<桓武平氏>高望王系

H106:平 忠盛  平 高望 ― 平 良望 ― 平 維衡 ― 平 忠盛 ― 平 清盛 H107:平 清盛

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平 清盛 平 基盛

 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。
 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家,寺社,武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、病没した。

 

詳細は、Wikipedia(平 清盛)参照

 

 久寿2年(1155年)4月11日に院判官代に補され、翌日左兵衛尉に任じられた。同年12月には検非違使の宣旨を受けた。保元元年(1156年)の保元の乱に際しては、父とともに後白河天皇方に参加。18歳ながら宇治路の警護に当たり、東山法性寺の辺りで崇徳上皇方に参陣途上の源親治を捕らえるという大功を立てた。 これを賞され戦後の9月には蔵人に任じられ、従五位下に叙勲された。その後は大和,淡路の国司にも任じられている。
 続く平治の乱(1159年)においては、当初、父・清盛や異母弟・宗盛らとともに紀伊国の熊野詣において藤原信頼らの挙兵の報に接するも、在地豪族らの協力により無事帰京を果たして反乱軍を撃破。この政変を経て平家一門の政権基盤が確立されると、基盛も一門の有力者の一人として左衛門佐,遠江守,越前守を歴任した。しかし『衛門府補任』によると応保元年(1161年)9月15日に憲仁親王皇太子擁立の疑いで左衛門佐等を解官されている(親族の時忠,教盛も同様の疑いで同日解官されている)。
 その直後からは押小路東洞院皇居の紫宸殿の造営の任に当たっているが、翌応保2年、同事業の完成と時期を同じくして、24歳で早世した。 定説では病死とされるが、『源平盛衰記』においては、宇治川を騎馬で渡河しようとした際に藤原頼長の怨霊に祟られ溺死した、と記されている。
 一子・行盛は父の死後伯父の重盛に養われ、一門の都落ちに同行して壇ノ浦の戦いで自害している。

平 行盛 平 宗盛

  父・基盛が早世した後、その菩提を弔いながら過ごしていたが、これを憐れんだ伯父の重盛によって養育され、平家一門の栄達にともない正五位下に昇叙し播磨守,左馬頭にもなる。藤原定家に師事し歌人としても名を上げた。都落ちの際に自身の詠草を定家に託し、その包み紙に書かれた和歌は後に新勅撰和歌集に入集している。
 治承・寿永の乱においては、倶利伽羅峠の戦い、三草山の戦い、藤戸の戦い、屋島の戦いなどに参加。特に藤戸の戦いにおいては、大将軍として佐々木盛綱率いる源氏方と対戦した。元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いにおいて最終的な敗北を喫し、従兄弟の資盛,有盛とともに入水自殺(平家物語)、または討死(源平盛衰記)した。
 一説によると信基(時信)という息子がおり、種子島に渡って種子島氏の祖となったと伝わる。奄美群島に伝わる平家落人伝説では壇ノ浦の戦いから落ち延びて従兄弟の平資盛,平有盛や彼等の配下と共に生き伸び、島民に文化を教え島を統治したとも伝わっている。 

 二人とも正室の子として生まれてはいるが母親は異なり、また本人たちの年齢も10歳差と離れていたため、当初から重盛と宗盛の間には対立の芽が内包されていた。
 重盛の事実上の失脚後、表舞台に立ち、治承5年(1181年)閏2月4日の清盛死去によって、宗盛が平氏の棟梁の座を継いだ。
 元暦2年(1185年)3月24日、壇ノ浦の戦いでは平知盛,経盛,教盛ら一門が入水する中、宗盛は死にきれずに泳ぎ回っていたところを息子の清宗とともに引き上げられ捕虜となった。一旦、鎌倉に送られ源頼朝の前で卑屈な態度に終始して助命を乞うたが、6月9日、京都に送還される途中、21日に義経の命を受けた橘公長の手により、近江国篠原宿で斬首された。享年39。

 

詳細は、Wikipedia(平 宗盛)参照

 

平 清宗 平 能宗

 承安2年(1172年)、3歳で伯母である建春門院の御給で叙爵し、従五位下となる。同時に元服して内昇殿、禁色を許されるという破格の待遇を受けている。承安3年(1173年)、女院御所で行われた鵯合で後白河法皇は幼い清宗を膝に乗せ、人目も憚らず鍾愛したという。
 治承4年(1180年)、11歳で従三位に昇叙。養和2年(1182年)、13歳で正三位。寿永2年(1183年)2月に平頼盛の娘との婚姻が成立している。
 同年7月に平家一門はの源義仲上洛により安徳天皇とともに都を落ち、清宗もこれに従う。平家は各地で敗れ、元暦2年(1185年)3月24日、壇ノ浦の戦いで敗北し、滅亡に至る。清宗は父の宗盛とともに入水を試みるが、父子は海から引き上げられて捕虜となる。
 宗盛と共に都を引き回されたのち、5月に源義経により鎌倉へ護送される。6月、宗盛が頼朝と対面したのち、父子は再び京に護送される途中の6月21日、宗盛は近江国篠原宿で橘公長によって斬首され、清宗も同日に近江国野路口で堀景光に斬首された。享年17。首は京・六条河原に晒された。滋賀県草津市野路5丁目には清宗の胴塚と伝わる石塔が、遠藤家邸宅の中庭にあり、毎年6月21日に「清宗忌」が行われ、代々保存供養されている。 

 諱名は良宗とも。幼名の副将丸は、将来朝敵を討伐する際に、異母兄である清宗を大将軍に、能宗を副将軍にという思いから名づけられた。生まれてすぐに母親を亡くし、その母の遺言で宗盛が乳母にも預けず、自ら片時も離さず育てたという。幼くして従五位上に昇るが、寿永2年(1183年)の一門都落ちに伴われたのち解官。壇ノ浦の戦いで一門が滅亡すると、父・兄とともに捕らえられて河越重房の元に預けられ、京都の六条河原にて斬られた。享年8(『吾妻鏡』では6とする)。
『平家物語』には、幼い能宗の最後の日々が克明に描写されている。
 宗盛が鎌倉へ護送される直前の5月4日、宗盛は義経に懇願して壇ノ浦で捕虜となってから初めて副将(能宗)と対面する。久しぶりに父と会った副将は喜んで宗盛の膝に上り、宗盛は涙ながらに副将の髪を撫で、出産の直後に亡くなった副将の母から自分の形見としてほしいとの遺言を語り、清宗,警護の武士,乳母たちはみな涙で袖をぬらした。日が暮れて別れの時が来たが、副将は泣いて宗盛の袖に取りすがり、帰ろうとしない。乳母が能宗を抱き取って御車に乗せて帰ると、見送った宗盛は「今の悲しみに比べれば、日頃の恋しさはものの数ではなかった」と嘆いた。副将を預かった河越重房は、鎌倉へは連れて行かず、京で処置するようにとの義経の命を受け、「若君は京に留まるので、緒方惟義が預かる手はずになっています」と御車を差し向けた。副将は「また昨日のように父上のところへ参るのか」と喜んで車に乗ると、車は六条通りを東へ向かい、同行した乳母たちは動揺する。賀茂河原へ到着し、車を降りた副将は不審に思い、重房の郎党に斬られそうになると逃げ出して乳母のふところに隠れた。乳母たちは副将を抱きかかえて泣き叫び、武士達は憐れんだが、時刻がかなり経過したので重房は「今どのよう思われても、望みはかなえられません。さあ早く」と促し、武士たちは乳母のふところから副将を引き出して首を切った。さすがに武士達もその痛ましさに涙を流した。副将の首は義経に届けられたが、乳母たちは裸足で追いかけて後世を弔いたいと願い、首を取り戻した数日後、乳母の一人が首をふところに、一人が亡骸を抱いて桂川に身を投げた。『延慶本』での副将処刑は、石を入れた籠の中に入れ桂川に沈める柴漬という方法で殺害され、二人の乳母は出家し尼になったとされる。

平 知盛 平 知章

 仁平2年(1152年)、父・清盛35歳の時に継室・時子を母として生まれる。同母・兄の宗盛は6歳、異母長兄の重盛は15歳であった。永暦元年(1160年)2月、東国の重要な武蔵国が清盛の知行国となり、知盛が武蔵守となった。その後再任して8年間同職にあり、治承4年(1180年)以降は武蔵国の知行国主となって長年同国を支配し、多数の平氏家人を獲得した。武蔵は河内源氏の勢力が強い地域であり、知盛の武将としての才能・人間的魅力が大きく作用したと思われる。
 兄の重盛,宗盛は後白河院に対して優柔不断であったため、清盛は知盛に期待をかけたらしく25歳の頃「入道相国最愛の息子」と呼ばれている。治承2年(1178年)10月、同母妹である徳子が言仁親王(のちの安徳天皇)を出産、12月に立太子した。翌治承3年(1179年)2月、高倉天皇の第2皇子(のちの後高倉院)が誕生し、知盛に養育が任され、妻の治部卿局が乳母となる。
 治承3年(1179年)閏7月、平氏棟梁であった重盛が死去し、同母兄・宗盛が新たに棟梁となり、知盛は同母弟・重衡と共に宗盛を補佐する。その3ヶ月後の11月14日、後白河院との対立が頂点に達した清盛は数千騎の兵を率いて治承三年の政変を起こし、後白河院政を停止、名実共に権力の頂点に立つ。
 治承4年(1180年)2月21日、言仁親王(安徳天皇)が即位し、高倉院政のもと、知盛は軍事部門の担当である御厩別当に就任した。5月8月夜から知盛は「万死に一生」の重病となっている。
 同時期に4月頃から進行していた以仁王の挙兵が起こり、5月15日には以仁王の配流が決定された。21日に知盛は園城寺攻撃の大将軍の一人となる。反乱は平氏の精鋭家人と大将の重衡,維盛らの派遣により短時間で鎮圧された。しかし山門の不穏な動きなど京の軍事的緊張は続き、6月2日、清盛による福原遷都が強行されるが、源頼朝挙兵など各地で相次ぐ反乱に対処するため、遷都から半年で都を平安京に戻し、知盛は数千の兵を率いる宗盛と共に安徳天皇を守護して京に戻った。
 同年12月、本格的に内乱鎮圧に乗り出した清盛の命により、知盛は甥・平資盛と共に大将軍に命じられるが、治承5年(1181年)閏2月4日、清盛が死去する。その遺言は一門最後の1人まで頼朝と戦えというものであった。
 棟梁宗盛は清盛の強硬路線を否定して、後白河院に政権返上を申し出るが、朝廷による反乱源氏軍との和平案は拒否、軍事の実権は依然として平家が握り、実力による反乱鎮圧に固執することになる。倶利伽羅峠の戦いで壊滅的な敗北を喫すると、木曾義仲ら反乱軍は勢いを得て京を目指して進撃してくることになる。反乱軍を迎え撃つため、一門を畿内各所に派遣するが、7月24日、各地に派遣されていた諸将は都に呼び戻される。寿永2年(1183年)7月24日夜半、都落ちを目前にして、平氏の正統性確保に同行が必須であった後白河法皇が比叡山に逃亡し、事態を予想せず法皇を取り逃がした宗盛は茫然自失であったという。25日、平氏一門は六波羅や西八条邸を焼き払い、安徳天皇,建礼門院,三種の神器を擁して都を落ちる。
 寿永3年(1184年)2月7日、一ノ谷の戦いでは知盛は大将軍として生田の森に陣を敷き、源範頼率いる鎌倉方大手軍を迎え撃った。しかし一ノ谷側で搦手の源義経軍の逆落としを受けた平氏軍は混乱に陥り、生田側の軍も撤退して海上に逃れた。この戦いの敗北で平氏は知盛の嫡男・知章を初め、一門の有力武将を多数失う甚大な被害を受け、弟の重衡は捕虜となった。 
 寿永4年(1185年)3月24日、壇ノ浦の戦いで鎌倉軍と最後の戦闘に及ぶが、田口成良ら四国,九州在地武士の寝返りにあい、追い詰められた一門は入水による滅びの道を選ぶ。安徳天皇,二位尼らが入水し、平氏滅亡の様を見届けた知盛は、乳兄弟の平家長と手を取り合って海へ身を投げ自害した。享年34。
 妻の治部卿局は東宮として同行していた守貞親王と共に生き残り、都へ戻った。壇ノ浦から36年後、承久の乱によって後鳥羽院が鎌倉幕府に敗れて配流となり、幕府によって守貞親王の皇子が後堀河天皇として擁立され、父である守貞親王は後高倉院として院政を行う治天の君となっている。 

 寿永2年(1183年)の平家都落ちに伴って西海へ。寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦いでは、父・知盛に従い、源氏方の源義経軍と戦闘。『平家物語』「知章最期」によると、全軍総崩れの中、知盛と知章、郎党の監物太郎頼方の主従三騎で敗走。海岸に出たところを、源氏方の児玉党に追い付かれ、交戦。児玉党の大将が知盛に組付くところに割って入り、児玉党の大将を討ち取ったが、周囲の武士に囲まれて壮絶な最期を遂げた。享年16。そのおかげで生き延びた知章の父である知盛は、「どんな親が息子を助けないで逃げるだろうか」と自分を責め、さめざめと泣いたという。 
平 増盛 平 知忠

 政権の座にある平家一門の子弟として生まれるが、早くから出家させられていたため、寿永2年(1183年)の一門都落ちの際は、知盛に寺に留められ、あえて伴われなかったと推定されている。治承・寿永の乱の過程で父の知盛や兄の知章は落命し、また弟の知忠は建久7年(1196年)に挙兵計画が露見して鎌倉幕府側に誅殺される。
 しかし、経緯は不明ながら増盛自身は罪を問われることはなく、建久6年(1195年)には上洛していた源頼朝が鎌倉に下向する際、同じ平家一門出身の忠快とともに一行に加えられた。その後、頼朝の父である義朝の菩提寺として幕府の南向かいに造営された勝長寿院に居住しているが、どういう事情で頼朝が知盛の子である増盛を勝長寿院に居住させたのかは全く不明である。

 寿永2年(1183年)、源義仲の攻勢の前に平家が都落ちを決意したとき、知忠は幼少のために父の命令で伊賀にいる乳母子の橘為教のもとへ預けられた。そのため、伊賀大夫とも称されている。父の知盛は寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いで入水自殺し、母は一命を助けられて京都に戻った。知忠は伊賀で成長した。
 しかし建久7年(1196年)、突如として京都法性寺に現れる。これらには諸説があるが、有力説は源頼朝の妹婿である一条能保の暗殺計画を企み、平家の再興を図ったものと言われている。しかし幕府にいち早く察知されて、知忠とその主従はことごとく討たれてしまった。享年17。死後、彼の母が首実検のために息子の首を見極め、泣き伏したことは有名である。なお、彼の生年には安元2年(1176年)説もありこれに基づけば享年21となる。 

平 知宗 中納言局

 平家一門の平知盛の3男。惟宗知宗や宗知宗、また武藤知宗とも名乗っている。
 寿永3年(1184年)、平家の都落ちで各地を転々としている時期に誕生。元暦2年(寿永4年/1185年)に壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後、長門国・斎藤兵庫を経て鎮西奉行・武藤資頼と乳母の惟宗氏によって庇護される。その後、武藤資頼の養子になり、正治2年(1200年)に太宰大監に任官する。
 建長7年7月5日(1255年8月8日)、大宰府北殿で死去。享年72。死去した日については異説あり、建長7年7月3日(1255年8月6日)とする説もある。 

 平知盛の娘。母は治部卿局。後堀河天皇の内裏女房。藤原範茂の妻。子に範継,女子(藤原隆親妻、のちに離別)。
 治承・寿永の乱の最中に誕生し、間もなく生家である平家一門は安徳天皇を擁して都を落ちることとなり、父母と共に西走した。兄・知章や父・知盛は合戦の中で討ち死,自害を遂げ、母・治部卿局は生き延びて娘と供に都へ戻った。建久7年(1196年)、同母兄の知忠が謀反を起こして梟首されている。
 承久3年(1221年)6月の承久の乱では、夫・範茂が後鳥羽上皇方の首謀者として処刑された。16歳であった子の範継は助命された。乱の後、鎌倉幕府の意向により、母・治部卿局が乳母を務めた後高倉院の子である後堀河天皇が擁立される。中納言局は後堀河天皇の内裏女房として仕え、『明月記』に「権勢の女」と記されている。 

平 徳子 平 盛子

 高倉天皇の中宮。安徳天皇の国母。院号は建礼門院。
 清盛と後白河法皇の政治的協調のため、高倉天皇に入内して第一皇子・言仁親王(後の安徳天皇)を産む。安徳天皇の即位後は国母となるが、高倉上皇と清盛が相次いで没し、木曾義仲の攻撃により都を追われ、壇ノ浦の戦いで安徳天皇,時子は入水、平氏一門は滅亡する。徳子は生き残り京へ送還されて出家、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔った。
『平家物語』「灌頂巻」では大原を訪れた後白河法皇に自らの人生を語り、全巻の幕引き役となっている。 

 近衛基通の養母。後に高倉天皇准母として准三宮に叙せられ、白河殿・白河准后と号する。
 清盛は長寛2年(1164年)4月10日、摂関家後継者で22歳の基実に9歳の盛子を嫁がせる。永万2年(1166年)7月26日に基実が24歳の若さで急死した。基実の子・基通は7歳と幼少であり、後任の摂政には松殿基房が就任する。この時、摂関家家司の藤原邦綱は殿下渡領,勧学院領,御堂流寺院領(氏院寺領)を除く膨大な私的家領,代々の日記宝物,東三条殿を盛子が伝領するよう策動し、自らは盛子の後見となった。この結果、清盛は盛子の父として、摂関家領荘園の実質的管理を継続することになる。一般的に平氏による「摂関家領の横領」と呼ばれる事件であるが、これはあくまで、盛子が養母となっていた基通が成人するまでの一時的な措置という建前であり、憲仁親王(後の高倉天皇)擁立のため平氏との連携を模索していた後白河上皇もこれを認めた。10月10日の憲仁立太子の儀式は、盛子の住む摂関家の正邸・東三条殿で盛大に執り行われた。
 わずか11歳で実質的な摂関家の家長となった盛子は、翌仁安2年(1167年)11月10日、白河押小路殿に移って「白河殿」と称されるようになる。11月18日には憲仁の准母として従三位となり、准三宮を宣下された。夫の没後は、基通の養育の傍らで氏族内部の行事の遂行などを円滑にこなしていたが、治承3年(1179年)春より不食を煩い、6月17日、白河押小路殿において夫と同じ24歳で死去した。
 盛子の死後、遺領は後白河院の管理下に入ったことで、後白河院と清盛の全面衝突を惹起することになる。 

平 重衡 平 寛子

 継室の時子の子として生まれた重衡は幼少にして叙位し、平氏の公達として順調に昇進を重ね、治承3年(1179年)、23歳で左近衛権中将に進んだ。同年11月の治承三年の政変では、重衡は後白河法皇への奏上を行う使者となっている。
 翌治承4年(1180年)5月、以仁王の挙兵が起こり、重衡は甥の平維盛と共に大将軍として出陣した。この反乱は早期に鎮圧されたが、その後も反平氏の挙兵が各地で相次ぎ8月に源頼朝が伊豆国で挙兵。さらに後白河院と密接につながる園城寺や、関白・松殿基房配流に反発する興福寺も公然と反平氏活動を始めた。
 重衡は清盛の命により、12月11日に園城寺を攻撃し寺を焼き払うと、12月25日に大軍を率いて南都へ向かった。興福寺衆徒は奈良坂と般若寺に垣楯,逆茂木を巡らせて迎えうつ。河内方面から侵攻した重衡の4万騎は興福寺衆徒の防御陣を突破し、南都へ迫った。28日、重衡の軍勢は南都へ攻め入って火を放ち、興福寺,東大寺の堂塔伽藍一宇残さず焼き尽し、多数の僧侶達が焼死した。この時に東大寺大仏も焼け落ちた。明りを点けるために火をかけた民家から延焼とも、計画的放火であったともいわれている。大仏殿や興福寺まで焼き払うような大規模な延焼は、重衡の予想を上回るものであったと考えられる。この南都焼討は平氏の悪行の最たるものと非難され、実行した重衡は南都の衆徒からひどく憎まれた。
 翌治承5年(1181年)閏2月4日、清盛は死去する。墨俣川の戦いでは勝利したものの寿永2年(1183年)5月には倶利伽羅峠の戦いで平氏軍は大敗し、平氏は京の放棄を余儀なくされた。重衡も妻の輔子と共に都落ちした。
 重衡は勢力の挽回を図る中心武将として活躍し、同年10月の備中国・水島の戦いで足利義清を、同年11月の室山の戦いで再び源行家をそれぞれ撃破して源義仲に打撃を与えた。だが、同年2月の一ノ谷の戦いで平氏は源範頼,義経の鎌倉源氏軍に大敗を喫し、敗軍の中、重衡は馬を射られて捕らえられた。重衡を捕らえたのは『平家物語』では梶原景季と庄高家、『吾妻鏡』では梶原景時と庄家長とされる。重衡は京へ護送され土肥実平が囚禁にあたった。3月、重衡は梶原景時によって鎌倉へと護送され、頼朝と引見した。その後、狩野宗茂に預けられたが、頼朝は重衡の器量に感心して厚遇し、妻の北条政子などは重衡をもてなすために侍女の千手の前を差し出している。元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡し、この際に重衡の妻の輔子は入水するも助け上げられ捕虜になっている。
 同年6月9日、焼討を憎む南都衆徒の強い要求によって、重衡は南都へ引き渡されることになり、源頼兼の護送のもとで鎌倉を出立。22日に東大寺の使者に引き渡された。一行が輔子が住う日野の近くを通った時に、重衡が「せめて一目、妻と会いたい」と願って許され、輔子が駆けつけ涙ながらの別れの対面をし、重衡が形見にと額にかかる髪を噛み切って渡す哀話が残されている。23日、重衡は木津川畔にて斬首され、奈良坂にある般若寺門前で梟首された。享年29。なお、斬首前に法然と面会し、受戒している。妻の輔子はうち捨てられていた重衡の遺骸を引き取り、南都大衆から首も貰い受けて荼毘に付し、日野に墓を建てた。現在、京都市伏見区の団地の中に墓が残されている。安福寺には重衡の供養塔がある。また梟首された般若寺にも供養塔がある。また輔子は高野山にも遺骨を葬らせ、その後、大原に隠棲した建礼門院に仕えた。夫婦の間に子は無かった。
 重衡の死の3年後に鎌倉の千手の前は若くして死んだ。人々は亡き重衡を恋慕して憂死したのだと噂した。

 清盛は摂関家と血縁関係を結ぶべく、近衛基実に娘の盛子を正室として配したが、盛子はまだ幼く、基実が盛子との子をなす前に早世したため、基実の遺児である基通に、6女の完子を正室として配した。婚姻は基通が嘉応2年(1170年)に11歳で元服した直後と見られる。
 夫・基通は平家寄りである一方、後白河法皇の男色の相手として寵愛著しかった。
 治承元年(1177年)に男子を出産するも夭折。治承3年(1179年)11月、基通が関白に任じられると、完子は北政所となり、寿永2年(1183年)2月、従三位に叙される。7月、平家一門が安徳天皇を擁して都を落ち延びる際、基通は同行を拒否して後白河法皇の元に逃れた。完子は一門と共に西走した。文治元年(1185年)、壇ノ浦の戦いで平家一門が海中に沈む中、命を長らえた完子は建礼門院と共に都へ護送される。
 基通は安徳天皇に代わって擁立された後鳥羽天皇の摂政となって宮廷に返り咲くが、帰洛後の完子との関係は不明。その後の完子の記録はなく、出家したものと推測される。平家物語によれば完子は和歌に優れ、非常に肌が美しく、衣通姫と称されたという。 

平 知度 平 清房
 清盛の7男とされるが母は不明。治承3年(1179年)、治承の政変の後、尾張守から三河守に遷る。翌治承4年(1180年)、源頼朝を討つべく、甥・維盛,叔父・忠度とともに大将軍のとして東国に下向するが、富士川の戦いで敗北を喫し帰京。翌治承5年(1181年)に参加した墨俣川の戦いでは源行家らの軍勢に勝利を納めるが、寿永2年(1183年)の倶利伽羅峠の戦いに参加した際、源義仲軍に壊滅的な敗北を喫する。この際に知度は、源親義・重義父子と交戦して相打ちとなり、戦死を遂げた(あるいは自刃したとも)。清盛に連なる平家一門において最初の戦没者である。

 治承3年(1179年)のクーデターで淡路守に任官する。寿永3年(1184年)、一ノ谷の戦いにおいては、兄・知盛の指揮下に入り、生田の森の陣を警備する。しかし源範頼軍に陣を突破されると、覚悟を決め、従兄弟の経俊,義弟の清貞とともに三騎で敵陣に突入し討ち取られた。

 

平 清定 平 御子姫君

 早くから清盛に養われ、平家の公達として成長。一門の繁栄の中で尾張守に任官する。寿永3年(1184年)、一ノ谷の戦いにおいては、義兄・知盛の指揮下に入り、生田の森の陣を警備する。しかし源範頼軍に陣を突破されると、従兄弟の経俊,義兄の清房とともに三騎で敵陣に突入し、討ち取られた。
 子の師行は後に師尚の養子になり、中原氏に復姓している。 

 平清盛の7女。母は厳島内侍。冷泉局とも。『玉葉』によれば、治承5年(1181年)正月、高倉上皇が危篤に陥ると、崩御したのちは中宮・平徳子を後白河法皇の後宮に入れるよう進言した者がおり、清盛・時子夫妻も承諾したが、徳子はこれを強く拒絶し、髪を切って出家しようとしたため、代わりに18歳の御子姫君が選ばれた。
 法皇はこれを辞退したが清盛は強く押し進め、正月25日、御子姫君は法皇の後宮に入侍した。『平家物語』「廻文」によれば、大勢の女房,公卿にかしづかれ、女御の入内のようであったという。清盛は諸国で反平氏勢力が拡大する情勢の中、法皇との連携を模索するべく、縁戚関係を保つ政策をとったのである。
 美貌の女性であったが、法皇は御子姫君に心を寄せることなく、御子姫君付きの女房(藤原伊実の娘)に手をつけている。『源平盛衰記』によれば、御子姫君は入侍後間もなく没したという。

平 廊御方

 源義朝の愛妾の常磐御前に産ませた娘。平家一門と行動を共にして、壇ノ浦で捕らわれ、異父兄の義経に護送されて都に戻った。姉婿の兼雅に女房として仕え、1女を産む。能書の聞こえが高くて希望者が多いために、いつも彼女の周りには錦を敷いたように美しい色とりどりの料紙が置かれていたという。