<桓武平氏>高望王系

H301:平 良兼  平 高望 ― 平 良兼 ― 永井直勝 H308:永井直勝


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永井直勝 永井尚政

永禄6年(1563年)、三河国の武将・長田重元の次男として三河国碧海郡大浜郷に生まれる(東浦町緒川の説もある)。
はじめ徳川家康の嫡男・信康に仕えたが、天正7年(1579年)に信康が自刃すると、徳川氏を去って隠棲した。天正8年(1580年)、家康に召し出されて再び家臣となる。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは池田恒興を討ち取る大功を挙げたため、家康や織田信雄らから賞賛された。文禄3年(1594年)、恒興の次男・池田輝政が家康の次女の督姫を娶った際、輝政の求めに応じて、長久手の戦いで恒興を討ち取った際のことを語った。このとき、直勝の知行が5,000石と知った輝政は、父を討ち取った功績の価値が5,000石しかないのかと嘆息したという。
文禄5年(1596年)2月7日、豊臣秀吉から豊臣姓を下賜されている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に近江国に2,000石を加増され、7,000石を領する。
大坂の陣にも参戦して戦功を上げ、元和2年に(1616年)上野小幡藩1万7,000石に加増。翌元和3年(1617年)には常陸笠間藩3万2,000石を与えられ、後に2万石を加増される。元和8年(1622年)、笠間を浅野長重に譲って、代わりに下総古河において7万2,000石を与えられた。
寛永2年12月29日(1626年1月27日)、63歳で死去した。跡を長男の尚政が継いだ。


永井直勝の長男として駿河国に生まれる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに従軍し、慶長7年(1602年)には徳川秀忠付の小姓となる。慶長10年(1605年)4月26日、叙爵して信濃守を称した。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも参陣して功績を挙げたため、御小姓番頭に任じられた。その後も幕府への忠勤に励んで加増を受け、元和5年(1619年)には上総潤井戸に1万5000石を領する大名にまで昇進した。元和8年(1622年)、宇都宮城釣天井事件で本多正純が改易された後、老中に選ばれた。寛永3年(1626年)、父・直勝が死去したため、家督と所領である。
総古河8万9000石を相続した。寛永9年(1632年)に秀忠が死去すると、北条氏重や土井利勝らと協力して、増上寺に秀忠の廟を建立するための監督官を務めた。
寛永10年(1633年)、老中職を解任されて山城国淀藩10万石へ加増移封された。その後は京都所司代と協力して京都や大坂の治安を担った。寛永年間に大規模な飢饉が起こったときは、領民の救済にあたり、島原の乱が起こったときは、京都の守備を命じられた。その後も、江戸城普請や禁裏における普請などで功績を挙げた。 永井直勝の長男として駿河国に生まれる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに従軍し、慶長7年(1602年)には徳川秀忠付の小姓となった。慶長10年(1605年)4月26日、叙爵して信濃守を称した。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも参陣して功績を挙げたため、御小姓番頭に任じられた。その後も幕府への忠勤に励んで加増を受け、元和5年(1619年)には上総潤井戸に1万5000石を領する大名にまで昇進した。元和8年(1622年)、宇都宮城釣天井事件で本多正純が改易された後、老中に選ばれた。寛永3年(1626年)、父・直勝が死去したため、家督と所領である。
総古河8万9000石を相続した。寛永9年(1632年)に秀忠が死去すると、北条氏重や土井利勝らと協力して、増上寺に秀忠の廟を建立するための監督官を務めた。
寛永10年(1633年)、老中職を解任されて山城国淀藩10万石へ加増移封された。その後は京都所司代と協力して京都や大坂の治安を担った。寛永年間に大規模な飢饉が起こったときは、領民の救済にあたり、島原の乱が起こったときは、京都の守備を命じられた。その後も、江戸城普請や禁裏における普請などで功績を挙げた。正保元年(1644年)11月23日、従四位下にのぼった。明暦4年(1658年)2月28日に致仕。後に入道して信斎と号した。寛文8年(1668年)9月11日死去、享年82。