<桓武平氏>高望王系

H403:畠山重能  平 高望 ― 平 良文 ― 平 将常 ― 畠山重能 ― 浄法寺重基 H404:浄法寺重基

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浄法寺重基 浄法寺重好

 父は鎌倉幕府の御家人であった畠山重忠の末子の大夫阿闍梨重慶。『奥南旧指録』によれば、元久2年(1205年)の畠山重忠の乱の際に、重忠ら一族は討たれたが、重慶は難を逃れて、鎌倉浄法寺にて出家したのち奥州に下り還俗して、二戸郡安比川川谷の中心部に住み着き、浄法寺氏の祖になったという。
 ただ、『吾妻鏡』では、乱の8年後の建保元年(1213年)9月に重慶は長沼宗政に討たれたとあり、詳細は不明。

 天正19年(1591年)9月、九戸政実の乱において九戸城攻略の先鋒として活躍し、乱後には5,000石となる。また、盛岡城構築の際にも奉行並5人衆として参加した。
 慶長6年(1601年)、岩崎一揆において岩崎陣に参加した際、重好は岩崎城代として前線警備の責任者であったが、南部勢が冬が迫っていたため春まで主力を撤収した後に、密かに浄法寺に帰り春に再征したことが発覚し、その怠慢の罪を問われて廃家没収されて家系も断絶となった。