍野に6万石の所領を与えられることで大名として存続を許された。正室・初姫との間に子供をなさなかったが、側室との間に一女をもうけた。墓所は滋賀県米原市清滝の清滝寺。天慶道長玄要寺。

京極高和 京極高豊

 1637年(寛永14年)、松江26万石の藩主であった伯父の忠高が嫡子を残さずに亡くなったため、その末期養子となり、播磨龍野6万石へと減封される。1658年(万治元年)に讃岐丸亀5万石と播磨揖保郡網干1万石の計6万石に移封となる。1660年(万治3年)には讃岐にあり、広く信仰されていた金毘羅大権現を江戸三田の藩邸に勧請し、参拝を願う江戸の町民に応え、毎月10日には邸内を開いて参拝させた。また、この年には丸亀城の天守閣を完成させる。
 1662年(寛文2年)に京都において44歳で亡くなり、徳源院恃英遺達大居士との法名を贈られる。墓所は滋賀県坂田郡山東町の徳源院。跡を次男の高豊が継いだ。

 1662年(寛文2年)に父の死により家督を継いだ。1664年(寛文4年)、曾祖母・常高院の所領であった近江蒲生郡内の1400余石を加増され、義兄・京極高房へこのうち3000石を分知した。1672年(寛文12年)、幕府に請願し播磨国の所領2村と近江を交換し、同地にあり京極氏の菩提寺であった近江清滝寺を復興、付近に散在していた墓碑を一ヶ所に集めて整理し三重塔を寄進し歴代当主の墓を集めて並べ、院号を父の法名に基づき徳源院と改めた。 1674年(延宝2年)、桜田久保町に上屋敷を建設し、駿河台狩野派の絵師・田中八兵衛に鳳凰,牡丹,菊,四季山水,吉野竜田などを題材にする華やかな屏風類を製作させた。高豊は絵画に非常に堪能であったといい、野々村仁清にこの屏風絵をそのまま描いた壷を発注した文書が残り、その芸術的才能の片鱗をうかがわせる。仁清窯と京極家の関わりはこの高豊に始まるという。  1676年(延宝4年)に丸亀城に移る。1688年(貞享5年)には城下町近くの下金倉村に大名庭園を築き万象園と名付ける。京極氏の故郷である近江の琵琶湖を模した池を中央に置き近江八景を配したこの庭園は日本三大海浜庭園の一つに数えられる。
 1694年(元禄7年)、江戸からの帰国中に天然痘を患い播磨国加古川において40歳で亡くなる。跡を5男・高或が継いだ。

京極朗徹

 丸亀藩の第7代(最後の)藩主。丸亀藩京極家9代。文政11年(1828年)9月17日、京極氏一族の京極高周(右近)の5男として丸亀城で生まれる。天保15年(1844年)2月23日に第6代藩主・京極高朗の養子となり、2月25日には婿養子に迎えられた。嘉永2年(1849年)12月16日、従五位下・佐渡守に叙位・任官する。嘉永3年(1850年)3月7日、高朗が隠居したため、家督を継いで第7代藩主となる。
 財政再建のため、奢侈を戒めて倹約令を出し、産業奨励、輸入の制限、不正の厳罰化、上納米の督促、銀札の一部発行停止などを行っている。幕末の動乱の中では尊王派として行動し、御所警備のためにたびたび出兵した。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは、隣藩の高松藩が朝敵に指名されると、新政府の命令で土佐藩・多度津藩と共に高松藩の追討にあたったが、高松藩主・松平頼聰から新政府に対して赦免を嘆願してもらうように仲介を依頼されて、新政府に取り次いで頼聰を赦免させている。
 明治2年(1869年)2月に諸藩に先駆けて版籍奉還を願い出て、3月19日に丸亀藩知事に任じられる。その後、藩士の知行削減などの改革を行なった。明治4年(1871年)3月、諸藩に先駆けて廃藩置県を願い出て、4月10日に丸亀藩は廃藩となって丸亀県となり、朗徹は丸亀県知事に任じられた。しかし、4ヶ月後の8月15日に県知事を辞職して東京へ移った。
 明治15年(1882年)5月11日に死去。享年55。甥で養子の京極高徳(久治郎)が跡を継いだ。