<桓武平氏>高望王系

H148:伊勢貞継  平 高望 ― 平 良望 ― 平 維衡 ― 平 季衡 ― 伊勢俊継 ― 伊勢貞継 ― 伊勢貞国 H149:伊勢貞国


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伊勢貞国 伊勢貞親

 永享3年(1431年)に兄・貞経が6代将軍・足利義教によって失脚させられると、後を継いで政所執事となり、永享6年(1434年)2月9日に義教の嫡男・義勝が生まれると、3月3日に義勝を屋敷に移した。嘉吉元年(1441年)6月24日に嘉吉の乱で義教が暗殺、26日に7代将軍となった義勝が室町殿に移されるまで義勝を預かっていた。また、幼少の義勝に代わり政治を取り仕切る管領・細川持之を支持、文安5年(1448年)に細川持常と共に赤松則尚の復帰を8代将軍・足利義政に取り次いだりもしている。
 宝徳元年(1449年)に政所執事を辞任、享徳3年(1454年)5月27日に死去。 

 8代将軍・足利義政を幼少の頃から養育し、嘉吉3年(1443年)には管領・畠山持国の仲介で義政と擬似父子関係を結んだ。享徳3年(1454年)に家督を相続、同年に発生した土一揆への対処として考案された分一銭制度の確立などを通じて幕府財政の再建を成功させ、義政の信任を得た。また、政所執事には就任していなかったが、義政から収入と支払の権限を与えられ幕府財政を任され、政所の裁判に携わる官僚の人事権や将軍の申次衆も一族で固めて政所の実権を握り、奉行衆・番衆・奉公衆の指揮権も任され幕府の政治・軍事も掌握、親政を目指す義政にとって無くてはならない存在となっていった。
 康正元年(1455年)頃から義政の御内書に副状を添えるようになり、それまでは管領・細川勝元が発給していた副状に代わり義政の御内書発給数が上回り、幕府奉行人の管轄が管領から貞親(将軍)へ移動、奉行人奉書または御内書を通して義政の親政を支え勝元を牽制、軍事でも義政の補佐役を務め義政との会談及び方針を決定する重要な役割を任された。寛正元年(1460年)に享徳の乱で混迷していた関東諸大名の取次ぎも任され、同年に二階堂忠行に代わり政所執事に就任し、禅僧の季瓊真蘂らと共に政務の実権を完全に握った。
 寛正4年(1463年)、義政の母・日野重子が死去したことを口実に反逆者となっていた斯波義敏,畠山義就を義政を通して赦免させ、寛正6年(1465年)に勝元が敵対した大内政弘討伐を要請した時は、表向き義政が政弘討伐命令を下す一方で裏から政弘を支援、勝元との対立が激化した。寛正6年(1465年)に義政の正室・日野富子が男子(足利義尚)を産むと義尚の乳父となる。
 この頃問題となっていた斯波氏の斯波義敏と斯波義廉の家督争い(武衛騒動)にも介入し、文正元年(1466年)に貞親らは義政に進言して斯波家家督を義敏に与えさせるが、山名持豊(宗全)や義敏派であった勝元らが義廉支持に回り、貞親と敵対した。また、義尚の誕生によって、次期将軍に決定していた義政の弟・足利義視と義尚の間で将軍後継問題が発生すると、義尚の乳父であった貞親は義視を排斥するために義視謀反の噂を流すが、義視が勝元を頼ると讒訴の罪を問われ近江、次いで伊勢へ逃れた。同時に真蘂や義敏、赤松政則ら貞親派とされた者も失脚した(文正の政変)
 翌応仁元年(1467年)、勝元率いる東軍と宗全率いる西軍の間で戦端が開かれ応仁の乱が起こると、義政に呼び戻され6月に伊勢から上洛、翌応仁2年(1468年)閏10月に正式に復帰した。しかし復帰に反発した義視が同年11月に出奔して西軍に擁立され、戦乱が長期化する事態となった(弟の貞藤も西軍に鞍替えした)。また、復帰したとはいえ、かつてのように重要任務を任されることはなく、西軍の部将・朝倉孝景の帰順交渉を担当したこと以外に目立った活動は無かったが、文明3年(1471年)4月に万里小路春房とともに蜂起を企てたと疑われて春房とともに近江の朽木貞綱の元に亡命して出家、そのまま引退した。2年後の文明5年(1473年)に若狭で死去した。享年57。応仁の乱の原因を作った1人とも言われる。

伊勢貞宗 伊勢貞陸

 伊勢流故実の大成者でもある。
 文正元年(1466年)に父貞親が足利義視暗殺計画に失敗して季瓊真蘂,斯波義敏,赤松政則と共に京都から出奔したため(文正の政変)、8代将軍・足利義政の命令で家督を継いで政所執事となった。応仁2年(1468年)に貞親が京都に戻ってくると執事職を父に返還したが、文明3年(1471年)に父が出家すると再び執事となった。
 専横の振る舞いが目立った父・貞親と違って温和な性格だったことから義政の信任も厚く、足利義尚の養育係に任じられ、義尚が9代将軍に就任すると幕政全般を統括するまでに至った。応仁の乱終結後に起こった山城国一揆では山城守護に任じられた息子・貞陸の補佐にあたっている。しかし義尚,義政らが相次いで死去すると、延徳2年(1490年)に家督と執事職を貞陸に譲って隠居し、以後は『貞宗聞書』,『伊勢兵庫頭貞宗記』などの著作・文芸活動に専念した。
 ただし、明応の政変で義尚の従弟の10代将軍・義材(義稙)が廃位され、足利義澄が11代将軍に就任すると、日野富子の意向もあってその後見人的な立場に就いており、政変で幕府の実権を握ったとされる管領・細川政元も貞宗の存在を無視できなかったという。
 永正6年(1509年)10月28日に死去した。享年66。 

 文明18年(1486年)5月に山城守護に補任され、長享元年(1487年)11月に解任されたが延徳2年(1490年)に父から家督と政所執事職を譲られ、11代将軍・足利義澄に仕えた。明応2年(1493年)3月に山城守護に再任、翌3年(1494年)10月まで務めたが、貞陸が守護に任命された背景は、応仁の乱以降諸国からの収益が途絶えた幕府が山城の幕府領から伊勢氏を介して収益を獲得、新たな財源とする狙いがあったのではないかとされている。また、伊勢氏は被官の進藤氏と繋げて山城国一揆と協調関係を結んでいたとも言われている。
 山城守護在任中は古市澄胤を南山城の守護代に任じて山城国一揆を弾圧した。この出来事は細川政元に廃位されていた前将軍・足利義稙が上洛を図ったため、これを阻止するための幕府財源確保を強行したことに反発した国一揆を討伐したためであった。永正5年(1508年)、義稙が周防・長門の大内義興に擁立されて上洛、近江へ逃れた義澄には従わず引き続き政所執事を務め、永正18年(1521年)に死去、享年59。
 父と同じく有職故実に精通しており、『常照愚草』『御成之次第』『嫁入記』『よめむかへの事』『産所之記』『簾中旧記』などの著作がある。 

伊勢貞忠 伊勢貞孝

 11代将軍・足利義澄に近習として仕え、永正5年(1508年)の義澄出奔後は、将軍職に復権した足利義稙の御供衆となった。大永元年(1521年)の父の死後は執事職を継承、12代将軍・足利義晴にも仕え、亡くなるまで幕府の財政管理と訴訟を担った。天文4年(1535年)に死去、養子の貞孝が執事職を継承した。
 大永3年(1523年)に義晴を自邸に招いたことを『伊勢守貞忠亭御成記』として記録した。 

 伊勢貞辰の子として生まれ、政所執事の伊勢貞忠の養子となる。天文4年(1535年)に貞忠が死去すると、家督を継いで政所執事となった。天文19年(1550年)に室町幕府第12代将軍・足利義晴臨終の際には枕元に侍り、後継者の足利義輝の補佐を遺言されたといわれる。
 しかし、三好長慶によって義輝が追放された後も京都に留まるなど、義輝との関係は悪化していった。天文20年(1551年)に貞孝と長慶が会談した際、長慶の暗殺未遂事件が勃発している。貞孝は長慶の与党として反長慶の細川晴元等の勢力とたびたび干戈を交えることになる。
 永禄元年(1558年)に義輝と晴元が攻め寄せると三好方として戦ったが(北白川の戦い)、義輝が三好長慶と和睦して帰京することになると長慶や管領・細川氏綱と共にこれを出迎えた。しかし、将軍の追放と復帰が繰り返された室町幕府において代々政所を取り仕切って幕府機構の維持を図ってきた伊勢氏の幕府機構に対する影響力は将軍の決定すら覆す程にまでなっており、義輝からは伊勢氏そのものが脅威として見られるようになっていった。また、長慶の家臣である松永久秀が台頭するようになると、貞孝は次第に立場を失うようになっていった。
 永禄5年(1562年)3月に六角義賢が京都に侵攻した際(将軍地蔵山の戦い)、これまで三好長慶と対立していた義輝は長慶を支持して石清水八幡宮に逃れて長慶と共に抵抗しているにも関わらず、貞孝は六角氏占領下の京都に止まって政所沙汰を公然と行ったことが義輝・長慶双方の怒りを買い、6月に義輝・長慶が京都に復帰すると、貞孝は更迭されて失脚に追い込まれた。このため京都船岡山で挙兵したが、長慶の命を受けた松永久秀の追討を受け、子の貞良と共に戦死した。孫の貞為・貞興兄弟は生き延びたが、伊勢氏は没落することになる。
 貞孝の失脚と滅亡によって、伊勢貞継以来長く続いた伊勢氏による政所支配の歴史に終止符が打たれ、義輝は新たに政所執事に任じた摂津晴門を通じて政所の掌握を図ることよって将軍権力の回復を図る。だが、これが長慶没後の三好氏や松永久秀の反感を買って永禄の変の遠因となった。 

伊勢貞為 伊勢貞衡

 永禄2年(1559年)、室町幕府幕臣・伊勢貞良の子として誕生。幼名は虎福丸。
 永禄6年(1561年)に13代将軍・足利義輝によって祖父で幕府政所執事(頭人)であった伊勢貞孝と父・貞良が討たれると、4歳であった貞為は家臣と共に若狭国に下る。永禄8年(1565年)、永禄の変にて足利義輝が討たれると、伊勢氏の家臣達は三好三人衆と彼らが擁する将軍候補・足利義栄に対して御家再興を訴えて認められる。これは義栄の将軍就任直後に作成された御供衆の名簿は「伊勢虎福丸」名義で作成されており、当時虎福丸と名乗っていた貞為が伊勢氏再興を認めた義栄に仕官したことが分かる。
 ところが、織田信長に奉じられた義輝の弟・足利義昭が上洛し、義栄も急死すると状況が一変する。新将軍となった義昭により対立候補であった義栄に仕えた幕臣の責任を追及され、義栄派とされた幕臣は解任された。『寛政重修諸家譜』によれば、貞為は病気のために家督を弟の貞興に譲ったと記すが、実際にはこの時に義栄派とみなされた貞為は家督を追われたとみられている。その後、義昭に許されて御供衆として仕えたとみられるが、弟の貞興が元亀2年(1571年)に政所執事に任じられている。その後、義昭と信長が敵対するようになると、義昭の命で弟や三淵藤英と共に二条城を守ったが降伏、そのまま信長の家臣となった。
 天正9年(1581年)に織田信長が行った馬揃に旧幕臣(公方衆)として参加するが病気を理由に隠退、豊臣秀吉にも一時仕えたがこれも辞して著述に専念した。馬術や武家故実に関する著作を多く残しており、『伊勢貞為軍陣覚書』『極秘明顕之口伝』『書札条々』などが知られている。
 慶長14年(1609年)、死去。子の貞衡の代に江戸幕府に召されている。 

 初め豊臣秀頼に仕え、大坂の陣による大坂城落城の後、千姫の招聘により二条城に住む。その後、徳川家康が二条城を訪れた際に拝謁し、京都武者小路に宅地を与えられる。寛永14年(1637年)3月28日、従母・春日局の申し立てにより徳川家光に仕え、旗本寄合席に列する。寛永16年(1639年)9月21日、家光の長女・千代姫が徳川光友に嫁いだ際には、その儀式を担当した。その後、仰せにより、騎射三物(犬追物・笠懸・流鏑馬)などに関する家伝の書籍118巻を、息子の貞守や弟子と共に書写し、それを献じた。貞享2年(1685年)3月9日、徳川綱吉の長女・鶴姫が徳川綱教に嫁いだ際にも儀式を担当し、時服と黄金を賜った。
 元禄元年(1688年)12月9日に致仕し、元禄2年(1689年)11月7日に85歳で死去した。


阿古御局 伊勢貞丈

 淀殿のちに豊臣秀頼の侍女で、大上臈を名乗る。他に「中将」,「弁宰相阿古大上臈」,「和期の方(あるいは和期の局)」とも。
 天正18年(1590年)、誕生。父は伊勢貞為(『寛政諸家系図伝』)、あるいは伊勢貞景や伊勢貞良とも。母は松永久秀の長女もしくは孫娘ともされる。12歳で豊臣秀頼のもとへ出仕。翌年、秀頼が参内した際に同車にて参内したため、公家衆より武士の娘を参内するとはと非難されたが、陽光院勅定により平重盛の子孫のため仮親を立てずとも参内可能という特例を得た。3ヶ月奉公し、「弁宰相阿古大上臈」の官位を得る。
 大坂の陣では山里曲輪の糒蔵にて秀頼・淀殿と共に自害した。大坂城の祠には「三十二義士」の一人として残る。院号は青松院。菩提寺は北野神社および青松院。 

 伊勢氏はもともと室町幕府政所執事の家柄であり礼法に精通し、江戸幕府3代将軍・徳川家光の時に貞丈の曾祖父・伊勢貞衡が召し出された。享保11年(1726年)、兄・貞陳が13歳で夭折して伊勢氏は一旦断絶したが、弟である貞丈が10歳で再興、300石を賜り寄合に加えられた。この時、12歳と年齢を詐称している。延享2年(1745年)9月13日に28歳で御小姓組に番入り、儀式の周旋、将軍出行の随行などにあたった。貞丈は特に中世以来の武家を中心とした制度・礼式・調度・器具・服飾などに詳しく、武家故実の第一人者とされ、伊勢流中興の祖となった。
 天明4年(1784年)3月致仕し麻布に隠居したが、5月28日に死去、享年67。但し、幕府には卒日は6月1日と届けだされ、『寛政重修諸家譜』には6月5日と記載されている。法名は「長誉」、西久保大養寺に葬る。家督は婿養子・竹中定矩の3男・貞敦が病気を理由に辞退したため、貞敦の子で外孫の伊勢貞春が継承した。大吉寺に書像が残る。
有職故実に関する著書を数多く残し、『平義器談』『四季草』『貞丈雑記』『貞丈家訓』『安斎随筆』『安斎雑考』『安斎小説』『刀剣問答』『軍用記』『犬追物類鏡』『座右書』『武器考証』『鎧着用次第』『包結図説』『条々聞書貞丈抄』『神道独語』などがある。
 森鴎外は、貸本屋であまたの随筆類を読み尽くしたのち、伊勢貞丈の故実の書等に及ぶようになれば貸本文学も卒業となる、と記している。 

伊勢貞興 伊勢貞成

 伊勢流の有職故実の探究者。武家故実の書として『伊勢貞興返答書』を記述した。
 貞興は次男であったが兄・貞為が病身となったため伊勢氏の家督を継いだとされるが、異説もある。足利義昭が織田信長と共に上洛し15代将軍に任命されると、義昭は義栄に仕えた貞為ら幕臣たちを追放したためともいわれる。
 15代将軍となった義昭に御供衆として仕えた貞興は元亀2年(1570年)11月1日に政所役(頭人・執事)に任じられて織田信長からも承認されたが、京都市中の実際の統治は、信長とその家臣が政所の業務を一時的に代行していたとみられている。
 義昭と信長が敵対するようになると、義昭の命で三淵藤英と共に二条城を守ったが、義昭が京都から追放され備後国に下向すると、貞興はこれに随行せず他の幕臣と一緒に明智光秀に仕えた。義昭の追放後、京都の市中の統治は明智光秀と村井貞勝が中心になって行われていたが、次第に貞勝の専任へと移行し、長年その任にあたっていた幕臣は京都市中の統治から排除されることになった。しかし、幕臣たちの所領の多くが丹波国など光秀の支配地に属しており、光秀に仕えて幕府から与えられていた所領の安堵を求めることを重視する意識が貞興や他の幕臣の間にあったとみられている。
 貞興は若いが智勇に優れ、行政能力や武家故実に優れるなど軍事にも精通していたために、光秀の厚い信任を得た。一説には光秀の娘婿となったとされている。明智光秀の配下として丹波攻略やその他の戦役に活躍し、明智家中では斎藤利三と並ぶ戦巧者として名を馳せ重臣としての地位を確立した。
 天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変の際、貞興は麾下の2千の精鋭を率いて信長の長男でその後継者である織田信忠を二条城に攻め、自らも槍を振るって奮戦し大勝した。6月13日(1582年7月2日)の昼頃から始まった山崎の戦いでは、明智光秀軍と織田信長の弔い合戦を挑む神戸信孝などの軍勢が山崎の地でにらみ合い、ついに日が傾き始めた頃に戦が始まった。信孝軍の中川清秀隊3,500余に伊勢貞興隊2,000余が攻撃を開始したのが最初の激突であった。精強な伊勢隊は兵数に勝る中川隊を直押しし、信孝軍の高山重友隊などが中川隊を救援しようとしたが、これに明智方の斎藤利三隊が横槍を入れたために両軍入り乱れての乱戦となった。しかし、総兵力に劣る明智軍は敗れ、貞興は光秀の敗走を助けるために残軍を率いて殿軍を引き受け奮戦したが戦死した。
 なお、伊勢氏の家督は兄・貞為の子の貞衡が継ぎ、江戸幕府に仕え、大身の旗本となって明治まで存続した。 

 文禄元年(1592年)に真幸院飯野の地頭である父・貞真と共に朝鮮の役に参加。しかし、翌年に貞真が朝鮮にて病没したため、貞成がその後を継いで島津義弘の家老及び飯野地頭となった。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際は昼夜を走り通して義弘の元に参じ、その退却戦の際は貞成が軍奉行となり、自ら先陣となって東軍へと突撃する。その後、長束正家の陣へ撤退の挨拶をする使者となった。その際に正家から帰国のための道案内役を一騎遣わされている。
 慶長8年(1603年)、島津家と肥前唐津城主である寺沢広高との間に縁談が決まる。しかし、寺沢家はキリシタンの家であるとの風聞があり、これを破談にすべきとの話が持ち上がる。貞成は「私に申しつけて下されば、これを首尾よく破談と致しましょう」と名乗り出て、慶長12年(1607年)蒲生衆5人(この頃、貞成が吉田蒲生地頭)と家来40人ほどと共に唐津城へと赴いた。ところが、それを済ませ帰国の途上にある11月8日、寺沢家の家老・高畠新蔵(仲兵衛とも)から志岐城で饗応を受けていた際に喧嘩となり斬り合いにまで発展、貞成は深手を負い死没した。享年39。新蔵は後に責任をとって自害した。

伊勢貞昌 伊勢貞遠

 天正9年(1581年)、肥後国水俣の陣にて元服する。以後は島津義弘に随従し、豊後国の大友氏攻略戦や、豊臣秀吉の九州征伐に伴う豊後国よりの退却戦などで首級を上げる。
 島津氏の降伏後は、元足利義輝の有職故実家で近衛家の家臣となっていた伊勢貞知より、有職故実の伝授を受けた。また義弘の嫡男・久保に従い、上洛や小田原征伐の際はその供をする。文禄元年(1592年)の文禄の役にも久保に従い朝鮮に出兵するが、翌年に久保や父・貞真が朝鮮にて病死すると、久保の遺体を伴い帰国し、飯野へ戻った。その後、久保の弟・忠恒が朝鮮への渡海が決まるとその供をし、6年間朝鮮に在陣した。
 慶長4年(1599年)の庄内の乱に出兵、翌5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは義弘が所領へ帰還する際、伊東氏家臣・稲津重政の軍が綾に乱入していたため、これを打ち破り、多くの首級を討ち取った。
 以後は島津家の筆頭家老となり、忠恒に徳川家康の諱を賜れるよう働きかけたり、家久と名を改めた忠恒が参勤する際は必ずその供をするようになる。またその妻子も、寛永元年(1624年)より家久継室(島津忠清娘)と子の又三郎(島津光久)、又十郎(北郷久直)が人質として江戸住まいとなった際にその世話役となり、同17年(1640年)まで勤めている。
 寛永元年に嫡子・貞豊が死去すると、他に世継がいなかったため、貞昌は家久に願い出て、その13男である貞昭を継嗣子とした。寛永15年(1638年)に家久が死去した後も、その跡を継いだ光久の家老として活躍した。寛永18年(1641年)に江戸にて病死。享年72。 

 『寛政重修諸家譜』の系譜上では、政所執事伊勢貞宗の子(貞陸の弟)としている。妹2人をそれぞれ仁科盛信の妻,武田勝頼の室としているが、年代が合わない。
 伊勢貞房の長男で同族の伊勢貞宗(下総守であった貞牧の子)の猶子となったとされる。足利義稙(義材)に仕え、その時代の故実を記した『殿中申次記』を著した。『殿中申次記』は『群書類従』に収められている。『北野社家日記』によると、延徳3年8月10日(1491年9月13日)に今川龍王丸の元にいた同族の伊勢盛時(のちの北条早雲)に対して便宜を与える書状を差し出したとされる。永正13年正月(1516年2月3日)には裏打直垂を許されて出仕する幕臣の中に貞遠の名が見える。 

伊勢貞助 伊勢貞藤

 政所執事であった伊勢貞陸の孫?にあたる。兄である伊勢貞充が没したのを受けて貞遠の後継ぎとなり、天文8年(1539年)頃に家督を継いだ。ところが同年9月に作成された「筑後国高良法楽三十首」には「常真伊勢貞堯」と記されていることから、家督継承後に何らかの事情で出家したとみられている。
 天文19年(1550年)、京都を脱出した足利義輝,細川晴元,伊勢貞孝らの代わりに京都を支配していた三好長慶に召し出された。当時、長慶は朝廷や諸大名との外交交渉や彼が後ろ盾になっていた細川氏綱の権威づけのために室町幕府の武家故実や書札礼を知る者を求めており、当時隠棲状態にあった貞助が召し出されたとみられている。長慶の後押しで天文22年(1553年)以前に出家の身で父・貞遠の官職である加賀守に任ぜられ、同年閏正月には将軍である足利義輝の元に出仕して幕府への復帰を果たした。更に弘治年間に入ると、還俗して貞助と名乗っている。
 こうした経緯から、室町幕府の奉公衆・申次衆として足利義輝に仕えながら、三好長慶・義興(義長)父子や松永久秀と共に行動することが多く、三好氏における政治・儀礼の顧問的役割を担い、幕府内では親三好政権と言える存在であった。特に永禄8年(1565年)に足利義輝が三好三人衆らに襲われて殺害された永禄の変の際には他の奉公衆が将軍を守るために戦っている最中に室町幕府歴代の重宝が入った唐櫃を御所から運び出し、その後に三好三人衆が推す足利義栄に仕えてその将軍宣下に奔走している。こうした事情から義輝の弟である足利義昭が将軍に就任すると引退した。著作である『雑々書札』に天正元年(1573年)の年次と70歳の年齢が記されていることや他の写本に72歳の奥書が記されているものがあることから、天正3年(1575年)までは健在であったとみられる。嫡男の貞知は既に同族の因幡守家を継いでいたため、足利義昭に仕えることが許されたが、義昭が織田信長に追放される以前に既に近衛家の家臣に転じている。
 貞助の著作として知られているものには『伊勢貞助雑記』『伊勢貞助返答記』『御成記』『貞助記』『雑々聞撿書』『雑々書札』などがあり、後に江戸幕府が編纂した室町幕府の歴史書『後鑑』はそこから抽出されたと推定されるものが多い。 

 画・連歌に優れた有職家であり、室町幕府で要職を務めたが、8代将軍・足利義政と対立して伊勢に出奔した。応仁の乱では兄・貞親をはじめとする伊勢氏一族は東軍であったが、貞藤のみは西軍にはしった。
 曾孫にあたる伊勢貞孝は後に宗家の養子に入って政所執事となった。
 江戸時代は『寛政重修諸家譜』の伊勢氏系譜などで「伊勢貞藤、新九郎、のち貞辰、相模の北条某に養われ北条を称す」などと書かれているため、永らく伊勢盛時(北条早雲)と混同され、貞藤の生年が盛時の生年とされてきた。また盛時と姉の北川殿(今川義忠の室)の父親ともいわれていたが、近年の研究の結果、盛時らの父は貞藤の義弟(妹の夫)で備中伊勢氏の伊勢盛定であり、盛時は貞藤の甥であることが定説となっている。
 また、『横井系図』では貞藤の妻を「横井掃部助時永の娘」と伝え、『高橋家過去帳』では盛定の孫である北条氏綱の妻養珠院殿を「横江北条相模守女」と伝えている。これは伊勢氏(後北条氏を含む)と横井氏が縁戚関係を重ねてきた可能性を示しているという指摘もある。

伊勢貞辰 伊勢貞就

 室町幕府の奉公衆であったが、後に後北条氏家臣となった。兵庫頭、後に備中守。
 永正13年(1516年)に将軍・足利義稙の申次として登場する。大永6年(1526年)と享禄2年(1529年)に足利義晴の命で朝倉氏への使者になっている。
 天文元年(1532年)、同族である北条氏綱が鶴岡八幡宮再建に乗り出すと、義晴の使者として派遣される。2年後の天文3年(1534年)6月に息子の八郎(伊勢貞就)と又三郎(伊勢貞孝)を連れて再び氏綱への使者を務めた際に、父子ともに氏綱に仕えた。ただし、又三郎は宗家当主の政所執事・伊勢貞忠の養子に迎えられている。
 貞辰は氏綱から小田原城の城下に屋敷を与えられ、天文3年(1534年)12月に冷泉為和が小田原城を訪問した際に和歌の会を開いている。また、宗牧の『東国紀行』にもその名が登場している。その後も、後北条家の評定衆として活動し、『小田原衆所領役帳』にも「伊勢備中守」として名前が記載されていることから永禄年間にも活動していたことが分かる。 

 天文3年(1534年)6月に父が将軍足利義晴の使者として北条氏綱の下を訪れた際に同行して、父と共にそのまま氏綱に仕えた。以降も京都と小田原城を往復し、後北条家と政所執事となった実弟の伊勢貞孝ら室町幕府要人との連絡を務めた。
 これは、貞孝が謀反の疑いで討たれた後も室町幕府との関係は変わらず、越相同盟を実現させて足利義昭を上洛及び将軍就任を実現させるように細川藤孝から働きかけを受けている。貞就は後北条氏の武将として活躍すると共に室町幕府の方針と後北条氏の外交の調整役も務めていたとみられる。


伊勢貞運

 後北条氏の家臣。通称は又七郎。受領名は備中守。
 『北条氏所領役帳』には貞運と推定される人物の計95貫の知行高が記されている。貞運は北条氏の一門衆で有職故実や年中行事に精通していたようで、北条幻庵が吉良氏朝に嫁ぐ娘に持たせた『幻庵おほへ書』には、武家の仕来として伊勢備中守の教えが記されている。また、評定衆も務めていたとみられる。天正4年(1576年)の関宿城の普請の際には貞運と思われる人物が指導を行っている。
 天正18年(1590年)、小田原征伐の際に戦死した。