宇多源氏

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鴻池直文 山中清直

 父・幸盛は幸元を、山中家の本家にあたる別所氏の家臣・黒田幸隆に預けていた。これは嫡子のなかった幸隆に請われて、幸元を黒田本家の養子することを承諾したためとされる。この黒田一族は加古川の上流黒田庄一円に蟠居しており、幸元も黒田庄で育ったものと考えられている。ところが、父・幸盛は毛利氏によって天正6年(1578年)に討死し、黒田幸隆は同年に豊臣秀吉のため滅びた、実父と養父が反対の陣営にあり複雑であり、そのどちらかの死により居所を捨てねばならなくなり、9歳で流浪の身となった。この前後の詳細は不明であるが、大伯父である山中信直(幸盛の伯父)を頼って伊丹へ落ちのび、養育されたという(そのため、信直は幸元の育ての親であるため鴻池家においては太祖とされる)。成長した幸元は山中氏を称したが、これは5代前の黒田治宗が身を隠していた時期、山中と称していたことにならったという。
 幸元は伊丹の地で遅くとも慶長年間の始めには酒造業を始めており、慶長4年(1599年)には江戸送りを開始している。馬による輸送で、江戸送りの元祖といわれた。折からの江戸時代の始まりと相揃って事業は発展拡張した。商号は地名をとって鴻池屋と号した。特に事業が飛躍した要因としては、清酒を開発したためとされる。『摂陽落穂集』など多数の文献にある清酒の伝承によれば、「鴻池山中屋の店で叱られた手代が、腹癒せに酒樽にかまどの灰を投げ込んだために、濁り酒が豊潤な清酒になった」というものである。本格的な清酒の生産は日本の最初とされる。
 慶長19年(1614年)、最初の家訓である「幸元子孫制詞条目」を定めた。元和年間に次男以下と共に大坂に進出して酒造業を大規模に拡大し、寛永年間には九条島が開発されるやここに拠って海運業を起こし商品運送を始めたが、まもなく江戸幕府による参勤交代の制度ができたことにより、西国大名の運送を請け負って成長した。幸元の生涯を見ると、事業が非常にタイミングよく展開してゆくのがわかる。大坂における本拠地は和泉町であったと思われる。
 幸元は山中幸盛の実子であること、山中家の本家黒田家の跡を継ぐべき立場にいたことなど、自分の出自を秘匿し、「禁戒之一書」「遺訓」にも書き記して子供達にも秘密を命じた。これは、未だその累が及ぶ恐れがあったことと、武士を捨てて事業に生きる時にはその経緯が害にこそなれ益にならずと考えたからである。しかし一度だけ自ら、その禁を犯したことがある。元和元年(1615年)に高野山へ参じ、廃墟に近い状態であった山中幸盛ゆかりの寺・浄智院を再興し上池院と改め、山内に幸盛の墓を建立したという。
 寛永元年(1624年)、山中家先祖伝来の桔梗の家紋を崩し、酒樽の口詰を象って、五輪違の家紋を創案する。俗に五ッ山という。寛永8年(1631年)には『山中氏家名相続定書』を記した。寛永9年(1632年)には自らの肖像画と木像を作らせている。木像の方は筋骨逞しく、表情は精悍、豪傑風の壮年をしのばせているのに対して、肖像画の方は功成り名をとげた円満な晩年を描いている。これらは辞世の準備であったとされる。正保元年(1644年)、高野山にて授戒し、一翁宗円と号す。正保3年(1646年)2月12日に妻・花が享年82で死去。慶安3年12月5日(1651年1月26日)、死去。享年81。墓所は、大阪市中央区中寺町2丁目の顕孝庵、兵庫県伊丹市鴻池の慈眼寺、大阪府池田市の大広寺、高野山奥の院などにある。
 伊丹の本家は7男・新右衛門元英が継承し、大阪の事業は善兵衛秀成,又右衛門之政,善右衛門正成の三兄弟が相続した。 

 元和5年(1619年)に、山中家(鴻池屋)の始祖である父の幸元は、大坂・久宝寺町松屋町に出て酒造業をなして出世し、豪商となった。しかし、清直は、慶長19年(1614年)に早くも家を出て分家し、「小濱山中家」と名乗り、小浜字市場東南角の扇屋を買い取り酒造業を営んだ。酒造業の販路の拡大に努めたため、小浜の清酒は江戸で評判となり、その名は全国に知れ渡った。大坂から妻・於コノを娶るも、寛永4年(1627年)3月3日に死去したため、後妻の於マサと再婚した。
 山中家はその後、2代目・山中六兵衛幸利、3代目・山中吉兵衛まで酒造業を営むも、4代目・山中宗兵衛の代から山中良和と称して医者の道を進み、酒造業を廃業した。

山中秀成 山中秀季
 山中善兵衛家の初代当主。通称は(初代)山中善兵衛と称した。孫には風雅の道に志し、茶道に精進した山中道億がいる。墓所は大阪市中央区中寺町の顕孝庵境内墓地にある。  家業の傍ら茶の湯に精進し、茶人として名をはせ、特に茶器の目利きに秀でた。茶道は村田珠光の流れを汲むというが、千家の茶道とも関係が深く、近衛家煕や住友家,大徳寺などと知遇を得て長次郎作で利休七種茶碗の「東陽坊」、茶入「本能寺文琳」等の300点を超えるという名茶器の収集に励む。
鴻池之政 山中元英

 元和3年(1617年)に鴻池村から大阪和泉町に住まいを移して分家し、醸造業を始め、銘を清水といった。明暦元年(1655年)、弟である鴻池正成の長男・捨吉(鴻池之休)を養子にする。寛文元年(1661年)に一族の協力を得て西高津の廃寺玉泉寺跡に菩提寺顕孝庵を建立し、始祖の山中幸元の木像と肖像画を納めた。
 鴻池家では山中秀成,鴻池之政,鴻池正成を鴻池三家と称した。 

 元和5年(1619年)に山中家(鴻池屋)の始祖である父の山中幸元は、大坂・久宝寺町松屋町に出て酒造業をなして出世し豪商となったが、鴻池村の本家は元英が相続した。元英は本姓に山中を用い、鴻池を屋号として用いた。幸元以降の歴代の山中総本家の当主は山中新右衛門の通称を継承した。
山中良辰 山中元長

 1666年(寛文6年)10月に父の良元が37歳にて死去したために家督を相続した。1675年(延宝3年)、尼崎藩より苗字帯刀・十人扶持を与えられ郷士となり、その御礼として藩主・青山幸実に山中鹿介相伝の家宝である備前兼光の太刀を献上し、さらに藩主より武虎の名前を賜り、以降は山中武虎と名乗った。このように尼崎藩から鴻池村山中本家に対して与えられた身分は、藩主が交代しても引き続き維持された。
 鴻池酒について、元禄14年(1701年)発行『摂陽群談』には、「河辺郡鴻池村で造る、香味の宜しきこと他に勝れたり、因って酒を商う家は、この名を借りて売るほどである。地元では山中酒家と言われている。」と記されているので高い評価があったことを証明している。 

 山中元孚の長男として生まれた。宝暦5年(1755年)7月に元孚が死去したために家督を継ぐこととなり、8代目・山中新右衛門と称した。妻に大坂の両替商・天王寺屋五兵衛の娘を迎えている。
 宝暦10年(1760年)、尼崎藩に藩札の発行を願出て大きく貢献した。この藩札は明和元年(1764年)まで通用していた。天明元年(1781年)の尼崎藩領内の御用銀高をみると、山中新右衛門の割当高は500匁であり、他家の割当高が300匁までの御用金高が殆んどであることから、山中家が如何に富豪であったかが分かる。
 始祖・山中幸元は鴻池村において初めて酒造を行った年に、屋敷内に稲荷祠を設けていたが、宝暦13年(1763年)の秋、台風により祠が崩壊した。そこで天明4年(1784年)に稲荷祠を復旧し、長男の元漸の要望に応えて中井覆軒に碑文を撰し、鴻池稲荷祠碑(稲荷社碑)を建立した。
 寛政2年(1790年)に家督を元漸に譲ったが、寛政6年(1794年)12月4日に元漸が急死し、家督を継いだ孫・元興は同姓であった旗本・山中太良右衛門幸正の猶子となったため、4男である元貞に家督を継いだ。しかし、家政の運営や行動に問題があったため、元長の勘気により寛政8年(1796年)6月に元貞を退身させ、河辺郡大野新田村に閑居させた。元長は再び家督を再相続して、名前を山中新蔵と改めた。
 享和3年(1803年)の『摂州酒樽薦銘鑑』には、鴻池村には2件の酒造家がおり、井筒屋きくと鴻池屋新蔵(山中元長)所持の薦樽が記載されている。そして弟である新九郎の子を養子にしたが、その後の鴻池村の山中本家は14代・山中元丘の代に突然として跡を絶ったとされる。幕末期に鴻池稲荷祠碑(稲荷社碑)は鴻池村山中本家の断絶により荒廃したため、何者かに持ち去られたが、明治年間に今橋鴻池家に買い取られた。
 菩提寺である慈眼寺の境内には山中家代々の墓碑が集められている。その中のひときわ大きな五輪塔が元長の墓石である。墓石といい、鴻池稲荷祠碑の建立、鴻池神社に奉納した木製狛犬、安永2年(1773年)に自らが揮毫した「蔵王権現」の扁額といい元長の時代の繁栄振り、最盛期を偲ぶことができるが、元長は家庭的に不幸であったようであり、実子や孫がありながらも、甥を養子に迎えなければならない不運を味わっている。

鴻池正成 鴻池幸富

 初代・鴻池善右衛門は、江戸時代初期の当主。名は正成。鴻池新六直文(幸元)の8男で、元和8年(1619年)に摂津国大坂へ移り、寛永10年(1633年)に分家を立てる。屋敷のある今橋から「今橋鴻池」とも呼ばれる。
 寛永2年(1625年)には大坂と江戸の間の海運業をはじめ、諸大名の参勤交代や蔵物の輸送業務を手がけた。明暦2年(1656年)には酒造を廃業して両替商をはじめる。大名貸,町人貸,問屋融通など事業を拡大した。
 寛文元年(1661年)、顕孝庵を再興して菩提寺とした。 

 近代鴻池財閥の初代総帥。善九郎,喜右衛門,丑之助,山中幸冨とも称した。
 天保12年(1841年)、鴻池家の別家である山中家に、山中又七の長男として生まれたが、後に宗家の養子となった。嘉永4年(1851年)6月、家督を継いで10代目の善右衛門の名を襲名する。この頃、篠崎小竹の弟子となって勉学を学んだ。豪商であったため、幕府から海防費の名目で御用金供出を命じられ、浪士組の芹沢鴨から500両の軍用金を供出するように脅迫されるなど、幕末期は苦難を極めた。
 慶応4年(1868年)2月、明治政府によって会計事務裁判所御用掛に任じられる。その後、通商司為替会社頭取などを務めた。明治6年(1873年)には大阪に国立銀行を設立すべく計画された「第三国立銀行」の発起人の一人となるが、ほかの発起人との意見が合わず、実現しなかった。明治10年(1877年)、第十三国立銀行(現・三菱UFJ銀行)を創設するなど、日本における金融界,貿易界の創設・発展に尽力した。
 明治17年(1884年)に健康面の理由から家督を子の善次郎(幸方、11代善右衛門)に譲り、喜右衛門に改名。事業としての鴻池財閥の総帥の座は、別家を嗣いだ次男鴻池新十郎が継承している。明治44年(1911年)8月、10代・善右衛門幸富による産業振興の功績により、11代・善右衛門幸方は男爵に叙爵された。大正9年(1920年)、80歳で死去。大正全国富豪番付で西日本4位だった。

鴻池幸方
 明治17年(1884年)1月、家督を継承。日本生命保険の初代社長に就任、また第十三国立銀行頭取,大阪倉庫社長,関西大学評議員など務めた。明治30年(1897年)には鴻池銀行を設立した。明治44年(1911年)8月25日、父の功績によって男爵に叙せられる。