<桓武平氏>高望王系

H103:平 維衡  平 高望 ― 平 良望 ― 平 維衡 ― 平 忠盛 H106:平 忠盛

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平 忠盛 平 経盛

 天仁元年(1108年)、13歳で左衛門少尉となり、天永2年(1111年)には検非違使を兼帯して京の治安維持に従事した。天永4年(1113年)には盗賊の夏焼大夫を追捕した功で従五位下に叙される。同年の永久の強訴では父とともに宇治に出動して興福寺の大衆の入京を阻止している。永久2年(1114年)、白河院の寵妃・祇園女御に鮮鳥を献上し、父に続いてこの女御に仕えた。その後、検非違使の任を離れ伯耆守となり、右馬権頭も兼任する。
 永久5年(1117年)、鳥羽天皇に入内した藤原璋子(待賢門院)の政所別当となる。保安元年(1120年)に越前守に転任するが、在任中に越前国敦賀郡で殺人事件が起こり、犯人の日吉社神人を逮捕して検非違使に引き渡す途中で、延暦寺の悪僧が犯人の身柄を奪取するという事件が発生する。朝廷が悪僧を捕らえたことで延暦寺の強訴に発展するが、白河法皇は忠盛を擁護した。この頃に院の昇殿を許され、藤原宗子(池禅尼)を正室とする。
 大治2年(1127年)、従四位下に叙され備前守となる。さらに左馬権頭を兼任し、院の牛馬の管理を行う院御厩司となった。戦闘における騎馬の重要性の観点からすれば、軍事貴族である忠盛にとっては大いに意義のあるものだった。大治4年(1129年)3月、忠盛は山陽道・南海道の海賊追討使に抜擢される。これは、正式な宣旨ではなく院宣と検非違使別当宣によるものであり、白河法皇の強引な引き立てだったと考えられる。
 白河法皇が崩御し鳥羽上皇が院政を開始すると、忠盛は御給により正四位下に叙される。白河院近臣の多くは鳥羽院近臣に横滑りし、忠盛も鳥羽上皇および待賢門院の北面となる。院御厩司の職務もそのまま継続が認められた。白河法皇が崩御して程なく、死んだと思われていた源義親を名乗る者が京に出現して藤原忠実の邸に保護されていたが、何者かに襲撃され殺害されるという事件が起こる。忠盛にも嫌疑がかけられたが、真犯人が美濃源氏の源光信と判明したことで事無きを得た。
 天承2年(1132年)、上皇勅願の観音堂である得長寿院造営の落慶供養に際して、千体観音を寄進する。その功績により内昇殿を許可された。『平家物語』では武士である忠盛が殿上人となったことを憎んだ公卿たちによる闇討ちが企てられるが、忠盛は銀箔の木刀によって公卿たちを脅す機転によって防ぎ、鳥羽上皇から賞される(殿上闇討)。また、鳥羽上皇の前で舞を披露した際、忠盛が斜視だったことから、公卿たちに伊勢の特産品「酢瓶の瓶子」と囃し立てられたが、見事な舞踏を演じて逆に賞されたという話も残っている。なお、内昇殿は武士では摂関期の源頼光の例があるものの、この当時では破格の待遇だった。
 やがて鳥羽法皇の寵愛が藤原得子(美福門院)に移り藤原家成が院近臣筆頭の地位を確立すると、忠盛は妻の宗子が家成の従兄弟であったことから親密な関係を築いていく。鳥羽院政期になると荘園整理が全く実施されなくなったため、各地で荘園は爆発的に増加した。忠盛も受領として荘園の設立に関与し、院領荘園の管理も任されるようになった。肥前国神崎荘の預所となった忠盛は、長承2年(1133年)宋人・周新の船が来航すると、院宣と称して荘園内での大宰府の臨検を排除しようとした。日宋貿易は民間で活発に行われ博多には宋人が居住し、越前国の敦賀まで宋船が来航することもあった。忠盛は越前守在任中に日宋貿易の巨利に目を付け、西国方面への進出を指向するようになったと思われる。
 保延元年(1135年)、中務大輔に任じられる。この頃、日宋貿易につながる海上交通ルート・瀬戸内海は、海賊の跋扈が大きな問題となっていた。4月、忠盛は備前守を務めた経験を買われ追討使に任じられると、8月には日高禅師を首領とする70名の海賊を連行して京に凱旋した。もっともその多くは忠盛の家人でない者を賊に仕立てていたという。忠盛は降伏した海賊(在地領主)を自らの家人に組織化した。
 その後、美作守に任じられる。保延5年(1139年)、別当・隆覚の停任を求めて興福寺衆徒が強訴を起こすと、宇治に出動して入京を阻止した。天養元年(1144年)、正四位上に叙され尾張守となった。忠盛は鳥羽院庁の四位別当として同僚の藤原忠隆は貴族でありながら乗馬の達人で意気投合するところがあったのか、忠隆の子・隆教は忠盛の娘を妻に迎えている。なお、忠隆の妻・栄子は崇徳上皇の乳母であり、忠盛の妻・宗子は崇徳上皇の子・重仁親王の乳母だった。鳥羽法皇が和歌に熱心でなかったことから、当時の歌壇は崇徳上皇を中心に展開していた。崇徳にとって忠盛はもっとも頼りにできる人物だった。
 久安2年(1146年)、忠盛は播磨守に任じられる。播磨守は受領の最高峰といえる地位であり、受領から公卿への昇進も間近となった。ところが、翌久安3年(1147年)6月15日、清盛の郎党が祇園社神人と小競り合いとなり、多数の負傷者が出る騒ぎとなる(祇園闘乱事件)。忠盛はすぐに下手人を検非違使庁に引き渡すが、祇園社の本寺である延暦寺は納得せず、忠盛,清盛の配流を求めて強訴を起こした。忠盛にとっては大きな危機だったが、鳥羽法皇は忠盛の有する軍事的,経済的実力を重視して延暦寺の要求を斥けた。事件後、忠盛は伊勢の自領を祇園社に寄進して関係修復を図っている。
 久安4年(1148年)、藤原忠隆が公卿に昇進すると忠盛は四位の最上位者となり、翌久安5年(1149年)には忠隆の後任として内蔵頭となった。同年3月、熊野詣の途中で次男の家盛が急逝するという不幸に見舞われる。仁平元年(1151年)、刑部卿となるが、
仁平3年(1153年)、忠盛は公卿昇進を目前としながら58歳で死亡した。

  兄弟達と同様、兄の清盛に従い保元・平治の乱に参戦。平治の乱では仁和寺に逃げ込んだ首謀者の藤原信頼の捕縛にあたり、宮廷の守護や追討史を務める。母の身分の関係からか、官位の昇進は当初より異母弟の教盛,頼盛に比べて遅れており、生涯を通じて目立った政治的活動を行うことはなかった。
 その反面、父・忠盛から歌人としての側面を受け継ぎ、歌壇での活動は活発であった。守覚法親王の仁和寺歌会や二条天皇の内裏歌会などに出席し、自らも歌合を催している。太皇太后・藤原多子の職事を長年に亘って務めた関係から、歌壇の中心である徳大寺家の実定,実家(多子の兄弟)、女流歌人・小侍従(多子の女房)、六条藤家の藤原清輔(共に太皇太后宮多子に仕えた)・重家兄弟と親密な交流があった。『千載集』によみ人知らずとして1首入首が確認されるほか、名を呈しては『新勅撰和歌集』以下、勅撰集に12首が入集。家集として『経盛集』がある。
 寿永2年(1183年)7月の一門都落ちに同行して西走、元暦元年(1184年)2月の一ノ谷の戦いで経正,経俊,敦盛ら子息のほとんどを失った。元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いに敗れ、弟の教盛とともに入水して果てた。享年62。

 

平 経正 平 経俊

 一門の中の俊才として知られ、歌人、また琵琶の名手として名を挙げた。藤原俊成や仁和寺五世門跡・覚性法親王といった文化人と親交が深く、とりわけ覚性からは、経正が幼少時を仁和寺で過ごしたこともあり、楽才を認められ琵琶の銘器『青山』を下賜されるなど寵愛を受けた。
 寿永2年(1183年)の平家都落ちの際に仁和寺に駆けつけ、拝領の『青山』を返上し和歌を残した逸話は、『平家物語』の「経正都落」、『源平盛衰記』の「経正仁和寺宮ヘ参リシ事」条などで著名である。
 寿永3年(1184年)、一ノ谷の戦いにおいて、河越重房の手勢に討ち取られた。公式に確認されている子女はないが、後世、彼の子孫を称するものに生嶋氏がある。また能の演目である『経政』は、経正を題材とした修羅物である。

 一ノ谷の戦いにおいて、従兄弟の知盛の指揮の下、生田の森で源氏軍と対戦する。従兄弟の清房,清貞とともに三騎で敵陣に突入し、散々に奮戦した末に戦死した。 
平 敦盛 平 教盛

 笛の名手であり、祖父・平忠盛が鳥羽院より賜った「小枝」(または「青葉」)という笛を譲り受ける。平家一門として17歳で一ノ谷の戦いに参加。源氏側の奇襲を受け、平氏側が劣勢になると、騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、敵将を探していた熊谷直実が「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。敦盛が取って返すと、直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと甲を上げると、我が子・直家と同じ年頃の美しい若者の顔を見て躊躇する。直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答え、直実は涙ながらに敦盛の首を切った。このことから、直実の出家の志が一段と強くなったという発心譚が語られる。淡路島煙島に敦盛の史跡がある。
 この『平家物語』の名場面は、のちに能『敦盛』,幸若舞『敦盛』,文楽/歌舞伎『一谷嫩軍記』などの題材となった。織田信長の好んだ歌『人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか』は幸若舞の『敦盛』の一節である。
 直実は建久元年(1190年)法然の勧めにより、高野山で敦盛の七回忌法要を行っている。

 保元元年(1156年)の保元の乱では兄・清盛に従って戦っている。功により院の昇殿を許された。
 平治元年(1159年)の平治の乱では清盛が後白河法皇と二条天皇を内裏から奪回して、内裏に籠る源義朝、藤原信頼を攻撃する際に、清盛の嫡男の重盛、弟の頼盛とともに大将として六波羅を出撃。重盛が侍賢門、頼盛が郁方門を攻撃し、敗走したとみせかけて源氏を内裏からおびき出し、その間に内応者に陽明門を開けさせて内裏を占領する働きをした。退路を失った義朝は六波羅へ総攻撃をしかけるが、力尽きて敗走。乱は清盛の勝利に終わった。
 清盛が後白河院と距離を置いたのと対照的に、母が仕えた待賢門院所生という縁から後白河院に接近し院近臣として活動した。ただし正室腹の異母弟・頼盛(池殿)に比べると、清盛に従順であったという。 乱後、正四位下・常陸介に叙任されていたが、応保元年(1161年)9月15日、二条天皇を廃して憲仁親王(後の高倉天皇)擁立を図ったとの容疑のため解官される。これは後白河上皇と二条天皇との対立の巻き添えを受けたもので、院に近い平時忠(清盛の義弟)や藤原成親も同時に解官されている。なお、翌年には能登守に復職している。仁安3年(1168年)に正三位参議に進み、門脇宰相と呼ばれた。
 安元3年(1177年)6月、鹿ケ谷の陰謀事件が発覚。首謀者は院近臣の藤原成親,西光,俊寛らで、このうちの成親の嫡男の成経は教盛の娘婿だった。娘は身重でもあり、困り果てた教盛は成経とともに清盛の元へ参り、寛大な処置を願った。成経の身柄は教盛に預けることになり、成経は備中国次いで遠く薩摩国鬼界ヶ島へ流されることになった。娘婿のこと哀れに思う教盛は懐妊した中宮・徳子の安産祈願として大赦を願い出て、成経は翌治承2年(1178年)に赦免されて京へ帰った。
 治承4年(1180年)5月、以仁王の挙兵計画が露顕。園城寺に逃げ込んだ以仁王追討の大将の一人に任じられる。治承5年(1181年)閏2月、清盛が死去。平家は衰運に向かうことになる。養和元年(1181年)10月、北陸道の情勢が不穏になると、教盛は兄弟の頼盛,経盛とともに洛中の守備を担当した。
 養和2年(1182年)、従二位・権中納言に進み、門脇中納言と呼ばれるようになった。
 寿永2年(1183年)7月、平家は京を支えきれなくなり、ついに都落ちする。平家は讃岐国屋島に本営を置き、教盛,通盛,教経の父子は同年閏10月の水島の戦いに参戦し勝利する。さらに、同年11月の室山の戦いでは平重衡とともに大将軍として出陣し源行家を破っている。平家は摂津国福原まで進出し、教盛父子は西国の反乱勢力の鎮圧にあたり、特に次男の教経は華々しく戦った。
 寿永3年(1184年)2月4日、福原で清盛の法要が営まれ、除目が行われ、教盛は正二位大納言に叙されるが、これを辞退した。7日に行われた福原を巡る一ノ谷の戦いで平家は惨敗し、嫡男の通盛をはじめ、子の教経,業盛がみな討ち死にした(教経については生存説あり)。さらに、身重だった通盛の妻の小宰相も夫の後を追って入水自殺してしまう。その後、平家は屋島の戦いに敗れ、長門国彦島に逃れた。そして寿永4年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いが行われ、平家は力尽きて敗北。二位尼(清盛の妻)と安徳天皇をはじめ、平家の一門は次々と入水した。教盛は兄の経盛とともに鎧の上に碇をつなげて兄弟手を取りあって海に沈んだ。享年58。娘の教子の子・重子は後鳥羽天皇の寵妃となり、守成親王(のちの順徳天皇)を産んでいる。 

平 通盛 平 教経

 越前国の知行国主は平重盛であり、甥の通盛は国司となり支配を固めた。ところが、治承3年(1179年)に重盛が死去すると、後白河法皇は越前国を取り上げ、通盛も国司を解任されてしまう。清盛はこの措置に怒り、やがて、同年11月の治承三年の政変につながる。この政変によって通盛は越前守に復帰している。
 治承4年(1180年)5月の以仁王の挙兵に端を発して、各地で反平氏の蜂起が起こる。以仁王挙兵に関与した源行家も美濃国,尾張国で勢力圏を築きつつあった。養和元年(1181年)3月、平重衡を大将とする行家討伐の軍が派遣され、通盛も従軍。墨俣川の戦いで行家を撃破する。北陸道の加賀国・能登国でも在地の源氏が蠢動し始めていた。越前守の通盛は従兄の平経正とともにこの鎮定を命じられた。同年9月、越前国に賊徒が乱入して大野郡・坂北郡に放火した。国府にあった通盛は国中が従わない状態になっていると報告を送っている。越前国水津の戦いで通盛の軍は越前・加賀の国人(源義仲配下の根井行親)に敗れ、国府を放棄して津留賀城(敦賀城)への退却を余儀なくされている。援軍を求め、平教経,行盛らが送られることが決まるが、通盛は津留賀城を放棄して山林へ逃れて、11月に帰京している。北陸道は義仲に侵食されることになった。
 寿永2年(1183年)4月、平維盛を総大将とする源義仲追討軍が編成され、通盛も大将軍の一人として従軍する。追討軍は越前国燧城の戦いで勝利を収めた。5月に入り、維盛らの主力7万騎は義仲を追って加賀国から越中国へ進出。通盛は平知度と3万騎の兵を率いて能登国の反乱鎮圧に向かった。だが、維盛の主力軍が倶利伽羅峠の戦いで大敗を喫してしまう。通盛も能登から撤退。義仲は逃げる平氏軍を追撃し篠原の戦いで北陸追討軍は壊滅した。
 同年7月、京都の維持が難しくなり、平氏は都落ちをする。京は源義仲が支配することになったが、義仲は京の統治に失敗し、後白河法皇とも対立するようになる。同年閏10月、讃岐国屋島の平氏の本営を攻略すべく義仲は足利義清を派遣し、備中国水島で渡海のための水軍編成の準備をさせるが、そこへ平知盛を総大将とし、教盛,通盛,教経父子を副将軍とする軍勢が襲撃、義仲軍は壊滅し、足利義清は自害してしまう(水島の戦い)。いよいよ信望を失った源義仲は後白河法皇を幽閉して強引に政権を握ろうとするが、寿永3年(1184年)正月、鎌倉の頼朝が派遣した源範頼,義経の軍に滅ぼされた。
 一方、平氏は摂津国福原へ進出して都の奪回すべく勢力を回復させていた。同年2月4日、福原を攻略すべく源範頼,義経の軍が京を発向。平氏は福原の外周に防御陣を築いてこれに備えた。山の手の陣には通盛と弟の教経が配された。2月7日に矢合わせとなり激戦が繰り返されるが、義経が一ノ谷の背後から逆落しの奇襲をしかけて(異説あり)、平氏は大混乱となり海に向かって敗走を始めた。通盛は湊川の辺りで佐々木俊綱に討たれた。『平家物語』では敗勢の中で自害しようとするが木村成綱,玉井助景らに取り囲まれて討たれている。この戦いで弟の教経,業盛も討ち死にしている(『吾妻鏡』による。教経については別の史料に生存の風聞があり、壇ノ浦の戦いで戦死したという説もある)。享年32。
 2月13日、通盛の首は討ち取られた他の一門の者たちと共に京で獄門にかけられた。妻の小宰相は夫の死を悲しみ、屋島への帰路に海へ身を投げて通盛の後を追った。

 

 教経が『平家物語』に最初に登場するのは寿永2年(1183年)5月に倶利伽羅峠の戦い、篠原の戦いで源義仲に連敗した平家が急ぎ京の守りを固める場面で、兄の通盛とともに2000余騎を率いて宇治橋を警護している。結局、同年7月に平家は都落ちし、教経も一門とともにこれに従った。
 同年閏10月、義仲は讃岐国屋島の平家の本営を攻略すべく足利義清を大将とする軍を進発させ備中国水島で渡海の準備をさせた。副将軍として迎撃に出撃した教経は、船をつなぎ合わせて板を渡して平坦にして馬とともに押し渡る戦法で攻めかかり、教経が先頭に立って奮戦、敵の侍大将の海野幸広を討ち取り、大将の足利義清は船を沈めて自害して大勝した(水島の戦い)。
 寿永2年(1183年)、源氏同士の抗争の間に平家は摂津国福原まで進出した。西国各地でも平家に叛く動きが起きていた。平家の足もとの四国でも阿波国,讃岐国の在庁官人が源氏に通じ、備前国下津井にいた教盛,通盛,教経父子の陣へ兵船10余艘で攻めかかった。教経は小舟10艘を率いて出撃してこれを打ち破った。四国の者たちは淡路島へ逃れ、この地の源氏である源義嗣(源頼仲の子),義久(源頼賢の子)を大将に城を構えて対抗しようとしたが、教経はこれを攻め潰して、義嗣を討ち取り、義久を生け捕り、叛いた130余人を斬首した。
 伊予国の河野通信が源氏に寝返ったとの噂があり、平家は通盛,教経兄弟にこれを討たせようとしたが、通信は安芸国の沼田次郎と合流して沼田城に立て篭もった。教経は屋島を発して、沼田城を攻め立てて打ち破り、沼田次郎は降参した。淡路国の住人・安摩忠景が叛き大船2艘に兵糧と武具を積んで京へ向かったため、教経は小舟10艘で追撃して撃破し、忠景は和泉国へ逃げ延びた。紀伊国の住人・園辺忠康が安摩忠景に合流して助けたが、教経はこれも打ち破り200余人を斬り、忠康と忠景は京へ逃亡した。河野通信が豊後国住人・臼杵惟隆,緒方惟義兄弟と合流して2000余人で備前国へ渡り今木城に籠城した。教経は2000余騎でこれを包囲し、更に福原から援兵数千騎を得て攻め落とし、臼杵,緒方,河野は逃亡した。これら一連の戦いを六ヶ度合戦といい、教経は退勢の平家を支えるべく転戦した。
 寿永3年(1184年)2月4日、義仲を滅ぼした源範頼,義経が福原攻略に進発した。平家は福原周辺に防御陣を敷き、教経は兄の通盛とともに山の手を守った。2月7日に行われたこの一ノ谷の戦いで平家は致命的な大敗を喫して、一門の多くを失った。兄の通盛はここで討ち死にしている。『吾妻鏡』では、教経もこの戦いで安田義定の軍に討たれたとあり、同月13日に討ち取られた他の一門の首とともに京で獄門にされたとある。ところが、『玉葉』には晒し首になった者たちのうちで教経については生存の風聞があることを示す記述があり、『醍醐雑事記』などは壇ノ浦の戦いで自害したとしている。一方で、『吾妻鏡』の壇ノ浦の戦いの戦果報告の戦死者,捕虜の中には教経の名はない。このために一ノ谷の戦い後の教経については死亡説、生存説があり、はっきりしない。
 元暦2年(1185年)2月、義経は平家の本営讃岐国屋島へ奇襲をしかけた。激しい矢戦となり、教経は義経を守ろうとする郎党たち10騎を射落とした。この時、奥州平泉から義経に従っていた佐藤継信が真っ先に矢面に立ち射抜かれた。教経の童の菊王丸が首を取ろうと走りよるが、継信の弟の忠信がこれを射落とす。菊王丸は亡き兄・通盛に仕えていた18歳の若者で、教経は菊王丸の死を悼んで戦をやめてしまった。平家は屋島を放棄し、知盛の守る長門国彦島へ逃れた。義経は水軍を編成して彦島へ攻めよせる。背後の九州は範頼に制圧されており、既に平家に退路はなくなっていた。
 3月25日、源平最後の決戦である壇ノ浦の戦いが行われた。平家の敗北は決定的になると、教経はなおもひとり戦い続け、「ならば、敵の大将と刺し違えん」と意を決した教経は舟から舟へ乗り移り、敵を薙ぎ払いつつ義経を探した。そして、ようやく義経の舟を見つけて飛び移り、組みかからんとするが、義経はゆらりと飛び上がるや、舟から舟へ八艘彼方へ飛び去ってしまった。有名な義経の八艘飛びである。早業ではかなわないと思った教経は、今はこれまでと覚悟を決め、その場で太刀を捨て、兜も脱ぎ棄てて仁王立ちし、「さあ、われと思わんものは組んで来てこの教経を生け捕りにせよ。鎌倉の頼朝に言いたいことがある」と大音声を挙げた。兵たちは恐れて誰も組みかかろうとはしなかった。三十人力で知られた土佐国住人・安芸太郎と次郎の兄弟、そして同じく大力の郎党が、生捕って手柄にしようと三人で組みかかった。教経は郎党を海へ蹴り落とすと、安芸兄弟を左右の脇に抱えて締め付け「貴様ら、死出の山の供をせよ」と言うや、兄弟を抱えたまま海に飛び込んだ。享年26。
 徳島県祖谷地方の伝説では教経は壇ノ浦で死なず、祖谷に落ち延びてその地で没したといわれている。安徳天皇ともども100余騎を引き連れた教経は四国へ落ち延び、水主村(現在の香川県東かがわ市)にしばらく潜伏した後、山を越えて祖谷山の地に入った教経は、名を幼名の国盛と改めた。教経は祖谷を開拓して御家再興を図ったものの、安徳天皇が9歳で崩じたため、平家再興を断念し祖谷に土着。20年の後に没したという。子孫は阿佐姓を称し、今も平家の赤旗を伝えているという。

平 忠快 平 業盛

 門脇中納言・教盛を父として生まれる。覚快法親王の門下において、安元2年(1176年)に受戒。慈円や玄理に師事し、青蓮院に住する。平氏政権下において権少僧都まで進むが、寿永2年(1183年)に平家一門とともに都落ちし、2年後の元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いにおいて捕虜となり、同年伊豆国へと配流される。
 伊豆においては狩野宗茂の監視下で過ごすが、この間、源頼朝や御家人からの帰依を受け、やがて文治5年(1189年)には帰洛。父・教盛の所有地であった三条小川高畠の地を返却され、同所に宝菩提院を営む。建久6年(1195年)には頼朝に随って再度関東に下向。建仁3年(1203年)には慈円の譲りにより権少僧都に還任。さらに法眼,権大僧都と進んだ。
 鎌倉幕府第3代将軍・源実朝の信頼も厚く、その招きにより数度に渡って関東を訪問している。一方、京においては後高倉院の帰依を受けるなど、朝廷・幕府の双方からの尊崇を集める高僧であった。承久年間には比叡山の横川の長吏にも就任している。その教学は後世「小川流」と呼ばれ、台密十三流の一派を形成した。 

 寿永2年(1183年)7月、源義仲に追われ平家一門が都落ちすると、業盛も父や兄らともにこれに従った。寿永3年(1184年)2月7日、一ノ谷の戦いにおいて、兄たちとともに山手の城戸口の防備にあたったが、源範頼の軍の手にかかり戦死。『平家物語』によると、業盛は常陸国の住人・土屋五郎重行と組んで討たれたとされている。『源平盛衰記』にはその最期の様子が、以下の通りより詳しく描かれている。即ち、源義経の逆落としの奇襲によって大混乱に陥った平家軍は海上の船団に向かって敗走しはじめた。業盛は馬上、渚に佇んでいたところを泥屋四郎吉安に組みかかられ、双方馬から落ちて上になり、下になりながら組み合っているうちに古井戸に落ちてしまった。業盛が上になって四郎の首を搔こうとするが、そこへ泥屋五郎が助けに現れて、業盛の兜に取りついた。業盛は振りほどこうとして、五郎は兜をつかんだまま投げ飛ばされた。だが、業盛は手負いになっており、五郎は起き上がると業盛の首を取り、兄を井戸から引き上げた。このとき業盛は17歳で、その力の強さに人々は感心したという。
 2月13日、一ノ谷の戦いで討たれた他の平家一門の首とともに京で獄門に処された。 

平 教子 平 頼盛

 後鳥羽天皇の寵妃・藤原重子(修明門院)の母で、順徳天皇の外祖母にあたる。子は他に藤原(高倉)範茂。従三位。
 はじめ播磨内侍と呼ばれ、従五位下の位を得て准后・平盛子に仕える。その頃に藤原範季の正妻となったと見られる。治承4年(1180年)に生まれた高倉天皇の第4皇子尊成親王(のちの後鳥羽天皇)は範季邸に預けられ、夫婦で親王の養育にあたった。寿永元年(1182年)に重子を産む。
 寿永2年(1183年)7月、平家一門は安徳天皇を伴って都を落ち、父・教盛も一門と共に西走した。都では安徳天皇に代わる新たな帝の選定が行われ、後白河法皇の意志により範季・教子夫妻が養育する4歳の尊成親王が擁立され、後鳥羽天皇となる。
 通盛,教経ら兄弟は一ノ谷の戦いなどで多くが討ち死にし、父・教盛は寿永4年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで安徳天皇,平家一門と共に自害した。
 文治元年(1185年)に範茂を産む。娘の重子は女房として内裏に仕えるようになり、後鳥羽天皇の寵を受けて建久8年(1197年)に守成親王(のちの順徳天皇)を産む。後鳥羽天皇の寵愛は源在子から重子に移り、守成親王は正治2年(1199年)4月に皇太弟に立てられた。教子は建久の末年頃に内裏女房となって典侍に任じられ、中納言典侍と呼ばれる。時期は不明だが、従三位に叙せられている。元久年(1205年)5月、範季が死去。
 承久3年(1221年)、鎌倉幕府と対立した後鳥羽上皇が倒幕の兵を挙げて承久の乱が起こり、順徳上皇もこれに従った。子の範茂は倒幕側の中心勢力となり、上皇方が乱に敗北した後、幕府軍によって処刑されている。後鳥羽上皇,順徳上皇は配流となった。順徳天皇が反鎌倉の意識が強かったのは、平家の生き残りである祖母・教子の元で育ち、周囲には平家の関係者が多かったことに一因があるのではないかともいわれている。
 没年は未詳だが、かなりの長命で嘉禄2年(1226年)7月にも生存している記録が見られる。

 

 寿永2年(1183年)7月24日、宗盛は都に迫った木曽義仲軍を防ぐために、頼盛に山科方面への出兵を要請する。頼盛は一時は拒絶したが、やむを得ず山科に向かった。25日未明、後白河院は比叡山に脱出する。これを知った宗盛は六波羅に火を放って都を退去した。ところが宗盛は、山科防衛に出動していた頼盛に都落ちを知らせていなかった。頼盛は都落ちを聞くと、子の為盛を宗盛のもとに差し向けて事情を問い詰めるが、宗盛は動揺するばかりで明確な返答はなかった。頼盛は都に戻るが、すでに池殿は全焼しており後白河院に保護を求めた。後白河院は頼盛に八条院のもとに身を隠すことを指示した。28日、後白河院は平氏追討,安徳帝の帰京,神器の回復の方策を立てるため公卿議定を開いた。この議定では、頼盛の処遇も議題に上がり解官された。
 解官後の頼盛は八条院の庇護を受けながら、密かに鎌倉の源頼朝と連絡を取っていたと思われる。後白河院と義仲の対立が決定的となると、都は極めて不穏な情勢となり、10月20日、頼盛逐電の情報が流れて騒ぎとなった。 閏10月になると、親鎌倉派である一条能保(頼朝の義弟),持明院基家(頼盛の娘婿、能保の叔父)も危険を察知して鎌倉に亡命した。
 鎌倉の頼朝は頼盛を篤くもてなした。それは旧恩だけでなく後白河院や八条院と太いパイプを持つ頼盛の参入に、心強さを感じていたことも理由の一つとして考えられる。寿永3年(1184年)4月、頼朝は頼盛に荘園33ヶ所を返還しているが、この荘園の返還は頼朝による本領安堵であり、頼盛はこれによって鎌倉との主従関係に組み込まれたとする見方もある。
 その後、頼盛は一旦帰京していたらしく、5月3日に改めて亡命としてではなく正式に関東に下向した。6月5日には再び帰京して権大納言に還任する。子の光盛は侍従に、保業は河内守となった。
 京都に戻った頼盛は、再び朝廷に出仕する。しかし、法住寺合戦を前に京都から逃亡したことや鎌倉の厚遇を受けたことで院近臣の反発を買い、朝廷内で孤立したと推測される。12月20日、頼盛は権大納言を辞任、光盛を近衛少将に任じることを奏請した。翌元暦2年(1185年)3月、平氏一門は壇ノ浦の戦いに敗れて滅亡すると、それから程なく頼朝に出家の素懐を申し送って了承を得、5月29日、東大寺で出家して法名を重蓮と号した。翌月、後白河院は播磨国・備前国を院分国として、知行権を頼盛に与えたが、これは頼朝の要請によると見られ、頼盛は藤原実明を播磨守、光盛を備前守に推挙した。これ以降、頼盛は八条室町の自邸に籠居して表舞台にほとんど姿を見せなくなる。6月2日、頼盛は54歳で死去した。この頃、幕府の京都守護・一条能保は義経の捜索に没頭していた。九条兼実も頼盛の死を日記に記すことはなく、その死は周囲からも忘れ去られていた。
 頼盛には平氏一門、院近臣、親鎌倉派という複数の顔があり、どの陣営からもそれなりの厚遇を受けていた。しかし、その待遇には周りの者が頼盛に気を遣っていたためかどこか距離があり、頼盛はどの陣営にも居場所を得ることのできない異分子であり続けた。

平 保盛 平 為盛

 応保2年(1162年)叙爵。長寛元年(1163年)右兵衛佐,越前守。仁安元年(1166年)尾張守に補任され、仁安2年(1167年)には昇殿、仁安3年(1168年)には正五位下と順調に昇進していたが、同年11月、後白河院の逆鱗により突然解官された。これは頼盛父子が後白河院に従わず、高倉天皇即位の大嘗会の五節の舞姫の奉仕や皇太后・平滋子の入内での保盛の行動が院の不興をかったためであった。
 翌嘉応2年(1170年)には還官したが、同年代の従兄弟の通盛,経正は正四位下に昇進しており、長庶子のためか、保盛は彼らの下とされていた。一族の当主・平清盛と父・頼盛との間には溝があり、寿永2年(1183年)7月の平家一門の都落ちには従わなかった。平家滅亡後は本官に還任されたが、嫡子とされた光盛に比べると、昇進もはかばかしくなく、承元3年(1209年)にようやく従三位、非参議となった。翌承元4年(1210年)、正三位に叙される。建暦元年(1211年)に出家した。
 保盛は九条家に仕えたといわれ、九条家の家司であった藤原定家と親しかった。定家は保盛の子を養育していたこともあり、承久の乱で討たれた保盛の子・保教を2人で偲んだこともあった。また寛喜2年(1230年)正月、保盛の子・高頼は右兵衛佐に任官されるが、高頼はたびたび定家邸を訪問し、定家に公事の指南を受けていた。『明月記』によれば、保盛は寛喜3年(1231年)頃から病がちとなり、天福元年(1233年)に亡くなったものと推定されている。 

 安元元年(1175年)12月に紀伊守、養和元年(1181年)7月に加賀守に任ぜられる。兄・平保盛と共に同年9月には熊野討伐に出陣し、寿永元年(1182年)には諸国追討計画(未実施)で南海道方面大将に任ぜられた。『源平盛衰記』には、寿永2年(1183年)5月12日、倶利伽羅峠の戦いで木曾義仲の部将・樋口兼光に首をはねられ討死したと記されているが、延慶本『平家物語』には、平家都落ち後に解官された一門として右兵衛佐為盛の名が認められる。『愚管抄』では、為盛は都落ちに際して父・頼盛の使者を務めたと記述されており、平家滅亡後の元暦元年(1185年)9月、従四位上に叙され、建保6年(1218年)には、将軍・源実朝の左近衛大将任官に際し、鎌倉に下向し鶴岡八幡宮拝賀に付き従っている。 
平 静遍 平 忠度
 号は心円房・真蓮房。禅林寺法印,大納言法印とも称される。醍醐寺の勝賢、仁和寺の仁隆などに真言密教を学び、京都禅林寺の住持となった。浄土宗の法然が著した『選択本願念仏集』を読んで感激し浄土教に傾いた。晩年は高野山往生院に住している。 

 天養元年(1144年)平忠盛の6男として生まれる。母は藤原為忠の娘(異説として原高成の女とも)。紀伊国の熊野地方で生まれ育ったと言われており、熊野別当湛快の娘で湛増の妹でもあった女を妻としたこともあったようである。治承2年(1178年)従四位上。治承3年(1179年)伯耆守。治承4年(1180年)正四位下・薩摩守。
 歌人としても優れており藤原俊成に師事した。平家一門と都落ちした後、6人の従者と都へ戻り俊成の屋敷に赴き自分の歌が百余首おさめられた巻物を俊成に託した。『千載和歌集』に撰者・俊成は朝敵となった忠度の名を憚り「故郷の花」という題で詠まれた歌を一首のみ詠み人知らずとして掲載している。『千載和歌集』以降の勅撰和歌集に11首が入集。なお、『新勅撰和歌集』以後は晴れて薩摩守忠度として掲載されている。
 源頼朝討伐の富士川の戦い、源義仲討伐の倶利伽羅峠の戦い等に出陣。一ノ谷の戦いで源氏方の岡部忠澄と戦い41歳で討死。平家物語によると源氏に紛れる作戦をとっていたが、源氏の多くが付けていないお歯黒を付けていたので見破られて討たれた。その時箙に結びつけられたふみを解いてみると、「旅宿の花」という題で一首の歌が詠まれていた。彼が討たれた際、文武に優れた人物を…と敵味方に惜しまれたという。戦の後、忠澄は忠度の菩提を弔うため、埼玉県深谷市の清心寺に供養塔を建立している。
 兵庫県明石市には、忠度の墓と伝わる忠度塚があり、付近は古く忠度町と呼ばれていた。神戸市長田区駒ヶ林には、平忠度の腕塚と胴塚がある(神戸市認定地域文化財)。