宇多源氏

G758:京極氏信  源 雅信 ― 源 扶義 ― 佐々木定綱 ― 佐々木信綱 ― 京極氏信 ― 尼子高久 G763:尼子高久


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尼子高久 尼子清久

 高久に尼子郷を与えるよう京極高秀に命じたのは、高久の祖父である佐々木道誉(京極高氏)ともされる。貞治2年/正平18年(1363年)、京極高秀を父として生まれる。14世紀後期に近江国守護代に任ぜられた。尼子郷に館を構えて居したことから尼子と称した。明徳2年/元中8年10月11日(1391年11月7日)死去。享年29。
 高久の子のうち、嫡男の詮久は近江の所領を受け継いだ(近江尼子氏)。また、次男の持久は山名氏と係争状態にあった出雲に下向し、守護代となった(出雲尼子氏)。 

 偏諱は主君の京極持清より授かったもの。父・持久から出雲国守護代を引き継いだのは、応仁元年(1467年)頃とみられる。応仁の乱勃発により、守護京極氏の支配が急速に衰退した。松田氏や三沢氏ら国人領主に反京極氏の気運が巻き起こったが、清定はこれを鎮圧、更に山名氏の出雲国侵入を撃退した。この勲功により京極氏より、能義郡奉行職や幕府御料所である美保関代官職を与えられる。清定は、これを機に出雲東部での勢力を強め、文明6年(1474年)頃から、公用銭の上納を怠るなど、独立の動きを見せるようになる。
 晩年の記録は少ないが、『雲陽軍実記』には「牢人の身となり、漂泊流浪のうちに病死す」とある。

尼子経久 尼子政久

 長禄2年(1458年)11月20日、尼子清定の嫡男として生まれる。幼名は又四郎。文明6年(1474年)、主君・京極政経に人質として政経の元へ送られる。又四郎はこの後5年間京滞在する。滞在中に元服し、京極政経の経の字を賜り、経久と名乗る。5年目に京の滞在生活を終え、祖国出雲に帰国する。
 文明10年(1478年)までに、経久は父から家督を譲られた。この期間に幕命を無視して室町幕府の四職で出雲守護でもある京極政経の寺社領を横領し、美保関公用銭の段銭の徴収を拒否などを続けた。これが原因となり幕府・守護・出雲国人からも反発を受け、文明16年(1484年)に居城を包囲され、守護代の職を剥奪されて出雲から追放され、流浪の身となったとされるが、詳細は不明。江戸時代の軍記物では、経久が月山富田城を勇ましく奪還する様を描いているが、嫡男・政久が主君・京極政経より偏諱を受けていること等を踏まえると、段銭横領の罪の後、許され、後に政経より守護地位を譲られたとする比較的穏健な形で守護地位を獲得したと思われる。
 長享2年(1488年)から約30年余りの間は、対外遠征よりも国内統一へ向けて行動している。永正15年(1518年)、経久は弟の久幸に伯耆国の南条宗勝を攻めさせる一方、嫡男・政久を叛旗を翻した桜井入道宗的の籠もる阿用城へ差し向けたが、政久は矢に当たって命を落としている。
 大永元年(1521年)以降、尼子氏は石見に侵入した。安芸へも手を伸ばし、大永3年(1523年)には大内氏の安芸経営の拠点である鏡山城を攻め、重臣・亀井秀綱の命で、傘下の毛利元就と当主・毛利幸松丸に攻城させた。大永5年(1525年)には元就は弟の相合元綱との内紛の後、尼子との関係を解消して大内氏に所属を変えた。これにより、尼子氏に傾いていた安芸国の勢力バランスが変わることになった。
 大永4年(1524年)、経久が軍勢を率い、西伯耆に侵攻し、南条宗勝を破り、更に守護・山名澄之を敗走させた。敗北した伯耆国人の多くは因幡・但馬へと逃亡し、南条宗勝は但馬山名氏を頼った(大永の五月崩れ)。大永6年(1526年)、伯耆・備後守護職であった山名氏が反尼子方であることを鮮明とし、尼子氏は大内氏・山名氏に包囲される形で窮地に立たされる。翌大永7年(1527年)、経久は自ら備後へ出兵させるも陶興房,毛利元就に敗れ、尼子方であった備後国人の大半が大内氏へと寝返った。
 享禄3年(1530年)には、3男・塩冶興久が、反尼子派であることを鮮明にして内紛が勃発した。興久は大内氏に援助を求めており、経久も同じ時期に文を持って伝えている。大内氏は両者から支援を求められるも、最終的には経久側を支援しており、尼子氏と和睦している。
 天文3年(1534年)、興久は備後山内氏の甲立城に逃れた後、甥である詮久の攻撃等もあり自害した。同年、嫡孫・詮久は美作へと侵攻し、これを尼子氏の影響下に置く。また、その後も備前へと侵攻するなど勢力を徐々に東へと拡大していった。この後、詮久は大友氏と共に反大内氏包囲網に参加している。天文6年(1537年)、経久は家督を孫の尼子詮久に譲っている。同年には大内氏が所有していた石見銀山を奪取している。
 天文9年(1540年)、武田信実の要請を受け入れ、晴久(詮久)が大内氏勢力下にある安芸国人の毛利氏の討伐に出陣。数的には有利であったが、攻撃を仕掛けるも悉く失敗し、そして翌年には厳島神社にて戦勝祈願を終えた陶隆房率いる大内援兵が到着し、その後、尼子氏は本陣奇襲を受け人的損害を被った(吉田郡山城の戦い)。
 天文10年(1541年)11月13日、月山富田城で波乱に満ちた長い生涯を閉じた。享年84(満82歳没)。 

 父の尼子経久は尼子氏の戦国大名としての基盤を整えた名将であるが、この政久も父に劣らず智勇兼備の優れた武将であった。また、軍略だけでなく笛などの文才においても優れた教養人であり、時の後土御門天皇からもその文才を高く評価されている。経久が出雲統一を成し得たのは自身の優秀さだけではなく、嫡男の政久における才能によるところも大きい。また、名前は元主君・京極政経よりの偏諱である。
 ところが、政久の運命は暗転した。永正15年(1518年)、尼子氏の勢力拡大を恐れた桜井宗的が磨石城にて反旗を翻した。経久は政久を総大将とした軍勢を派遣して磨石城の一気攻略を目指したが、堅城であったために尼子の大軍をもってしても容易には落ちなかった。しかも、長期戦の呈を擁し始めたため、尼子軍内部で厭戦気分が流れ始めるが、政久は得意の笛の音をもって味方の兵を鼓舞し、磨石城を激しく攻め立てた。ところが、敵城兵側が笛の音が聞こえるほうに向かって矢を放ったのだ。その一本が政久の喉に当たり、政久は即死してしまったのである。享年31。
 経久は将来を期待していた政久の死を悲しむと同時に、復讐として次男の国久に命じて磨石城を激しく攻めさせた。城兵は降伏すら許されず、宗的をはじめとする全てが虐殺されたと言われている。また、経久は政久の系統が断絶することを惜しみ、政久の嫡男・晴久に家督を譲っている。

尼子晴久(詮久) 尼子義久

 永正11年(1514年)2月12日、尼子経久の次男として生まれるも、既に政久嫡男が夭折していたため、嫡男として育てられる。はじめ詮久と称す。父・政久は本来なら家督を継いで尼子家の当主となるはずであったが、永正15年(1518年)の出雲阿用城攻めで戦死したため、経久にとって嫡孫に当たる詮久が、世子として指名され、天文6年(1537年)の経久の隠居により、家督を継いで当主となった。この時、経久の3男・興久を粛清したことで備後山内氏と疎遠に、そして家臣達の独断で毛利氏の家督相続への介入により、毛利氏は大内氏側へと離反していた。享禄4年(1531年)、謀反を起こした叔父である塩冶興久に味方した備後山内氏を討伐すべく遠征している。他にも三沢・多賀・山内氏討伐へと出陣している。
 当主となった翌、天文7年(1538年)には、大内側であった石見銀山を攻略し、更には播磨に侵攻して赤松晴政に大勝し、備後国衆である宮氏・渋川氏を従属させ大内氏への圧力を強化している。安芸国においても、武田氏・吉川氏と連絡を取り、影響力を強める。享禄3年(1530年)以降、表面上和睦関係にあった大内氏との関係は破綻した。
 天文9年(1540年)、大内義隆に属していた安芸の有力国人・毛利元就を攻める。しかし、兵力で大きく勝りながら采配には精彩を欠き、元就率いる毛利軍の徹底した吉田郡山城における籠城戦法と、援軍として駆けつけてきた陶隆房率いる大内軍に大敗を喫し、大叔父の尼子久幸を失った(吉田郡山城の戦い)。結局、尼子氏を頼りにしていた武田氏は、詮久の敗走により大内氏らの攻撃を受けて滅亡し、祖父・経久が天文10年(1541年)に死去するという不幸も重なって、尼子家勢力下の国人領主が大量に大内氏へ寝返ったため、危機的状況に陥った。同年、将軍・足利義晴から「晴」の一字を賜って、晴久と改名する。これは吉田郡山城の戦いにて失墜した自らの権威を回復するための行動だったと思われる。
 天文11年(1542年)には、大内義隆率いる大内軍の侵攻を受けた(第一次月山富田城の戦い)。しかし、尼子勢の徹底抗戦により戦いは長引き、大内軍はしだいに疲弊したため、寝返っていた国人衆は動揺し、再び尼子方へと復帰した。この国人衆の再度の寝返りにより戦況は完全に逆転し、大内軍は撤退を開始したが、混乱の中で大内義隆の養嗣子・大内晴持が事故死し、尼子軍に追撃された小早川正平は戦死、毛利元就も九死に一生を得るほどの損害を受けた。また、この時には勢いに乗り、失地した石見東部を取り返している。
 以後は失った勢力の回復に尽力し、大内氏に与した出雲国人・宍道氏,三沢氏の出雲国横田荘などの領地を削減、直轄化。また、雲南地域砂鉄の産地や流通を押さえるなどして出雲の支配体制を強化し、本国出雲を中心として伯耆・美作・隠岐を基盤に周辺地域へ侵攻し、勢力を更に拡大しようとする。
 天文20年(1551年)、大内義隆が陶隆房(晴賢)の謀反により死去したため、翌年には将軍・足利義輝より、山陰山陽8ヶ国(出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後)の守護及び幕府相伴衆に任ぜられた。同年12月3日、朝廷から位に従五位下、官に修理大夫を賜る。これは中央政権である幕府・朝廷に、尼子氏が中国地方の名家及び大内氏に準じた働きをする勢力として認知されたことを示している。また、守護を任された国においての尼子氏の勢力が優勢であるという象徴でもある。
 守護職という中国地方を支配する大義名分を手にした8ヶ国守護補任を機に、晴久は尼子氏の出雲下向時からの直臣を用いて、奉行衆を中心とした支配体制を確立した形跡があり、このことが、尼子家中枢部から離れた位置にいた独自勢力となりつつあった叔父・尼子国久率いる新宮党の立場を微妙なものにした。天文23年(1554年)、11月に新宮党を謀殺する。この粛清により、新宮党の勢力基盤であった東出雲能義郡吉田荘・塩冶氏領の出雲平野西部は晴久のもとに直轄化され、出雲一国は尼子氏の直轄地へと変化した。
 弘治元年(1555年)、大内氏勢力の中心となっていた陶晴賢が、毛利元就との厳島合戦に敗れて自害する。晴久は石見侵攻の好機ととらえ、石見川本の小笠原長雄と結び、弘治2年(1556年)、反攻に出た毛利元就率いる毛利軍を忍原にて撃破(忍原崩れ)し、9月には石見銀山を奪取した。銀山防衛の要となる山吹城には本城常光を城主にすえ、また、既に天文年間後半に雲石国境の刺賀岩山城に派遣していた、直臣の多胡辰敬とも連絡を取らせて、銀山の積極的な確保につとめた。
 弘治3年(1557年)、大内義長が自害する。大内領の大半が毛利領になると、毛利元就による石見東部への侵攻も激しくなり、永禄元年(1558年)には小笠原長雄の温湯城が攻撃された。しかし、結局、毛利氏は尼子晴久の存命中に石見銀山を奪取しえなかった。
 永禄3年12月24日(1561年1月9日)、月山富田城内で急死する。享年47。死因は脳溢血によるものだと思われる。晴久の死後、尼子氏は急激な変化を迎えることになる。

 天文9年(1540年)、出雲の戦国大名・尼子晴久の嫡男として生まれる。一説によれば、播磨国赤穂の尼子山城にて一時、城代を任されていたというが、詳細は不明。
 永禄3年12月24日(1561年1月9日)、父の晴久が急死したため家督を継ぐ。未だ毛利氏との石見大森銀山を巡る争いが終結していなかった中での晴久の急死だったため、尼子家臣団の動揺もあって月山富田城内に密葬することとなる。
 毛利氏は、その後晴久が急死したことを察知し、再び石見への侵攻を開始する。これに対して義久は父の採っていた毛利氏との石見銀山を巡る対決路線を変更し、室町幕府の仲介により和平をすすめようとしたが、毛利元就はこれを利用して逆に尼子氏の攻略を画策し、和平の条件として石見への不干渉を申し入れた。この条件を義久が了承したため、元就の狙いどおり尼子氏を頼みに毛利氏への反乱を起こしていた福屋氏が孤立し、また福屋氏へ軍事援助を行うとしていた本城常光,牛尾久清,多胡辰敬らの石見に駐屯していた尼子家臣や温泉英永など尼子方の国人も不利な立場に立たされることとなった。この行動が尼子勢力の崩壊に繋がっていく。だが、これらの状況において、当時の九州大大名であった大友宗麟と同盟関係を結び、毛利氏の軍事力を二方面(大友氏に、周防国への侵攻を促す等)に分散させるなど、決して失策ばかりなわけではない。
 永禄5年(1562年)6月に本城常光が毛利氏へ寝返ると、温泉英永,牛尾久清は出雲へと退却し、雲石国境の刺賀岩山城は毛利氏の攻撃により落城して、城主・多胡辰敬は自刃した。また、赤穴氏や三沢氏などの西出雲の有力国人衆は雪崩を打って毛利方へと転じた。この情勢を契機として、毛利元就は出雲へ侵攻を開始し、永禄6年(1563年)8月には松田氏が守備する白鹿城が毛利軍によって落城し、熊野城も抵抗虚しく陥落した。
 この出雲侵攻において、尼子十旗を守備する赤穴氏・三沢氏・三刀屋氏等の国人衆が殆ど戦わずして開城したのに対し、一部国衆は毛利元就に対して頑強に抵抗している。これは父・晴久の影響力や中央集権化が、未だ完了していなかったことの証左であり、出雲国内の日和見主義の国人衆をまとめることができなかったことも示している。晴久の急死という予想外の事態も重なったのが、義久にとっては一番の不幸だったともいえる。
 敵将である毛利元就も晩年まで安芸国国人衆の実権を握ることはできていない(毛利氏の場合は吉川元春と小早川隆景による毛利両川体勢で維持していた)。独立性と利益性を重要視する国人衆は厄介な存在だった。
 永禄7年(1564年)には伯耆江美城の落城により、尼子氏の糧道がほぼ押さえられ、尼子方の美作江見氏,三浦氏家臣牧氏,後藤氏とも容易に連絡が取れる状況ではなくなり、事実上、月山富田城は孤立してしまう。
 永禄8年(1565年)からは遂に月山富田城を包囲された(第二次月山富田城の戦い)。毛利軍は富田城へ総攻撃を開始したが、城の守りは堅く城兵の士気も旺盛で、損害ばかりが増えたため、攻撃を中止し兵糧攻めに切り替えた。富田城内では次第に兵糧が欠乏し、士気が衰える中、尼子氏累代の重臣亀井・河本・佐世・湯・牛尾氏が毛利軍に降伏する。さらに永禄9年(1566年)に宇山久兼を義久が謀反の疑いにより誅殺するなど、城内は混乱の極みとなる。もともと宇山氏等の重臣達と中老衆等の家臣団の上下関係はかなり悪化しており、義久にとっても籠城中においてはかなりの悩みの種であったと伝わる。
 同年11月28日、義久は月山富田城を開城を決意。毛利元就に降伏する旨を伝えると、元就は3男・小早川隆景,次男・吉川元春の順に義久の身柄を安堵すると記した血判を送り、これにより月山富田城が開城。富田城が陥落したことにより、出雲国内で抵抗していた尼子十旗の城将達も、次々に毛利氏に下った。元就は義久とその弟たちの一命を助け、安芸円明寺に幽閉している。これによって、大名としての尼子氏は滅亡した。
 その後、義久は天正17年(1589年)、毛利輝元より毛利氏の客分として遇され、安芸志道に居館を与えられた。慶長元年(1596年)、長門阿武郡嘉年の五穀禅寺において剃髪、出家して友林と号した。慶長15年(1610年)8月28日、長門で死去した。享年71。毛利家の意向により、養子の尼子元知(弟の倫久の長男)が尼子氏を継いだ。

佐佐木就易 尼子倫久

 元和4年(1618年)、宍道就兼の子として生まれる。元和8年(1622年)、母方の伯父である尼子元知が実子のいないまま病に伏せったことから、その養子となった。その後5月13日に元知が死去したため、家督を継いだ。なお、就易の曽祖父にあたる宍道隆慶の母が尼子国久の娘であるなど、宍道氏と尼子氏が縁戚関係にあったことも就易の養子入りに関係していたと思われる。
 寛永元年(1624年)3月19日、毛利秀就から養父・元知の1290石余りの知行地を相続することを認められる。寛永11年(1634年)6月1日、秀就から「就」の偏諱と「九郎兵衛尉」の官途名を与えられた。
 万治2年(1659年)7月11日に死去。享年42。実子は無かったため、従弟の佐々木広高が家督を継いだ。

 永禄5年(1562年)、毛利元就の出雲侵攻に際し、兄である義久に命じられ三刀屋城攻めや出雲国白鹿城へ救援軍の総大将として出陣している。永禄9年(1566年)、月山富田城の攻防戦では、塩谷口の守将となり、山中幸盛,立原久綱,秋上久家を率い、吉川元春,熊谷信直らと戦い、ここを死守している。しかし元就の謀略により、富田城内は疑心暗鬼と裏切りの支配する混乱した状況に陥り、戦意も兵糧も無くなり、尼子義久はついに月山富田城を開城し降伏する。
 尼子氏滅亡後は、義久・秀久とともに安芸に送られることとなった。安芸円妙寺に幽閉され、厳重な監視の中、幽閉生活は10数年にも及んだ。天下の形勢が定まると尼子3兄弟は解放され、毛利氏に客分として優遇された。弟の秀久は毛利氏客将として朝鮮出兵にも参加、倫久は関ヶ原の戦いにも従軍する等、徐々に毛利氏家臣としての色合いが濃くなってきている。
 その後、倫久は出家し僧となり、一族や尼子氏のために散った者の菩提を弔い、平穏な人生を終えた。元和9年(1623年)3月4日に石見国で没した。享年78。墓所は、島根県浜田市金城町にある。息子の尼子元知は兄・義久の養子として、尼子氏の血脈を後世に残すこととなる。 

尼子秀久 尼子国久

 天文23年(1554年)に月山富田城にて連歌会が行われた際に、参前祈祷会が執り行われたという記録があり、これが秀久のことを示していると思われる。
 永禄5年(1562年)から始まる毛利氏の出雲侵攻により、尼子氏は諸城を次々と落とされ、最終的に月山富田城に籠城する破目となる。秀久は宇山久兼,佐世清宗らを率いて菅谷口を守備し、小早川隆景らと戦うが一歩も引かず、勇戦奮闘した。永禄9年(1566年)、ついに尼子義久は降伏し、月山富田城は開城。秀久も兄に従い安芸国に移送され、長きにわたり幽閉されることとなる。
天正17年(1589年)に幽閉が解かれると客分として毛利氏に遇され、安芸国内に居館を構えた。以後、毛利家臣として、豊臣秀吉の朝鮮出兵にも従軍している。
子孫は後に佐古姓を名乗り、福定村へと土着した。

 大永4年(1524年)に起きた大永の五月崩れでは伯耆にある諸城を次々に攻城し、これを陥落させている。尾高城,不動ヶ城,羽衣石城等の伯耆国人の城は次々に落とされ、羽衣石城城主・南条宗勝はこれにより山名氏を頼り逃亡した。
 天文9年(1540年)、主君であり甥にあたる晴久から3000を率いて備後宍戸氏を攻撃するように命ぜられる。このとき晴久は大内氏への牽制も兼ね、安芸国人毛利氏を討伐を企画、その偵察を兼ねて国久は備後へ遠征した。備後から江の川を渡河して吉田郡山城へと進軍する道を開こうとするも、宍戸氏の反撃にあい、失敗。出雲へと一時撤退した。
 晴久はこれにより石見路から30000騎を率いて吉田郡山城へと進軍したが敗北。撤退した。後に大内義隆が出雲へと侵入するも、国久は新宮党率いてこれを撃破している。その後は備後・伯耆等の諸国へ遠征しており、尼子氏の先頭に立って戦っている。
 姓は尼子ではあるものの、千家文書では「尼子殿御子息吉田の孫四郎殿」と記載されており、出雲国吉田荘の吉田氏に養子に入っていたと思われる。吉田氏は宇多源氏佐々木氏の傍系であり、幕府奉公衆の地位を与えられており、これは守護不入の特権を持つ豪族であった。これは塩冶氏に養子入りした弟・興久と同等の国人懐柔策を経久が行っていたものと思われる。後に反乱を起こして死去した3男・興久の所有していた、出雲西部塩冶地帯も継承している。
 国久は月山富田城の東北にある新宮谷にあったことから名づけられた戦闘集団・新宮党の頭領であった。父・経久や甥の晴久を助けて勢力拡大に貢献し、多大な武功を挙げた。このため、父から晴久の後見人に指名されている。しかし、父の死後、後を継いだ甥(かつ娘婿)の晴久とは仲が悪く、次第に対立を深めていった。新宮党は吉田氏・塩冶氏の領地を直轄地としており出雲一国に影響力を持っており、これは尼子宗家、つまりは尼子晴久をも凌ぐ勢力を有していた。このためから娘婿である晴久との関係は段々と悪化したものと思われる。また、重臣達との間でも衝突することも多かった。その後、晴久は正室である国久の娘が死去したため、これを切っ掛けに親族としての血縁関係を断ち、粛清に踏み切ったと推測される。天文23年(1554年)に甥の尼子晴久によって一族と共に誅殺された。享年63。

尼子誠久 尼子氏久

 父同様に武勇に優れたと伝わっており、新宮党の一員として数多の武功を挙げ尼子氏の勢力拡大に貢献した。また、新宮党という一大軍事集団を出雲平野や美作・伯耆に恩賞地を基盤として展開しており、これは主君・晴久と新宮党という二頭政治という弊害を招いた。また、その武勇をかさにきて傍若無人な振る舞いもあり、そのため天文23年(1554年)、父と共に粛清された。一説に、誠久は晴久の命令を受けた大西十兵衛,立原備前守(久綱の兄)によって暗殺されたという。享年45。
 叔父である塩冶興久が乱で敗死した後、興久側についた出雲国人・諸勢力は祖父経久により追放処分・領地削減を受けているが、誠久はこの際に父・国久が塩冶氏領を受け継ぎ、彼は出雲有力国人多賀氏の領地を本貫地としている。これは西出雲を国久一族が支配することになるのだが、後にこれが新宮党と尼子宗家の二頭政治という問題が発生し、晴久の方針である尼子宗家による出雲直轄統治の障害となり、西出雲統治を国久の手腕に頼るという政治的矛盾を引き起こした。

 尼子誠久の嫡男とされるが、実は吉田郡山城攻略戦で戦死した尼子久幸(経久の弟)の子・尼子経貞と思われる。父の死後、誠久の養子となった。新宮党党首。
 父の死後、幼少であったためその所領を新宮党首である叔父の尼子国久に預けられ、氏久の成人後にその領地を返還する約束となっていた。しかし、氏久の成人後も所領返還の約束は実施されないままであったため、尼子晴久に新宮党の専横を報告、結果的にこれがきっかけとなり新宮党は滅ぼされることとなる。
国久らの死後、晴久の命により新宮党を継ぐものの弱体化した新宮党は、もはや尼子氏の藩屏となるべき戦力を有していなかったため、氏久は尼子氏を離れ、母の実家である多賀氏を頼ったものと推測される。
 後に尼子再興軍に参加し、天正6年(1578年)の上月城の戦いで敗北し降伏。その際に首謀者として尼子勝久らと共に切腹している。 

尼子勝久 尼子豊久

 尼子誠久の6男とも尼子敬久の子ともされる。家中を代表する鉄砲の名手だったという。尼子晴久の手で新宮党の尼子国久一族が殺害されたため、他国に逃亡。蜂須賀氏の家臣と成り鉄砲頭となる。
 天正5年(1577年)、尼子勝久,山中幸盛らとともに尼子氏の再興を賭けて毛利氏と戦うが、天正6年(1578年)の上月城の戦いで敗北し降伏。反乱の首謀者の1人として尼子勝久,尼子氏久,神西元通と共に自刃した。 

 出雲尼子氏最強の武力集団新宮党として各地を転戦、尼子氏の勢力拡大に貢献する。
 大永4年(1524年)、毛利氏で新しく当主となった毛利元就に対し、弟の相合元綱が反旗を翻した。その際に元綱は豊久を婿養子に迎えることを条件に尼子氏の支援を受けようとしたが、元綱が討たれたために実現しなかったと言われている。
 天文15年(1546年)6月、伯耆の国人・南条宗勝は因幡山名氏の重臣である武田国信とともに6000の兵を率い出陣。尼子方の河口城を陥れる。尼子詮久は南条宗勝の挙兵の報に対し、新宮党の尼子国久と豊久に兵6000を与え伯耆に派遣、国久らは橋津川西岸に陣を布き、南条・武田軍と対決することとなる(橋津川の戦い)。戦いは武田国信の奮戦で尼子方は劣勢になり、尼子豊久は武田国信によって討ち取られた。しかし、国久は息子の豊久の戦死を知ると激昂し逆襲に転じ、ついに武田常信は討死、宗勝も敗走した。

尼子久幸 山中幸久

 天文9年(1540年)、大内氏との対立が激しくなり、主君の尼子詮久(のちの尼子晴久)は、豊後国の大友氏などの反大内勢力と結託し、大内義隆への圧力を強める。その一環に尼子から大内へと寝返った安芸国国人の毛利元就を安芸守護・安芸武田氏の要請も受け入れ討伐を決定し、久幸もこれに同行した。
 当初は尼子側に形勢は有利だったものの、その多くが尼子の直接配下に居る軍勢ではないため、指揮系統は混乱しやすく敗走を重ね、補給路も確保できないまま長期戦へと縺れた。翌天文10年(1541年)の1月、宮崎長尾の戦いにて、大内方の陶隆房(陶晴賢)が尼子本陣を奇襲し、久幸は戦死したとされる(吉田郡山城の戦い)。
 久幸の亡骸は毛利氏によって安芸吉田に埋葬された。現在も碑文と共に尼子下野守義勝の墓と供養塔が残っている。月山富田城近隣の城安寺にも墓石が残っている。家督は後に次男・次郎四郎詮幸が継いだ。 

 兄・清定の殺害を謀ったことが発覚したため、兄から勘気を蒙り出雲国布部にあった興福寺に幽閉され、長禄2年(1458年)1月11日に55歳で没した。墓所について、山中幸久の墓と伝承される石碑が島根県安来市広瀬町布部地区にある興福寺の本堂横に残されているが、それ以外の詳しいことは一切不明である。
山中勝重 山中信直

 文明16年(1484年)、主君であった尼子経久が出雲国守護京極政経によって追放され、勝重も浪人となった。この翌年、経久が居城としていた月山富田城を奪回する計画に勝重も参加した。文明18年(1486年)、遂に経久は月山富田城を取り返した。勝重はこの戦の活躍により尼子氏中老となった。
 長享2年(1488年)、経久は出雲雲南地方に勢力を持つ三沢氏当主・三沢為幸へと仕官するよう勝重に命じた。その後2年間に渡り、勝重は忠実に仕え「尼子経久を討伐する」と為幸を騙し、三沢軍が誇る精鋭500騎を連れ富田城攻略へと向かった。いざ月山富田城に着くや、そこで勝重は自らだけ入城した。500騎の三沢軍は状況が分からぬまま、経久率いる尼子軍に討ち取られた。これにより三沢氏等の出雲国人衆は尼子氏の勢力下に入った。これが現在でも軍記等で伝わる勝重のエピソードである。

 永正8年(1511年)、出雲国の戦国大名尼子氏の家臣・山中勝重または山中貞幸の次男として誕生。
 弱冠にして家を辞して諸国を遍歴して、摂津国伊丹に到り、茨木城主・中川清秀と交わり、その推挙により伊丹有岡城主・荒木村重に仕えた。村重よりその忠勤を賞せられ、信国の銘刀と抱鯱紋所をの陣幕を授かったため、以降は名を信直と改めた。ところが永禄初年頃に至り、主君・荒木村重に奢侈催行があったために、これを諫めたがきかれず、遂に致仕。
 以降は喜楽と号して鴻池村に閑居して悠々余生を送り、天正7年(1579年)に病死したといわれる。墓所について、大阪市中央区中寺町2丁目の顕孝庵に明和元年(1764年)に住職によって建立された山中信直夫妻の供養塔が境内墓地に残されているが、山中信直の没年日:永禄8年(1565年)8月16日歿は誤りである。
 なお、甥・山中幸盛の子で豪商・鴻池家始祖となった山中幸元を養ったといわれているが、詳しいことは不明である。

山中幸盛(鹿之介) 山中幸盛女

 鹿介は10歳で弓を習い、13歳の時に戦で敵の首級を挙げた。鹿介は16歳の時に「30日以内に戦功を挙げたい」と三日月に願った。そして、山名氏との戦いで、勇士として有名だった菊池音八を一騎打ちで討ち取った。その後も、毛利元就との戦いで高野監物を一騎打ちで討ち取り、猛将として有名となった鹿介に対抗して狼介と名乗った品川大膳を一騎打ちで討ち取っている。後世において、鹿介は尼子十勇士の一人として称えられている。
 尼子義久は毛利元就に攻められ、次第に勢力を奪われ、永禄9年(1566年)に毛利元就に降り、尼子氏は一時的に滅びた。その後、鹿介は尼子氏再興のため尽力することになる。鹿介の尼子再興運動は、概ね3回に分けて見ることができる。
 永禄11年(1568年)、鹿介は尼子氏を再興するために京都で僧籍にあった尼子国久の孫・勝久を還俗させて擁立した。立原久綱,横道兵庫助,牛尾弾正忠,三刀屋蔵人,遠藤甚九郎ら尼子遺臣団は、山名豊祐の家老・垣屋播磨守を頼り、但馬国を経由し奈佐日本之介の手を借りて隠岐に依る。隠岐の豪族・隠岐為清の協力を得て、永禄12年(1569年)には海浜の出雲忠山を占領する。その後、出雲の尼子遺臣の勢力を吸収し、新山城を攻略してここに本営を設置し、出雲一国をほぼ手中に収めんとするまでに勢力を伸張した。しかし、配下の統制維持が乱れ、その後は隠岐為清の離反を招き、布部山の戦いに敗北すると衰勢著しく、元亀2年(1571年)8月には最後の拠点・新山城が落城し、鹿介は吉川元春に捕らえられた。この時、腹痛を装って何度も厠に入り、油断した監視の目を逃れるために厠から糞にまみれながらも脱走したといい、勝久とともに再び京都に逃れた。
 元亀3年(1572年)8月、京へ戻った鹿介らは、織田信長に謁し、中国攻めの先方となることを誓ったとされる。尼子遺臣団は尼子氏再興の志を秘めて山名氏の軍勢に加わり、山名氏に謀叛して鳥取城に篭った武田高信と闘い、因幡国を転戦、甑山城での戦いにて決定的な勝利を得た。もっとも、その後に武田氏に味方した鳥取城を毛利氏に奪われた。織田氏と気脈を通じていた尼子遺臣団は、当時毛利寄りであった山名氏を離反する。天正2年(1574年)頃には因幡国の諸城を攻略し、織田方の浦上宗景の助力もあって若桜鬼ヶ城,私都城を確保し、一時的に尼子氏を再興することに成功した。しかし、天正3年(1575年)9月には毛利方が私都城を攻略し、古くからの尼子遺臣であった横道兄弟,森脇久仍,牛尾大炊助らが毛利氏に降るという事態が発生した。また、天正4年(1576年)には織田信長は鹿介を庇護しない旨を吉川元春に伝えている。重臣と庇護者を同時に失った尼子遺臣団は、居城の若桜鬼ヶ城を支えることができずに丹波方面へ落ち延びることとなった。
 天正5年(1577年)になると、織田信忠に従い松永久秀が篭城する信貴山城攻略に参加し、松永久秀の部将の河合将監を討ち取っている。信長の命により羽柴秀吉の中国遠征が始まると、その先鋒として播磨国に送り込まれ、上月城に拠って尼子氏の再興を目指した。しかし、翌天正6年(1578年)に毛利軍に攻められた際、織田軍が北の上杉謙信や石山本願寺の攻勢に備えるため播磨から軍を引いたため、上月城は孤立、毛利軍の包囲攻撃を喰らい、尼子主従は城を支えきれず降伏した(上月城の戦い)。この時、主君の尼子勝久は自害したが、鹿介は自害せず、毛利氏に降った。しかし、毛利輝元の下へ護送される途上の備中国合の渡の阿井の渡しにて謀殺された。通説によれば、鹿介はなおも生き延びて、尼子氏を必ずや再興するという執念を胸中に抱いていたため、これを生かしておくと危険と見た吉川元春が先手を打ち、鹿介は殺害されたと言われている。鹿介の死を以って尼子氏再興活動は完全に絶たれることとなった。
 殺害現場である現在の高梁市の高梁川と成羽川との合流点付近の国道313号沿いに墓所はあるが、胴体は観泉寺住職珊牛和尚によって埋葬された胴塚が現在も観泉寺墓地に残っている。地元の人たちが手厚く葬った首塚が現在も残る。墓所は鹿野の幸盛寺。
 鹿介の死は尼子再興運動の終幕ではあったが、尼子遺臣団の完全な解体とはならなかった。上月城陥落時、亀井茲矩率いる部隊は秀吉に従っていたために難を逃れていたのである。尼子遺臣団の一部はこの亀井家の家臣団として再編成され近世大名への道を歩み始める。その後は東軍に属して関ヶ原の戦いでも前衛の部隊として参戦、徳川幕藩体制に組み込まれ、幕末を迎えた。また、鹿野の大名となった亀井茲矩の手により、菩提寺として幸盛寺が建立され、その後境内に墓所が建立されている。
 なお、長男とされる山中幸元(鴻池新六)は父の死後、武士を廃して摂津国川辺郡鴻池村で酒造業を始めて財をなし、のちに大坂に移住して江戸時代以降の豪商鴻池財閥の始祖となったが、鴻池家では毛利家への財政支援を行わなかったという。

 亀井秀綱は毛利氏との攻防戦のなかで戦死したとも、毛利氏に投降したともいわれ、名門亀井氏は断絶せざるを得なくなった。このとき、山中鹿之介が秀綱の女と結ばれ家名を継いだが、のちに山中に復した。その際、鹿之介は妻の妹を養女として湯新十郎に嫁がせて新十郎に亀井氏の名を託した。そのいきさつについては、山中鹿助幸盛が、茲矩の武勇を感じ、外舅亀井氏の名跡を継がせたものだともいう。