宇多源氏

G761:京極高知  源 雅信 ― 源 扶義 ― 佐々木定綱 ― 佐々木信綱 ― 京極氏信 ― 京極高氏 ― 京極高知 ― 京極高三 G762:京極高三

リンク
京極高三 京極高直

 慶長12年(1607年)3月17日、丹後国主・京極高知の3男として丹後田辺城で生まれる。慶長16年(1611年)、京都二条城で大御所の徳川家康と、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠に拝謁した。
 元和8年(1622年)に父が死去すると、その所領は高知の三子で分割相続されることとなり、高三は加佐郡3万5,000石を相続し、田辺藩(舞鶴藩)の初代藩主となった。寛永13年(1636年)9月13日に死去。享年30。跡を長男・高直が継いだ。その後、京極家は孫の代で豊岡に転封となったが、娘婿にあたる牧野富成の子孫が田辺藩を継承した。

 寛永13年(1636年)、父の死去により跡を継ぐ。正保4年(1647年)、江戸増上寺の普請や江戸城修築などを務めた。承応3年(1654年)、隣藩である宮津藩主の京極高広と国境などをめぐって争う。高広と高直は伯父と甥でありながら仲が悪かった。藩政においては郷村支配の強化に努めている。
 寛文3年(1663年)正月7日、田辺にて32歳で死去。このとき、家臣が5名ほど殉死している。それだけ高直は家臣を大切にしていたのかもしれないが、殉死の習慣が問題視されて幕府から殉死禁止令が出されたのは、高直の死から4ヵ月後のことであった。跡を長男の高盛が継いだ。

京極高永 京極高品

 兄・高寛が復姓して家督を継いだため、別家の黒田家を継いだ。しかし、享保11年(1726年)に兄が早世し、豊岡藩が一時的に改易される。このとき、祖父の京極高住の尽力もあって、弟の高永が1万5000石に削減された上で家督を継ぐことを許され、藩主となった。
 減封に伴い、藩士を大幅に除籍し、また残った藩士の禄も削減した。また、享保12年(1727年)には、江戸藩邸が全焼する不幸にも見舞われた。高永は藩政を立て直すべく、勝手方に倉持左膳を起用し藩政改革に当たらせた。彼の政策に反対した筆頭家老・石束源五右衛門が藩を去るという事件が起きた。このような失政続きで、宝暦7年(1757年)には強訴も起こっている。
 享保20年(1735年)12月、従五位下・甲斐守に叙任する。細川興文や松平定賢らとも夫人と共に交流を持ち、文化的に交遊している。宝暦10年(1760年)8月12日、豊岡で死去。享年41。跡を長男の高品が継いだ。

 寛保元年(1741年)7月18日、第5代藩主・京極高永の長男として江戸麹町邸で生まれる。宝暦10年(1760年)に父が死去したため、家督を継いで藩主となり、宝暦11年(1761年)に従五位下・甲斐守に叙任する。同年から文武の奨励、倹約の徹底、礼儀の徹底などを中心とした藩政改革を行ない、15ヵ条の触れを出し、藩士の贈収賄を取り締まって綱紀粛正を図り、緊縮財政政策を採用した。しかし、藩主・改革派と守旧派の確執が続き、重臣の脱藩や永蟄居などが相次いだ。
 寛政元年(1789年)に正室と離別し、嗣子が無かったため、弟の高大を養子として迎えていたが、病弱なために寛政2年(1790年)に廃嫡し、改めて峰山藩京極家から京極高有を養子として迎え、寛政3年(1791年)5月10日、「放心に付」であるとして隠居し、家督を高有に譲った。その後、剃髪して甲斐入道と号した。寛政4年(1792年)7月6日、豊岡で死去。

京極高有 京極高厚

 安永4年(1775年)9月26日、丹後峰山藩主・京極高久の5男(異説として次男)として江戸木挽町の屋敷で生まれる。寛政3年(1791年)2月10日に豊岡藩の第6代藩主・高品の養子となり、5月10日の高品の隠居で家督を継いで藩主となった。
 寛政6年(1794年)、大坂加番となる。文政6年(1823年)、藩営の産物会所を開設し、柳行李流通の独占を図り、財政の再建に努めた。しかし、文政8年(1825年)には豊岡町民による産物会所や金銀売買商屋敷の打ち壊しに遭うなどして銀札の暴落を招き、さらに物価上昇も起こって窮民による暴動まで起こって、藩政改革は失敗に終わった。
 天保2年(1831年)5月10日、病気により家督を長男・高行に譲って隠居する。天保12年(1841年)9月18日(異説として7月26日)に死去。享年67。 

 弘化4年(1847年)、父の死去により家督を継いで藩主となり、同時に従五位下・飛騨守に叙任する。嘉永2年(1849年)、駿府加番となり、嘉永4年(1851年)に大坂加番になった。
 文久2年(1862年)、幕末の海防政策として、津居山港に御台場を築き、11インチ砲や10貫砲を備えた。文久3年(1863年)の生野事件では幕府方として活躍し、平野国臣や横田友次郎らを逮捕するという功績を挙げている。
 明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により藩知事となる。明治3年(1870年)、藩校の稽古堂を女学校に改めて、藩士子女の教育化に務めた。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により県知事となる。11月には県知事を廃されて、東京へ移った。明治17年(1884年)、華族令によって子爵となる。その後、従三位・勲四等に叙され、貴族院議員となった。
 明治38年(1905年)12月27日、東京本所邸にて死去。享年77。俳人としても優れていたと言われている。

京極高光

 大正12年(1923年)、関東大震災に遭遇し、姉の智子1人を除き、すべての肉親を失う。これにともない同年12月28日、子爵を襲爵する。このことが少年期に暗い影を落としたが、その一方で拘束の少ない自由な境遇をもたらした。学習院時代、文学趣味のある学友・都志見木吟によって俳句に興味を持つ。
 昭和3年(1928年)、東北帝国大学文学部に進学。翌年、京都帝国大学文学部に移り、1930年に東京帝国大学文学部倫理科に入学する。文学に力を注ぎ、小説家の牧野信一の助言を受けつつ小説の執筆などを試みた。1933年、伯爵・柳沢保承の長女・昭子と結婚、のち6子をもうける。
 1935年より2年間ヨーロッパにて遊学する。1936年4月、渡欧中の高浜虚子を迎えるベルリン日本人会の句会に参加した際に虚子の注目を引く。これをきっかけとして、帰国後はホトトギス発行所の句会をはじめ、各所の句会に参加して俳句の研鑽を積む。
 1937年、宮内省に入省、式部官として勤務する。同年『ホトトギス』11月号にて「香水や時折キツとなる婦人」など3句で初巻頭を飾る。生涯にわたって俳諧詩を作り続け、1940年に推挙されて『ホトトギス』の同人となり、誌上において「静かなる美」、「皮相と内奥」など自らの俳論を発表する。同人の中では、九羊会に属し、虚子の指導を受けた。
 1944年、教育召集令状を受けて朝鮮に渡り平壌にて入隊する。1945年、父祖伝来の地である兵庫県豊岡町に帰郷し、京極家歴代当主の屋敷、亀城館に住んだ。1946年、俳誌『木兎』を地元の俳人の要請で復刊し、没年まで主宰する。また、宮内省を辞して、1946年6月28日、貴族院議員補欠選挙で当選、貴族院子爵議員に転身し研究会に所属して活動したが、翌年5月2日には新憲法施行に伴い貴族院が廃止され議員資格を喪失した。
 豊岡移住以降も、虚子の忠実な門人として師や同門の俳人達と行動を共にすることが多く、虚子が没するまでほぼ毎年、ともに国内各地へ旅して句作を行った。1961年には豊岡移住以降の句から虚子が選んだものを、第2句集『但馬住』として上梓する。この間、『ホトトギス』には9回巻頭に選ばれ、杞陽俳句が確立されてゆく。以降、虚子没後の喪失感の中で詠まれた第3句集『花の日に』、豊岡で詠まれた句が中心の第4句集『露地の月』などがある。1981年、心不全により死去。73歳没。