<桓武平氏>高望王系

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石川家幹 田山幹氏
 平安時代の末頃、吉田郡内に勢力を植え付けた武士は、常陸大掾平国香の系の吉田太郎盛幹の子・幹清と石川次郎家幹の両頭であった(吉田両頭)。石川家幹には11人の男子があり、これらの人々が吉田郡内の那珂川南岸の郷村に土着し、鎌倉幕府の御家人となり、郷地頭として土地を支配した。特にその2男・資幹は常陸大掾多気義幹の遺跡を継承して、常陸大掾となるに及んで、資幹の兄弟および子孫は吉田郡内に蔓延した。  源頼朝が奥州藤原氏を攻めたとき、大掾(石川)家幹が、八田知家に属して戦功を立て、奥州田山(現・岩手県八幡平市)を恩賞として与えられた。それを子の田山源太幹氏に与え、これより田山氏を称したという。
田山幹国 田山教幹
 応永20年(1413年)、伊達持宗の挙兵に従わず所領を追われた八郎幹国(勝山良覚)は、一族とともに常陸国の鹿島氏に身を寄せた。田山の所領には、安保氏出身の田山左京や成田氏出身の佐治妥女の名があり、のち畠山氏統治の時、両氏とも田山を離れたという。幹国は応永25年(1418年)、上総本一揆が発生すると、鹿島出羽守憲幹に従って上総で戦った。鹿島居住はその子・幹明(壽光有義)までである。   享徳3年(1454年)7月、鹿島城主・鹿島出羽守實幹が諸神官と謀り、鹿島神宮の大祭に向かう税所幹詮を襲って殺害する事件が起きる。税所幹詮の殺害に直接手を下したのが實幹の家臣で、幹国の孫であった田山太郎教幹(鐵嚴玄公)であった。これにより在庁官人の不況を買い、数年間国衙祭が執り行われなかった。その後、両氏に和睦が成立し、鹿島氏より徳宿を与えられ、その地に居を構えたとされる。教幹は長禄3年(1459年)10月20日に徳宿で没した。52歳であった。