清和源氏

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菅沼定継 菅沼定忠

 田峯菅沼氏4代目。大膳亮。父から家督を継いだ時期は定かではない。
 享禄5年もしくは天文元年(1532年)、設楽郡郷ヶ原に新城を築く(後年、奥平信昌が築いた新城とは異なる)。それまでの居城・大谷城の呼び名が本城であったため、新たな城という意味合いである。
 弘治2年(1556年)、亀山城主の奥平監物貞勝が今川氏から離反すると妹が再嫁した縁で、これに加担する。奥平・菅沼による今川造反軍は、主に奥平が額田郡の2ヶ所、菅沼が設楽郡で蜂起した。同年2月15日(1556年4月5日)、まず奥平氏は額田郡の秦梨城を襲って奪取。その上、東条松平忠茂に率いられた今川方の鎮圧軍を日近で撃退し、幸先良い勝利を手にする(日近合戦)。
 ところが定継には実弟たちが同調せず、今川方に留まって敵対。そればかりか、菅沼の支族からは叔父・定則の子の中から菅沼定村の弟・定圓,定自の2人、他に島田菅沼家の孫太夫などが定継に加勢した程度で、一家を挙げて支援に参ずる分家は無く、宗家としての面目を失う。それでも同年5月には、弟たちと一戦交え、これを撃破する(布里合戦)。
 駿府の今川義元から、本格的な鎮圧の下命を受けた東三河の諸将は、親族として奥平氏に与する阿知波氏の所領である額田郡の雨山へ攻め入る。同年8月4日(9月17日)、のちに「雨山合戦」と呼ばれるこの戦いは今川方が勝利する。これにより、今川離反の首謀者であった義弟・奥平貞勝は降伏してしまう。
 同月21日(10月4日)、事実上の孤軍となった定継は弟たち菅沼一門による鎮圧軍の反撃に晒され敗退。定継たち造反軍は蜘蛛の子を散らしたように遁走する。この敗走兵への追撃は執拗で、田峯城まではとても逃れきれぬと悟ったか、僅かな供回りとともに布里の黒ヌタという所で、自刃して果てた(討死したとも誅殺されたとも諸説あり)。
 今川方の菅沼一門は引き続き田峯城まで進撃し、これを占拠。反乱は収束する。この時、定継の直系に生まれた小法師(後の定忠)という幼児があり、田峰城外で鎮圧軍に身柄を確保された。弟の定直たちは、この小法師を新たな総領として迎え、これまで以上に今川氏への忠勤に励んだ。

 定継死後、田峯は一族の菅沼定勝,定清父子に占領されるが、定直が居城し、兄・定継の遺児・定忠を補佐した。
 永禄4年には徳川家康より遺領安堵を受け、定忠は田峰城に復している。その後、定忠は武節・新城も領したが、元亀2年に武田氏の誘いに応じ、大野田城の菅沼定盈攻め,三方ヶ原の合戦,長篠の合戦に至るまで武田方として活躍している。
 設楽ヶ原の大敗で武田勝頼と共に田峰に入城しようとした折、留守居の叔父・定直や重臣・今泉道善らの抵抗に合い、入城できず武節城に逃れた。勝頼を甲斐に送った後、武節城に立て篭ったが、奥平氏に攻められ信州に落ちた。
 田峰城への入城拒否を恨みに思っていた定忠は、翌年田峰城を急襲し叔父・定直と今泉道善を討ち、その一族まで討ち果たしたという。武田氏滅亡後、定忠は、信州伊那知久平にて牧野康成の軍勢と戦い討ち死している。
 その後、田峰城は天正10年、定忠の嫡子・定利が宗家田峰菅沼氏の遺領を継承した。

菅沼定直 菅沼定利

 田峯菅沼氏を含む三河国の大半の国衆は、戦国前期に侵攻してきていた駿河今川氏に従っていた。しかし弘治元年(1555年)になると主に東三河の国衆で「三河忩劇」とよばれる内紛・叛乱の兆しが見え始め、田峯菅沼氏でも当主・菅沼定継が今川氏に敵対した。しかし定直をはじめ弟の定氏,定仙,被官の林左京進が今川方に付き、定継方を攻撃し成敗した。戦後、定直らは田峯菅沼氏の次期当主に定継の子・小法師(後の定忠)を擁立し、今川義元から認可された。
 永禄4年(1561年)に松平家康が今川氏から離反すると、4月15日付で家康から定直ら田峯菅沼氏の一族宛てに「菅沼定忠の本領安堵,一味衆の進退保証,遠江国での所領宛行約束,設楽貞通の進退保証」を約束された。この判物では定直が宛名の筆頭となっており、定直が他の一族と共に幼君・定忠を支え田峯菅沼氏の家中運営に携わっていることがみてとれる。なお、田峯菅沼氏は翌年正月に奥平定能らの仲介により今川氏に再従属している。その後、最終的に家康が三河統一を成し遂げると松平氏に従属する。
 その後の定直の動向は不明。元亀3年(1572年)10月に武田信玄が三河・遠江侵攻を開始すると、田峯菅沼氏は武田方の定忠,定仙らと徳川方の定氏らに分かれるが、この時点で定直の名前は確認できないことからその時期までに死去した可能性がある。
 徳川氏の元で伊那郡統治に携わった菅沼定利は、定直の子とされている。

 

 田峯菅沼氏に生まれ、菅沼定吉の子とも定吉の叔父・定直の子とも言われている。元亀2年(1571年)に定吉が武田信玄に与すると、これに反対して田峯から離反し、支族である野田菅沼氏の菅沼定盈を頼って徳川家康に仕えた。菅沼定吉は天正3年(1575年)の長篠の戦い後に菅沼定直らの離反と徳川氏の侵攻を受けて武節城を奪われて信濃国伊那郡に落ち延び、翌年には同郡を拠点として反撃して菅沼定直らを殺害したとされる。天正10年(1582年)に織田信長の甲州征伐で武田氏が滅亡したとき、定吉も織田軍の追討を受けて殺された(一説には、赦免を嘆願した定吉の要求は退けられ、誅殺されたとも)ため、田峯菅沼氏の後継に任命された。なお、定利の官途名は小大膳もしくは大膳亮であるが、これは田峯菅沼氏宗家の当主代々の官途名であり、同氏の後継者であることを明らかにしたとみられている。
 武田氏の滅亡後、かつて菅沼定吉がいた伊那郡は知久氏,保科氏,下条氏,木曽氏によって分割されたが、保科氏以外は羽柴秀吉への内通や内紛による没落してしまう。このため、徳川家康は天正12年(1584年)、菅沼定利を伊那郡に派遣して同郡の田峯菅沼氏の勢力を継承させるとともに、同郡の安定化を命じる。定利は知久氏の知久平城に入った後、下条氏の飯田城に移って徳川方に残った国衆を統率した。また、信濃国の領有を巡って対立していた徳川家康と上杉景勝がともに秀吉の傘下に入ると両者の国境確定が課題となり、飯田城にいた菅沼定利と上杉氏から海津城に派遣されていた須田満親が現地における交渉が行われている。
 小田原征伐後、家康が関東に移ると上野国吉井に2万石を与えられた。伊那郡の代官的存在であった菅沼定利が、諏訪郡の諏訪頼忠,佐久郡の依田康勝とともに上野国に移封されたのは、徳川氏の信濃方面に対する備えとしての役割を有していたとみられる。定利は領内で検地を実施し、六斎日六斎市を催すなど、治政の安定化に努めた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀忠軍として、真田昌幸の信濃上田城攻めに参加した。
 慶長7年(1602年)死去。田峯菅沼氏の血統は断絶したが、死後の家督は盟友・奥平氏から迎えた養嗣子の忠政が継いだ。菩提寺として吉井神保の仁叟寺に葬られたが、150年後に三河新城3代領主・菅沼定用により、墓石塔を玄太寺に移された。現在、墓石塔は高崎市史跡に指定されている。

菅沼定則 菅沼定村

 野田菅沼氏初代。不春と号す。家伝「菅沼家譜」に因れば、永正2年11月1日(1505年12月6日)、設楽郡の支配者であった富永氏から後嗣を望まれたという。総領家田峯菅沼氏を継ぐ長兄・定広は論外、普通なら次兄へ話が持ちかけられるところだが、次兄は健康上に不安があり、のちに仏門に入っている。そこで、3男の竹千代に御鉢が回ってきたのである。ただ、富永の家中では反対派が頑なに拒んだ。理由は家格が下になるはずの菅沼側が、菅沼姓のまま入嗣することを要求したという。田峯城を発した竹千代の一行ではあったものの、反対派によって富永居館への入館は絶望的。当面の間は、賛同派の邸内に新邸を構えて間借りする。その上、その邸内に専用の井戸まで新たに掘って、情勢好転の時節到来を期待した。ところが、説得工作は進展も無いまま越年。竹千代が富永居館へ入館できたのは2月11日(1506年3月15日)であった。
 入館後、富永色を一掃するためか、居館は「野田城」(旧・野田城)と呼び改められた。永正5年正月(1508年)、居館・野田城から移転すべく新たな野田城の築城に取り掛かる。富永氏以前の、平安時代の千秋氏による支配の頃から平地に在った居館の場所は不変で、竹千代の入館後であっても防備が疎かな上に、豊川の氾濫による水害にたびたび見舞われていたのが理由にあるという。
 この正月には元服を執り行い、竹千代は新八郎定則と改名した。同13年(1516年)、今川氏の遠州征服に呼応して曳馬城攻略戦にも参戦、8月19日(1516年9月25日)には陥落させた。その功により遠州の河合(静岡県磐田郡佐久間町川合),高辺(位置不明)の2郷を今川氏親から給された。同年12月になって、8年の歳月をかけた野田の新城がようやく完成。翌年の正月4日(1517年2月4日)になって転居した。
 享禄年間(1528~31年)には、松平清康の宇利城攻略戦に従軍するため今川氏から転属。ただし、清康の死後は今川氏に再属した。
 天文10年(1541年)8月、医王寺の三世住持・泰年全継より不春居士の号を受く。翌年12月18日(1543年2月2日)には、住持の徳を慕ってか、田峯宗家の甥・大膳亮定継と医王寺へ梵鐘を寄進している。
 同13年(1544年)正月、嫡子・定村に家督を譲ると、大洞山泉龍院の門前に「不春禅学敲門道場」を建立しそこに住した。隠居した13年末から翌14年正月まで、連歌師の宗牧を歓待している。
 同15年(1546年)夏、病に臥せると泉龍院11世再々住職・光国舜玉に願いいれて翌春まで止錫した。没年が判明しないが、死没日だけは確かという。逝去後は「永昌院殿不春玄休大居士」が呈せられ、泉龍院に葬られた。

 野田菅沼氏2代目。天文13年(1544年)1月、父の隠居により家督を継ぐ。同年4月、領内に母の菩提寺・能満寺を建立する。
 今川氏への忠勤に励んでいた弘治2年(1556年)、奥平貞勝の今川氏離反に本家・田峯菅沼氏も加担。それぞれ、本拠に立て籠もった。自身は離反に加担しなかったが、三右衛門定圓,伝一郎定自ら定村に不満を持っていた弟2人が本家に加わった。この造反には、駿府から東三河の諸将へは鎮圧が命じられたため、同年8月4日、貞勝に与する額田郡雨山へ攻め入った。ところが、定村の率いる野田菅沼軍だけが突出。後続の無いままに先立って、戦端を開いてしまう。しかも、防衛側・阿知波五郎兵衛から放たれた矢によって、馬上から下知する定村は左喉から耳を貫かれ、落馬絶命。大将を失った野田勢は、新三左衛門定貴,半五郎定満ら定村の弟2人による立て直しも空しく、弟たちも討死し壊滅した。

菅沼正貞 菅沼忠久

 長篠菅沼氏6代目当主。長篠城を築いた菅沼元成の玄孫。三河国設楽郡に地盤を持つ菅沼氏の支族で、長篠城を有する長篠菅沼氏に生まれた。永禄12年(1569年)1月に父・菅沼貞景が討死。若年で家督を継いだため、大叔父・菅沼満直の後見を受ける。
 元亀2年(1571年)に本家・田峯菅沼氏が武田信玄に与したとき、一度はこれに抗ったため、武田軍の天野景貫と交戦に及んだという。戦後、武田軍の先遣・秋山信友は、使者を遣わして長篠菅沼氏などを懐柔した。正貞の意思は、家康への従属を貫くものであったが、大叔父・菅沼満直に牛耳られた家中は、本家からの使者に同調して武田信玄の靡下に入ることを望んだ。以後は、本家・田峯菅沼氏と、その縁戚・奥平氏と共に山県昌景の与力に組み込まれる。奥三河で進退を共にする誓いを立てたこの3家は山家三方衆と呼ばれる存在と成り、武田軍の手先として三州・遠州の各地を転戦した。
 元亀4年(1573年)7月末には、武田軍が信濃国経由で帰国した間隙を衝く徳川家康によって居城・長篠城を攻囲される。この時、武田信豊を主将とした武田の救援軍が三河まで到達していたとされる。しかし、連絡路を遮断され援軍の存在を知らなかったためか、城方では、信豊たち援軍の到来を待たずして同年8月には開城降伏を選択。正貞は一命を奪われること無く、北へ逃れて武田の援軍に合流した。ところが信豊たち来援の武田首脳部では、正貞が家康に内通していると疑念を抱いており、証拠物件を挙げようとする。内通疑惑は真実であったが、幸いにも証拠は出なかった。それでも首脳部の疑念を晴らすには至らず、正貞の身柄は信濃小諸城にまで運ばれ、幽閉されてしまう。天正10年(1582年)、武田氏滅亡の前後で獄中死したとされる。
 正貞の妻も小諸城に軟禁されており、小諸で男子を出産したという。武田氏滅亡後、乳飲み子を伴って家康に対し赦免を要求し容認された。その後、乳飲み子は長じて菅沼正勝と名乗り、徳川頼宣付けとなった。

 都田菅沼氏3代目。通称、次郎右衛門尉。奥三河に版図を拡げる菅沼一族の中で唯一、遠江引佐郡都田に地盤を持っていた。当初は、菅沼氏との連携を大事にしていたようだが、より身近な井伊谷に居を構える井伊氏の被官になったと見られている。
 永禄11年(1568年)、遠江への侵攻を画策する徳川家康に加担する同族の野田菅沼定盈から今川離反の誘いを受けると承諾。忠久が、さらに鈴木重時や近藤康用も誘った。後に、この3人が井伊谷三人衆と呼ばれる。同年12月から行われた家康による遠江攻め入りでは、越年後の堀江城攻撃に参戦した。
 後年は、井伊直政に付けられたといわれる。ただ、天正10年(1582年)死去とあり、直政への貢献度は少なかったと考えられている。遺骸は遠州の龍潭寺に葬られたという。子の忠道が次郎右衛門尉の通称ともども家督を継ぐと、直政の配下として関ヶ原の戦いなどで功を挙げている。