<桓武平氏>高望王系

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伊勢俊継 伊勢盛定

 俊継は、はじめ藤原姓で見え、『経俊卿記』の宝治元年(1247年)11月7日条には右衛門尉とあるが、同書のその翌12月12日条には平姓で修理進で見える。これが、伊勢氏の系図に俊継について「始号伊勢平氏」あるいは「寄天照太神託宣、謂伊勢平氏」と見えることに符合する。この42年後の正応2年(1289年)には『勘仲記』正月13日条に豊前守平俊継が見えるが、これは『尊卑分脈』桓武平氏の俊継についての尻付記事と符合する。『経俊卿記』及び『勘仲記』に見える俊継は同人としてよく、その場合、衛門府の武官から累進して豊前守まで昇ったと知られ、その過程で藤原姓から平姓に改めたことも知られる。
『滝山寺縁起』には、肥前々司藤原俊経(法名願仏)の弟・相模法橋円辰とその子の大進法眼増恵も滝山寺僧侶として見えており、この滝山寺を介して藤原俊経が足利氏の被官となったことも考えられる。伊勢氏の先祖俊経に関しては、足利義兼に仕えたという所伝もあり、同縁起には俊経が暦仁元年(1238年)5月13日に京都東山一切経の谷で死去とされ、ほぼ承久頃の人であるとみられる。俊経・円辰兄弟の父親の世代が、鎌倉初期の頼朝将軍の頃に活動したことも推される。
 鎌倉時代末期以前の動向についてははっきりしておらず、桓武平氏という点については疑問も残る。『小右記』や『平安遺文』には、もともとは中臣朝臣の伊勢国造(伊勢直)の一族が、伊勢国鈴鹿郡を拠点として、康和元年(1099年)10月に伊勢の三重郡司として赴任した事項が示されている。

 伊勢氏の一族の備中伊勢氏出身で室町幕府の幕臣。妻は政所執事・伊勢貞国の娘。通称は新左衛門尉、別名は盛次、官位は備中守,備前守と伝わる。
 長年、伊勢宗瑞の出自は不明で一般には伊勢素浪人と考えられていたが、20世紀終盤頃からの研究により、盛定の子で室町幕府の幕臣であったことが定説化している。その研究の過程でその父の盛定についても次第に明らかになってきている。

伊勢盛興 北川殿

 伊勢宗瑞(北条早雲)の弟。宗瑞の関東における初期勢力拡大時に右腕として活躍した。明応5年(1496年)7月、山内上杉顕定が小田原城を攻撃した際、宗瑞から扇ヶ谷上杉氏への対して援軍として派遣された。『勝山記』は、この時、弥二郎は討死したと記しているが、実際には明応6年(1497年)12月に伊豆大見三人衆への取次を務めており、生存が確認できる。しかしそれ以後全く史料には見えず、後年の軍記物などにも一切登場しない。
 近年、北条氏照の旧臣で宝蔵寺の開基となった高橋家の過去帳に、伊勢弥次郎盛興は早雲寺殿(伊勢宗瑞)の伊豆平定中に負傷して出家し、大永2年(1522年)7月28日に59歳で死去したと記されていることがわかり、経歴に関する記述の信頼性も高いと判断されている。これによれば、兄・伊勢盛時(北条早雲)との年齢差は8歳となり、兄弟としては自然な年齢であると考えられる(盛時の生年には1432年説と1456年説があるが後者とした場合)。

 出自については、弟である伊勢盛時(北条早雲)と共に諸説ある。父・盛定が室町幕府において今川義忠の申次衆を務めていた関係から、応仁元年(1467年)頃に義忠の正室となって駿河駿府館に在り、長女・栄保に続いて、文明3年(1471年)には嫡男・龍王丸(今川氏親)を生むが、文明8年(1476年)4月に夫・義忠は遠江の国衆である横地四郎兵衛と勝間田修理亮を攻略しての帰国途中に残党に襲撃され討死してしまい、当時6歳であった龍王丸と、義忠の従兄弟で小鹿範頼の子・小鹿範満との間に家督を巡っての紛争が勃発したため、龍王丸を連れて小山城主・長谷川正宣(法永長者)の元に逃れている。
 このお家騒動には、堀越公方・足利政知やその補佐である関東執事・上杉政憲までもが関与して小鹿範満を推す動きに出ており、北川殿は9代将軍・足利義尚の申次衆であった弟の盛時に頼り、さらに幕府の命令も受けた盛時の調停により、龍王丸が成人するまでは、範満に駿府館で家督を代行させることになった。この決着を受け、北川殿は龍王丸と共に斉藤氏居城の丸子城に移っている。
 文明11年(1479年)には前将軍・足利義政から龍王丸の家督相続が認可されたが、範満は家督代行を退かず、文明19年(長享元年(1487年))、龍王丸が諸公事免状の発給等を遂行する独立状態になると北川殿は再び弟に要請し、これを受けた宗瑞が駿府館の範満を討ち滅ぼし、龍王丸(氏親)は駿府館に帰還し名実ともに今川家当主となることができた。北川殿も共に帰り、駿府館付近の安倍川支流北川沿いに別荘を建て移り住んだため北川殿と呼ばれるようになる。この別荘跡は死後に善徳院、後には臨済寺となった。文亀元年(1501年)頃の寄進状によると、「大上様」と呼ばれるようになっている。
 大永6年(1526年)6月に氏親を先んじて亡くし、享禄2年(1529年)5月26日に死去した。菩提寺は得願寺と桃源院の2ヶ所。
 兄弟である北条早雲が、長寿で伊勢の素浪人からの下克上の端緒の大器晩成型の戦国大名と見られていた時代には、北川殿は、宗瑞の妹であり今川義忠の側室と伝えられていたが、近年研究により、出自が室町幕府の申次衆・奉公衆をつとめる伊勢氏であって、今川氏と婚姻する家格としては釣り合いが取れていることと、義忠に他に正室にあたる女性の記録がないことから正室であり、早雲の生年が永享4年(1432年)よりも康正2年(1456年)が有力になってきたことから、妹ではなく姉と見なされるようになった。