村上源氏

G851:赤松則祐  源 師房 ― 源 顕房 ― 源 季房 ― 赤松家範 ― 赤松則祐 ― 有馬義祐 G852:有馬義祐

リンク G853・{G607}{G611}{G859}
有馬義祐 有馬持家

 兄・義則が赤松家の跡を継ぎ、播磨国・備前国の守護職に任命されたため、義祐は播磨の守護代となる。明徳2年(1391年)の明徳の乱の戦功により摂津国有馬郡有馬荘の地頭職に任命され、その土地の名を取って姓を有馬とした(有馬郡は細川氏への牽制のために赤松氏が分郡守護とされた)。応永15年(1408年)、兄・義則が出家し、その子・満祐が家督を継ぐと、義祐は守護大名同様に将軍家に仕えることとなる。
 応永28年(1421年)、一族内の抗争により、2歳の孫と共に赤松家の若党に殺害される。

 永享初年頃、将軍・足利義教の御伴衆となる。嘉吉の乱の直後も、本家である赤松満祐方には与せず、山名宗全率いる幕府側の赤松追討軍に加わったとみられる。
 しかし、その後、新たに播磨守護を兼ねた山名氏が持家の従兄弟・赤松満政が領する播磨東3郡を浸食したのに対して挙兵、敗戦すると満政は持家を頼って逃亡。いったんはこれに応じて挙兵するがあえなく敗戦。自らの安泰をはかるため、持家は満政父子を討ち取って幕府へ帰順するが、その態度を咎められ、その後隠居した。
 将軍足利義成(のち義政)に近侍し、その寵臣となったと言われ、義政の乳母・今参局(御今)および義政の母・日野重子の従弟・烏丸資任とともに義政側近の有力者として知られ、「三魔」と並び称されたという(おいま、からすま、ありまと、「ま」がつく3人)。相国寺の瑞渓周鳳の日記『臥雲日件録』康正元年1月6日(1455年1月23日)条には「政は三魔より出づ」と記されている。
 ただし、他の2人と異なり、持家に関しては、特に専横の振る舞いは記録されておらず、義政側近中の「ま」がつく人ということで数合わせとして挙げられたとも考えられる。あるいは子の元家の事績と混同された可能性もある。 

有馬重則 有馬則頼
 重則の摂津有馬氏は播磨国赤松氏の庶流で、摂津国有馬を領したことから有馬氏を名のった。重則の一族は分家であり、父の則景の代は三田城に在住していた、重則の代に播磨国三木に所領を移し、三田城から三津田城(満田城)に拠ったが、この地を領する別所就治とたびたび争ったという。天文23年(1554年)、重則は三好長慶の別所征伐に従い、別所方の淡河城を奪って居城としたが、就治の三木城を落とすことはできなかった。永禄元年(1558年)には淡河城を奪回されている。このときに死去したとも、後の永禄年間の三好氏の内紛により死去したともされる。 

 播磨国赤松氏の庶流で、羽柴秀吉が織田信長の命を受けて中国征伐を開始すると、秀吉の家臣として仕え、毛利氏攻めに従軍した。その後も九州征伐,朝鮮出兵などに参加し、いずれも功を挙げたことにより、摂津三田2万石を与えられた。秀吉の伏見城築城にも参加して功を挙げ、晩年は秀吉の御伽衆を務めている。
 秀吉死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して参戦した。慶長7年(1602年)、70歳で死去。遺領は丹波国福知山藩主となっていた次男・豊氏が継承した。 

有馬豊長 有馬則故

 慶長6年(1601年)、摂津国三田藩主・有馬則頼の4男として誕生した。慶長11年(1606年)、6歳の時に人質として江戸に上り、徳川家康・秀忠に拝謁する。慶長18年(1613年)、兄・豊氏の所領である福知山に戻っている。大坂冬の陣・大坂夏の陣に際しては、豊氏に従っている。
 元和2年(1616年)より徳川秀忠に出仕し、のちに御小姓役を務める。元和6年(1620年)、近江国蒲生郡内および武蔵国比企郡内に3000石を賜る。元和7年(1621年)、従五位下・出雲守に叙任。 3代将軍・徳川家光の日光参詣や上洛に供奉した。慶安4年(1651年)に家光が没すると、霊柩と共に日光に赴いている。
 その後、勤めを辞し寄合に列した。延宝3年(1675年)4月15日、死去。享年75。麻布の曹渓寺に葬られ、以後代々の菩提寺となった。『寛政重修諸家譜』には4男3女が記載されている。跡は長男の則故が継いだ。 

 旗本・有馬豊長の長男として生まれる。承応元年(1652年)8月25日、徳川家綱に初謁。延宝3年(1675年)7月11日、家督を継承。
 延宝7年(1679年)8月15日に御使番となり、同年12月28日に布衣を許された。天和元年(1681年)3月1日、仰せにより関東巡視の任に当たる。天和2年(1682年)4月13日には越前国大野城を土井利房に引き渡す役割を務め、同月21日に上野国邑楽郡内で500石を加増され、知行地は都合3,500石となった。天和3年(1683年)閏5月28日には、幼少の榊原虎之助(榊原政邦)が藩主に就任した越後村上藩に仰せによって派遣され、政務の監督に当たった。貞享2年(1685年)7月12日には、下総国古河城を松平信之に引き渡す役割を務めた。
 元禄5年(1692年)4月14日、御先鉄砲頭に転じる。宝永元年(1704年)6月7日、高齢を理由に職を退いている。正徳3年(1713年)閏5月28日、79歳で死去。麻布の曹渓寺に葬られた。