宇多源氏

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京極高知 京極高政

 丹後藩(丹後宮津)の祖。 関ヶ原の功により丹後一国および丹後守の称号を与えられ国持大名となる。
 当初より豊臣秀吉に仕え、長年の功績により羽柴姓を許されるまでになり、羽柴伊奈侍従と称す。文禄2年(1593年)に義父である毛利秀頼の遺領を継ぎ、信濃伊那郡6万石・飯田城主となり従四位下侍従に任ぜられた。文禄3年(1594年)には10万石に加増された。秀吉の死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)には織田秀信が守る岐阜城攻めに参戦、関ケ原の戦いでも大谷吉継隊と死闘を演じる等、最前線で抜群の戦功を挙げ、戦後、丹後国宮津12万3,000石を与えられて国持大名として京極丹後守と称すことを許された。田辺城に入城後、宮津城に拠点を移す。
 宮津藩は庶流への分封により、宮津藩,田辺藩,峰山藩に三分割された。これにより嫡流は7万8,200石となるが、三代にして改易。その後、子孫が高家として取り立てられ幕末まで続く。田辺藩京極家は但馬豊岡藩へ転封となったが、峰山藩京極家は幕末まで一度の転封もなく丹後の所領を守り通した。峰山藩京極家からは幾人もの若年寄が出、江戸幕府中枢において活躍した。
墓所は、京都府舞鶴市本行寺と京都府京都市北区大徳寺芳春院。

 元和8年(1622年)の父の死去により、丹後京極家の家督と12万3000石の遺領うち7万8200石の領地を継いだ。藩政においては、城郭や城下町の整備・拡大を行なって藩政の確立に務めている。しかし、領民に対して悪政を敷き、承応3年(1654年)に農民が藩外へ逃散している。同年4月23日、子の京極高国に家督を譲って隠居し、安智軒道愚と号して現在の宮津市字安智に1万石の隠居料を持って住んだ。
 しかし、隠居後も藩政に介入したため、高国と対立してしまう。このため寛文6年(1666年)5月3日に宮津藩は改易されてしまった。その後、京都岡崎に閉居し、同地で延宝5年(1677年)4月22日に死去した。享年79。

京極高国 京極高規

 承応3年(1654年)4月23日、父の隠居により家督を継いで藩主となる。しかし、隠居した父が藩政に介入したことから父と対立し、さらに高国自身も寛文元年(1661年)には年貢が納められていないとして、その村そのものを取り潰すなどの悪政を布いた。このため寛文6年(1666年)5月3日、親子不和や悪政を理由に幕命によって改易され、陸奥盛岡藩主・南部重信預かりの身となった。ただし、扶助料として3000俵を与えられた。なお、改易されたとき、家臣の落合主税助らなど一部が宮津城明け渡しに応じず、一時は籠城して徹底抗戦しようとまでしたが、高国が説得することで開城している。このことから、暗君ながら家臣に慕われていた一面があったものと思われる。
 延宝3年(1675年)12月24日に死去。享年60。子孫は旗本となり、室町以来の名族ゆえ、高家に列した時期もあった。

 父が改易されなければ国持大名・丹後宮津藩主だったはずの人物である。曽祖父は関ヶ原の戦いで大功をあげ、家康より丹後一国を与えられた京極高知である。
 明暦元年(1655年)1月28日、将軍・徳川家綱に御目見する。明暦3年(1657年)12月27日には従四位下近江守に叙任する。後に対馬守に改める。寛文6年(1666年)5月3日、父・高国の改易により、藤堂高次のもとに預けられる。扶助料3000俵を賜る。延宝8年(1680年)9月2日赦免されて、母方の実家である伊達家の領地常陸竜崎に暮らす。
 元禄3年(1690年)8月18日、幕府の旗本となり、蔵米2000俵を賜る。寄合に所属する。元禄8年(1695年)12月15日高家職に就き、18日侍従に任官する。元禄10年(1697年)7月26日、あらためて安房朝夷郡などで2000石を賜る。元禄14年(1701年)の浅野長矩の刃傷事件に際し、その刀を奪い取ったとのは自分だと主張をし、梶川頼照と論争を生んだ。宝永2年(1705年)7月25日辞職し、寄合に所属する。11月29日隠居し、養子・高甫(実弟)に家督を譲る。宝永5年(1708年)10月19日死去、66歳。
正妻はいない。2男1女あり。その他に養子2人あり。

京極高福 京極高通
 江戸時代の高家旗本。天保3年(1832年)閏11月5日家督を相続する。天保6年(1835年)11月1日、将軍・徳川家斉に御目見する。天保14年(1843年)6月、上知令により、安房朝夷郡内428石を収公されて、同年8月、下総豊田郡内660石を替地として与えられる。嘉永3年(1850年)10月28日に高家職に就き、従五位下侍従・丹後守に叙任する。慶応4年(1868年)2月22日、明治新政府に服属し朝臣となる。  丹後峰山藩の初代藩主。元和2年(1616年)、徳川秀忠の小姓となり3,000石を賜う。元和8年(1622年)には丹後宮津藩主の父・京極高知の遺領の内中郡1万石を分与され、旧領と併せて峰山1万3,000石を領することとなり、峰山に立藩した。峰山藩京極家は宗家の宮津藩京極家が改易に、同じ支藩である田辺藩(舞鶴藩)京極家が但馬豊岡へと転封になる中、明治時代まで京極高知が徳川家康から関ヶ原の戦いの戦功で拝領した丹後の地を一部とはいえ守り続けた。
京極高久 京極高陳

 峰山藩分家で1000石を領した旗本・京極高庭の4男。母は京極高方の娘。寛保元年(1741年)、第5代藩主・京極高長の養子となり、明和2年(1765年)8月8日の高長の隠居により、その跡を継いで藩主となった。大坂青屋口の加番や大番頭を務めた後の天明8年(1788年)、若年寄に任じられて寛政の改革期の幕政に参与した。このため、峰山藩の藩政は長男・高備が取り仕切ることとなった。寛政3年(1791年)、病気を理由に若年寄の辞任を求めたが許されなかった。
 丹後峰山藩京極家と同じく、藩祖で丹後一国を支配した京極高知の子孫で同族に当たる但馬豊岡藩京極家に5男・高有を養子に出したことでも知られる。文化5年(1808年)4月20日、江戸にて死去し、跡を高備が継いだ。享年80。墓所は京都府京丹後市峰山町吉原の安泰山常立寺。

 幕臣500石で御小姓の京極高紀の次男。慶応4年(1868年)2月12日、11代峰山藩主・京極高富の養子となり、同年5月28日家督を相続した。同年6月14日に従五位下・備中守に叙任される。明治2年(1869年)6月23日峰山藩知事に任命され、明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により峰山藩知事を罷免され、同年9月28日東京へ移った。明治6年(1873年)3月28日、海軍省に出仕し水兵本部課所属となる。同年5月30日海軍少尉に任命される。明治9年(1876年)9月30日隠居。明治14年(1881年)7月9日には離縁となる(実家へ復籍か?)。
 明治26年(1893年)5月13日に56歳で死去したとされるが、異説もある。