宇多源氏

G758:京極氏信  源 雅信 ― 源 扶義 ― 佐々木定綱 ― 佐々木信綱 ― 京極氏信 ― 京極高氏 G759:京極高氏

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京極高氏(佐々木道誉) 京極秀綱

 検非違使として京都に滞在していたと考えられており、後醍醐天皇の行幸に随行している。鎌倉幕府では執権・北条高時に御相供衆として仕え、高時が出家した際には供に出家して導誉と号した。
 元弘元年(1331年)に後醍醐天皇が討幕運動を起こし、笠置山に拠った元弘の乱では幕府の鎮圧軍に従軍し、主に京都において事後処理を担当した。捕らえられた後醍醐天皇は廃され、供奉する阿野廉子,千種忠顕らが隠岐島へ配流された際には道中警護などを務める。河内国で楠木正成らが反幕府活動を続けており、北条氏は足利尊氏(高氏)らを討伐に派遣するが、導誉は鎌倉の北条氏討伐を決意した尊氏と密約して連携行動を取ったともされ、軍事的行動に参加した形跡は無い。元弘3/正慶2年(1333年)5月9日、近江国番場で東国へ退却中の北条仲時の軍勢を阻み、蓮華寺で一族432人と共に自刃させた。その際、光厳天皇や花園上皇を捕らえ、天皇から三種の神器を接収している。足利尊氏,新田義貞らの活躍で鎌倉幕府は滅亡し、入京した後醍醐天皇により建武の新政が開始されると、雑訴決断所の奉行人となる。
 建武2年(1335年)の中先代の乱では、鎌倉を占領した時行勢の討伐に向かう尊氏に導誉も従軍している。その恩賞として上総国や相模国の領地を与えられている。後醍醐天皇は鎌倉の尊氏に対して上洛を求めるが、これに従わず、遂には新田義貞に尊氏・直義に対する追討を命じた綸旨が発せられるが、建武政権に対して武家政権を樹立することを躊躇する尊氏に、導誉は積極的な反旗を勧めていたともされる。尊氏は箱根・竹下の戦いなどで新田軍を破り京都へ入るが、奥州から下った北畠顕家らに敗れた足利勢は一時的に兵庫から九州へ逃れた。このとき導誉は近江に滞在して九州下向には従っていないともされる。
 尊氏が九州から再び東上し湊川の戦いで新田・楠木軍を撃破して京都へ入り、武家政権(室町幕府)を樹立させると、道誉は近江・飛騨・出雲・若狭・上総・摂津の守護を歴任した。延元2/建武4年(1337年)、勝楽寺に城を築き、以降、没するまで本拠地とした。興国元/暦応3年(1340年)には子の秀綱とともに白川妙法院門跡・亮性法親王の御所を焼き討ちし、山門宗徒が処罰を求めて強訴すると朝廷内部でもこれに同情して幕府に対して導誉を出羽国に、秀綱を陸奥国に配流するように命じた。ところが、幕府では導誉の普段の行状に批判的であった足利直義でさえも導誉を弁護して朝廷の命令を拒否、結果的に導誉父子は上総国に配流となるが、その後は幕政に復帰している。幕府においては導誉は引付頭人,評定衆や政所執事などの役職を務め、公家との交渉などを行っている。また、正平3年/貞和4年(1348年)の四條畷の戦いなど南朝との戦いにも従軍している。
 その後も観応の擾乱,北朝再建,将軍権力の強化対し尊氏に進言するなど尽力する。尊氏死去後も2代将軍・足利義詮時代の室町政権においては政所執事などを務め、幕府内における守護大名の抗争を調停し、また、南朝とのパイプを持ち交渉も行った。文中2/応安6年(1373年)に死去、享年78。墓所は京極氏の菩提寺である滋賀県米原市清滝の徳源院、滋賀県甲良町の勝楽寺。
 道誉は南北朝時代の社会的風潮である「ばさら」を好んだとされ、古典『太平記』においては下克上的風潮には批判的であるが、失脚した細川清氏が南朝の楠木正儀らと京都を占拠した際には、自邸に火をかけずに立花を飾り、宴の支度をさせたことや、幕府内で対立していた斯波高経の花見の誘いを無視し、大原野で大宴会を催したことなど導誉の華美な行動が記されている。また和歌・連歌などの文芸や立花・茶道・香道、さらに近江猿楽の保護者となるなど文化的活動を好み、幕政においても公家との交渉を務めていることなどから文化的素養を持った人物であると考えられている。

 延元3年/暦応元年(1338年)には近江守を務めており、北畠顕家が陸奥国より足利義詮の守る鎌倉を落し、京へと攻め寄せた際には、これを迎え撃つべく、高師泰,高師冬,細川頼春,佐々木氏信,父の佐々木道誉らと共に近江と美濃の国境へと赴き、顕家の進軍を阻止する。
 興国元年/暦応3年(1340年)、家臣が光厳上皇の弟である妙法院の御所の僧兵に殴打されたことを怒り、父と共に御所に火をかけ建仁寺を延焼させる。延暦寺は朝廷と幕府に二人の死罪を求めるが、幕府はこれを放置し、延暦寺がさらに強く抗議を行った結果、二人は上総国山辺郡へ一時流される。その道中は道々で酒席を設け宿々で美女を弄び、流人には見えなかったと言う。
 興国6年/康永4年(1345年)には検非違使を務めており、後醍醐天皇を弔う天龍寺の法要が行われた際に警備を担当している。
 正平6年/観応2年(1351年)、観応の擾乱で尊氏とその弟である直義が対立し、直義追討の宣旨を得て近江に布陣した三百騎に満たない尊氏の軍に、父と共に三千余騎を率いて真っ先に参じる。
 正平8年/文和2年(1353年)6月13日、侍所司を務めており、南朝に京を追われ東近江へと逃れる後光厳天皇,足利義詮らを守っていた際に、堅田近くの真野浦にて、新田氏の残党である堀口貞祐に襲われ、戦いの末に討たれた。

京極高秀 京極高詮

 嘉暦元年(1328年)、室町幕府の成立に大きく貢献する佐々木道誉の3男として生まれ、興国6年/康永4年(1345年)に行われた後醍醐天皇を弔う天龍寺の法要に参列している。
 その後、長兄の秀綱と次兄が戦死したため、佐々木氏支流京極氏の嗣子となる。正平16年/康安元年(1361年)には侍所司を務めており、父の諫言により失脚し南朝方として京に攻め入ろうとしていた細川清氏と、摂津国忍常寺において500余騎を持って対するが、戦わずにこれを通した。
 正平20年/貞治4年(1365年)、佐々木一門の宗家である六角氏頼が唯一の跡取を早世により失ったため、高秀は子の高詮を養嗣子として六角氏に出す。しかし、氏頼は、4年後に新たに亀寿丸、後の六角満高をもうけ、その翌年には死去してしまう。このため跡目争いが生じ、細川頼之が管領を務めていた幕府は、高詮に対して、亀寿丸が成人するまでの後見役を命じ、六角氏が代々務めていた近江守護へと任じて争いを収めるが、わずか7年後の天授3年/永和3年(1377年)に高詮は近江守護職を解かれる。この一件は、高秀と細川頼之との確執を深め、後の康暦の政変へと繋がっていったと言われている。なおこの間、文中2年/応安6年(1373年)には父が亡くなり家督を継いでいる。
 天授5年/康暦元年(1379年)に起こった康暦の政変では、美濃の土岐頼康と共に細川頼之の管領罷免を求め近江で兵を挙げ、将軍・足利義満から追討令を受けた六角氏と近江で戦う。そうした中、鎌倉公方の足利氏満も反乱の構えを見せたため、恐れをなした義満は高秀らを許し、高秀は京に上り服従を誓うが、その翌日、斯波義将,土岐頼康らと共に大軍で花の御所を包囲し、再び頼之の罷免を迫り成し遂げる。
 元中7年/明徳元年(1390年)に義満の命により、美濃の土岐康行を討ち、翌年の元中8年/明徳2年(1391年)に64歳で亡くなった。長男の高詮を嫡子とする。3男の高久には近江国尼子郷を与え、高久は後に出雲の戦国大名となる尼子氏の祖となる。

 正平20年/貞治4年(1365年)、佐々木一門の宗家である六角氏の当主・六角氏頼が唯一の跡取を早世により失ったため、高詮は養嗣子として六角氏に赴く。しかし、氏頼は、4年後に新たに亀寿丸(六角満高)をもうけ、その翌年には死去してしまう。このため跡目争いが生じ、高詮は幕府から、亀寿丸が成人するまでの後見役を命じられ、六角氏が代々務めていた近江守護へと任じられる。しかし、わずか7年後の天授3年/永和3年(1377年)に近江守護職を解かれ、高詮は京極氏へと戻る。
 明徳2年(1391年)、父が亡くなり家督と飛騨の守護職を継ぐ。またこの年には、全国66ヶ国中11ヶ国の守護を務めていた山名氏が幕府に背く明徳の乱が起こり、その京内野の戦いでの活躍により、翌年には出雲・隠岐の守護へと任ぜられる。出雲へは甥の持久を守護代として派遣し、その子孫は戦国大名の尼子氏となる。また出雲大社において当時とぎれていた祭事の三月会を復興している。
 応永2年(1395年)には侍所の司を務めており、明徳の乱に敗れ京の五条坊門高倉に潜伏していた山名満幸を討つ。この後には出家し京極浄高と名乗っており、主君である義満の出家に従ったとも考えられる。
 応永6年(1399年)に大内氏が幕府に背いた応永の乱でも活躍し、応永8年(1401年)、出雲,隠岐,飛騨の守護職を子の高光に継がせ亡くなった。京極氏は高詮の代である応永5年(1398年)に侍所の司を務める四職の一つと定めらている。

京極持清 京極高清

 応永20年(1413年)に父の高光が亡くなり、兄の持高が跡を継ぐが、持高は永享11年(1439年)に子を残さぬまま亡くなる。『薩戎記』はこの後に叔父の高数が家督を継いだとし、『西讃府史』は持清が家督を継いだとしている。いずれにせよ、高数は翌々年の嘉吉元年(1441年)6月に起こった嘉吉の乱で、将軍の足利義教と共に、赤松満祐邸でその家臣に討たれる。
 幕府は満祐の追討軍を播磨に発し、その間、持清は京の警護を行うが、8月に嘉吉の徳政一揆が起こり清水坂でこれと戦っている。その後、満祐の追討がなされ、幕府が徳政令を発することにより一揆も治まり、12月に持清は出雲,隠岐,飛騨の守護職を継ぐ。
 文安3年(1446年)に同じ佐々木一門の宗家である六角氏において家督争いが生じ、幕府の命により六角久頼を助けこれを鎮めるが、後に久頼は京極氏との確執を理由に自害し、嫡子の亀寿丸(六角高頼)が跡を継ぐ。
 文安6年(1449年)には侍所の司へと任じられ、以降17年間と長く務める。この間、寛政元年(1460年)には出家しており、翌々年に開いた花会では池坊専慶に立てさせた花が評判になったという。
 応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こると、細川勝元の率いる東軍に家臣で従弟の多賀高忠と共に一万余騎を率いて属し、洛中の花開院塩屋、一条大宮などで西軍と戦う。翌年には西軍についた六角高頼と近江で戦い、その本拠である観音寺城を落とし、さらに翌年には六角氏が代々務めて来た近江守護職を任ぜられる。その後も六角氏との戦いが続く中、文明2年(1470年)に64歳で病死した。生前は従四位上大膳大夫に任ぜられていた。家督は、長男の勝秀が既に亡くなっていたため、勝秀の嫡子と考えられている孫童子丸が継ぐが、これもわずか一年で亡くなり、その後を3男の政経と4男とも勝秀の子ともされる高清が争う。その後、政経が継ぐものの、頭角を現してきた出雲の守護代・尼子経久に出雲を奪われる。そのことにより更なる内紛が起こることになる。

 応仁の乱の混乱を乗り切り、同族との家督争いを経て当主になったが、自身の子の代の家督争いを防ぐことはできず京極氏の衰退を招いた。
 応仁の乱が起こると、持清は、近江で西軍に属した六角高頼と戦うが、その戦いの中文明2年(1470年)に病死する。持清の長男・勝秀と次男・政光は既に亡くなっており、勝秀の嫡子と考えられている孫童子丸が家督を継ぐが、文明3年(1471年)に死去する。その跡目を巡って持清の3男である政経と争い、敗北により越前の敦賀へと逃れる。
 その後、所在を転々とするが、長享2年(1488年)8月に近江松尾での政経との戦いに勝利し、政経を伊勢へと敗走させ、明応元年(1492年)には将軍・足利義材から家督を安堵され、翌年には江北に帰還する。しかし、明応5年(1497年)、助力を得ていた美濃守護代・斎藤利国が亡くなると、再び政経に追われ、美濃海津に寄留する。だが翌々年には京極氏重臣である上坂家信の助力を得て江北へと帰還し、永正2年(1505年)には政経の子である材宗と和解し、ついに家督争いを勝利で終える。
 永正6年(1509年)には上平寺城を築いて居城とし、上坂家信の死後は家信の跡を継いだ上坂信光を頼っていたが、大永3年(1523年)に、高清の後継を巡って、長男の高広を押す浅見貞則,浅井亮政らと、次男の高吉(高次の父)を推す高清,信光らに家中は分かれ、翌年には戦いへとおよび、敗れた高清らは尾張へと逃れる。しかし、その年内には、貞則を下して江北の覇権を手にした亮政に、その居城である小谷城の京極丸へ、長男の高広と共に招かれ饗応される。この一件により江北の実質的な支配者は京極氏から浅井氏へ移ったとされる。高清はその後、余生を上平寺城で過ごし亡くなったとされる。

京極高吉 京極龍子

 京極高清(高秀)の子。妻は浅井久政の娘(京極マリア)。京極氏は室町時代、四職に数えられる名族であり、最盛期は近江・出雲・飛騨の守護であった。しかし、応仁の乱前後の混乱期には内紛で衰えていた。高吉は父の高清に寵愛され、家臣の上坂氏に支持され兄の京極高広と家督を争ったが、浅見氏・浅井氏ら国人達の支持を受けた高広に敗れ、追放された。のち、高広も浅井氏と対立し追放され、下克上にあい国を奪われ、京極氏の衰退は決定的となった。
 追放後の高吉は六角氏の支援のもと、高広と争ったが、のち高広と対立した浅井氏に父と共に迎えられ一時返り咲くものの、傀儡であり結局近江を離れることになる。一時は将軍・足利義輝の近臣として仕えたが、永禄3年(1560年)に権力奪回を目指して、再び近江に戻り六角氏と結んで浅井賢政(後の長政)に対して挙兵するも失敗し、近江における残された支配権を全て失う。
 永禄8年(1565年)に義輝が暗殺されると、弟の足利義昭の擁立に尽力する。だが、義昭が織田信長と対立すると高吉自身は隠居し、子の高次を信長の家臣として仕えさせた。
 天正9年(1581年)、妻とともに安土城にてグネッキ・ソルディ・オルガンティノからキリスト教徒としての洗礼を受ける。だが、その数日後に突如として他界した。高齢のためということもあったのかもしれないが、突然の死去に、人々は仏罰と噂した。

 戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。はじめ武田元明の正室、のち豊臣秀吉の側室となり、松の丸殿,京極殿,西の丸殿と呼ばれた。浅井長政は叔父であり、淀殿,初,江は従姉妹にあたる。 浅井氏の主筋に当たる京極氏の出身だったため、同じく秀吉の側室である淀殿よりも血筋上では名門に連なる。
 初め若狭守護・武田元明に嫁ぎ、2男1女を生む。夫の武田元明は越前一乗谷から帰還後、遠敷郡神宮寺をへて、大飯郡石山において3000石を織田信長より給されたので、龍子も石山において夫とともに平穏に暮らしていた。しかし、兄の高次と夫の元明は本能寺の変後、明智光秀の味方につき、元明は秀吉の軍に討たれてしまう。龍子は捕らえられた後、秀吉の側室となった。小田原城や名護屋城に秀吉が伴っていったり、醍醐の花見でも三番目の輿を使ったりなど、淀殿と杯の順番を争ったのは、後の世の受け継がれている有名な話である。かなり秀吉お気に入りの側室だったようで、肖像画より大変な美女であったと伝わる。
 秀吉の死後、高次の住む大津城に身を寄せた。関ヶ原の合戦後、寿芳院と号して出家し、西洞院に居を構えた。その後も龍子は京から度々大坂へ贈り物をしたり、豊臣秀頼に会いにきていた。秀吉没後も豊臣家の一員として北政所・淀殿と親交をもち続けていた様子が『舜旧記』からも分かる。
 大坂夏の陣の後は、淀殿の侍女(菊)を保護し、また六条河原で処刑された秀頼の息子・国松の遺体を引き取り、誓願寺に埋葬した。寛永11年(1634年)9月1日に死去。墓所は、京都市中京区誓願寺にあったが、現在の墓所は豊国廟。
 京極高次の出世は、この龍子と、彼の正室・初の縁によるところが大きいと思われる。

京極政経 京極高数

 文明2年(1470年)に父の持清が病死すると、その跡目を巡って家督争いが起きるが、持清の孫(政経の甥)の高清との争いに勝利し、出雲・隠岐・飛騨の守護へと任ぜられる。その後、近江守護職も任ぜられ、文明7年(1475年)10月には幕命を受け、延暦寺の僧兵と共に観音寺城下で六角高頼と戦い大勝するが、11月になると西軍に属した土岐成頼,斎藤妙椿らの軍が高頼軍へと加わり、最後は敗れる。文明9年(1477年)に応仁の乱が終わると、翌年には近江守護を解かれ、六角高頼が再び任ぜられた。
 文明14年(1482年)に幕府から、出雲と隠岐において父の代から免除されていた税を要求されるが、守護代の尼子経久がこれに従わず、政経は翌々年に幕命を得て出雲の豪族に経久を追放させ、塩治掃部介を新たな守護代として月山富田城に派遣する。しかし、文明18年(1486年)、月山富田城は経久の奇襲により奪い返されてしまった。
 長享元年(1487年)8月には将軍足利義尚みずからによる六角高頼の征伐軍に加わるが、翌々年に義尚は陣中で病死し征伐は中止される。この間、長享2年(1488年)8月に政経は高清と近江国松尾で戦うが敗れ、家臣の多賀経家と共に伊勢国梅津へ逃れた。
 『佐々木文書』では永正5年(1508年)に吉童子丸へと家督を譲ったとされているが、『西讃府史』では文亀2年(1502年)10月23日に50歳で亡くなったとされている。晩年は尼子経久と和解し出雲に在ったとされ、京極氏代々の事跡を集めた『佐々木文書』はここで尼子氏に移ったとされる。出雲は戦国大名となる尼子氏の領国となる。

 始めは京極高員と称した。応永18年(1411年)に飛騨の国司・姉小路尹綱が幕府に背いた飛騨の変が起きると、幕府軍の総大将へと任命され、越前の朝倉氏,甲斐氏,信濃の小笠原持長らと共に五千余りの兵を率いて鎮圧している。
 翌々年の応永20年(1413年)に兄の高光が亡くなり、その子の持高が跡を継ぐが、持高は永享11年(1439年)に子を残さぬまま亡くなる。『薩戎記』はこの後に高数が家督を継いだとしているが、高数を当主には含めない史料も多い。
 嘉吉元年(1441年)6月24日、赤松満祐が開いた酒宴に将軍の足利義教,諸大名,公家らと共に招かれ、その最中に突然、義教が赤松氏の家臣により暗殺される(嘉吉の乱)。管領である細川持之を始め多くの諸大名が逃げ出す中で、高数はその場に残って戦い討たれた。家督は先代の持高の弟である持清が継いだ。また、次男に多賀氏の家督を継いだ高忠がある。