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資幹の曽祖父である平為幹を最後に資幹に至るまで大掾に任じられた者の存在を確認できない。資幹の大掾職補任は頼朝の下文によるものであった。更に常陸国の国衙が発給した文書を見ても確認可能な仁平元年(1151年)以降、在庁官人の責任者であるはずの大掾(平氏)の署判はなく、代わりに税所を預かっていた百済氏が目代とともに署判を行っている。大掾の署判が確認できるのは資幹が大掾に就任した後の承元2年(1208年)のものが最初となる。 また、常陸平氏の成立についても、平忠常の乱以降に軍事貴族から在地領主へと立場を低下させていくとともに一族のつながりが希薄化していったとする指摘もなされている。常陸平氏の再編成が行われたのは治承・寿永の乱をきっかけにしたと考えられている。源頼朝が馬場(大掾)資幹を先祖ゆかりの官職であった常陸大掾に任じたのは、常陸国の国衙機構の掌握とともに資幹を中心として常陸平氏という同族集団を復活(事実上の新生)させて、これを鎌倉幕府の指揮下に置く意図があったと考えられる。資幹以降はその子孫による常陸大掾の継承が実際に行われており、馬場(大掾)資幹こそが大掾氏の祖および復活した常陸平氏の最初の棟梁であったとみられている。
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南北朝時代の武士。常陸大掾氏当主。水戸城主。浄永の号で知られる。大掾氏の系譜によれば、大掾時幹の子とする説と大掾盛幹(時幹の子)の子とする説がある。しかし、世代的に時幹と高幹の年齢差は親子と推定されることから、時幹の子で盛幹の弟とみるのが妥当と考えられる。 高幹が大掾氏の家督を継いだ時期については不明である。現在、茨城県石岡市にある清凉寺は元徳2年(1330年)に大掾十郎高幹によって建立されたと伝えられており、それが事実であれば、この時には大掾氏の家督を継いでいたことになる。元弘の乱の時の動向も不明であるが、同じ常陸国の在庁官人系の武士で大掾氏の一門扱いを受けていた税所氏が常陸国に配流されていた万里小路藤房を擁して鎌倉攻めに向かっていることから、大掾氏もこの動きに同調した可能性がある。 高幹の活動が具体的になるのは、建武2年(1335年)に北条時行による中先代の乱において北条軍に加わって以降のことで、相模川合戦において足利尊氏軍を迎え撃って奮戦した。やがて、尊氏が建武政権に叛旗を翻して南北朝の戦いが始まると、佐竹氏は北朝方に、小田氏は南朝方につき、常陸国内は大混乱に陥った。こうした中で高幹は小田氏と共に南朝方に加わり、建武4年/延元2年(1336年)10月には小田治久,春日顕国と共に北朝方の鹿島氏と対峙しているが、建武5年/延元3年(1337年)閏7月には税所氏と共に小田氏の府中侵攻を防いでおり、これ以前に北朝方に転じたことになる。また、この時には既に出家して「浄永」と名乗っていた。 建武5年/延元3年(1337年)には南朝方の北畠親房が常陸国に漂着してそのまま小田氏を頼り、大掾氏へも帰服を働きかけた。浄永は北畠親房には帰順を約束して親房を喜ばせるが、実際には足利尊氏が派遣した高師冬の指揮下に入って北朝方の一員として常陸国内を転戦した。また、この時期の足利尊氏は息子の足利義詮を鎌倉に派遣して後の鎌倉府を基礎を築くが、高幹の嫡男である詮国は義詮の偏諱を得たと想定される。 浄永および大掾氏が政治の表舞台に現れるのは、薩埵山体制を主導した畠山国清失脚後のことであり、浄永は国元は嫡男の詮国に任せて鎌倉で鎌倉公方・足利基氏に近侍するようになる。こうした状況を背景に常陸国内でも所務遵行や棟別銭の徴収権について大掾氏の支配権については守護の佐竹氏ではなく大掾氏が独自に行うようになるなど、大掾氏は勢力を急速に回復させていった。しかし、これは佐竹氏との対立の一因となっていくことになる。 浄永の活動は永徳2年/弘和2年(1382年)まで活動できる。しかし、4年後の至徳3年/元中3年(1386年)3月には嫡男の詮国が死去した後に、残された永寿(後の大掾満幹)を一族・重臣が支える体制に移行していることから、永徳2年から至徳3年の間の4年間のうちに詮国よりも前に浄永が亡くなっていたと推測可能である。当主の相次ぐ死去は、鎌倉府における発言力の低下や大掾氏の勢力圏への佐竹氏の進出を招き、大掾氏が衰退に向かう一因になったとみられている。
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