<桓武平氏>高望王系

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行方景幹 玉造重幹

 吉田忠幹は行方平四郎とも称して、吉田から行方郡内へ進出ののち、行方郷に居を構えている。
 忠幹の子・景幹は行方太郎刑部大輔と称して、平安末期から鎌倉初期にかけて活動した。景幹は行方郡地頭に任じられ、中世を通じて行方郡内に一大勢力を誇った行方氏の基盤を確立した人物である。鎌倉期の東国諸地域では、鎌倉幕府の奨励によって、荒野開発の気運が高まり、景幹もこの状況のもとで行方郡内の荒野開発を押し進める一方、鹿島社領への侵入を繰り返すことで自領を拡大していった。景幹の鹿島社領への進出は北浦西岸の北浦・潮来・小牧・大生から霞ヶ浦北岸の麻生・玉造にまで及んでいる。このため、景幹は神宮の神官と社領支配をめぐって、しばしば衝突を引き起こした。
 行方氏は吉田氏から分出して以来、忠幹・景幹の2代にわたって地頭職を利用し幕府の政策に応じて、神宮社領の侵入と荒野開発を進展させ、行方郡内に確固たる地盤を築いていった。

 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣した佐竹義宣は、秀吉から常陸国において21万貫の所領を安堵された。そして、12月には江戸氏の拠る水戸城を攻撃し、江戸一族を服属させ、さらに、府中城を攻撃し、大掾氏を服属させた。常陸南部においてもその支配を強化し、秀吉からの安堵の実質化をめざした。この活動の延長として、鹿島・行方両郡の常陸大掾系の一族を中心とする南方三十三館と称される武将たちが、天正19年(1591年)2月、太田城に招かれ、佐竹氏によって謀殺された。
 このとき、玉造城主の与一太郎重幹は、宇垣伊賀守に捕えられて、大窪兵蔵に預けられ、正伝寺において切腹させられた。また、一説に重幹は太田に着いて間もなく軍勢に取り囲まれたが、中田蔵之助貞利と須賀隼人正という家臣と3人で大久保の正伝寺まで落ち延び自害し、2人の家臣も主君に殉じたと伝えられている。
 太田での変事が玉造に報じられると、玉造在地の家臣たちは、玉造城に籠城して押し寄せてきた宇垣伊賀守らの軍勢と戦ったが、水戸の江戸氏や府中の大掾氏を討滅した強大な佐竹軍を防ぐことはできず、佐竹氏に内応する者も出て、玉造城は短期間のうちに落城した。