『平家物語』に拠れば久寿2年(1155年)、父・秩父重弘が秩父重綱の長男でありながら、家督は次男の秩父重隆(叔父)が継いでいることに不満を抱いた重能は、源義朝・義平親子と結び、大蔵合戦で重隆とその婿・源義賢を討つ。このとき源義平は義賢の子で2歳の駒王丸も必ず殺すよう重能に命じたが、躊躇した重能は、その幼子を密かに斎藤実盛に託した。実盛の計らいで木曾へ逃がれた駒王丸は、のちの木曾義仲となったという。 重能は大蔵合戦で秩父氏の族長権を獲得したものと思われるが、秩父氏嫡流が受け継いでいる「武蔵国留守所総検校職」を継承した形跡はみられず、この地位は重隆の孫の河越重頼が継いでいる。 『保元物語』に拠れば、保元元年(1156年)、保元の乱において敗れた源為朝は父・為義に対して、合戦に参加しなかった三浦義明,畠山重能,小山田有重と談合し関東において抵抗することを提案しているが、この三者は乱で勝利した義朝方に近く慎重視されている。 平治元年(1159年)の平治の乱で源義朝・藤原信頼が平清盛に敗れて滅亡するが、この頃、重能・有重兄弟は平家方に帰属していたと見られている。 源頼朝が伊豆国で挙兵した際も大番役として京都にあり、平家の忠実な家人として各地で戦った。領地に残っていた17歳の嫡男・重忠は平家側として頼朝と対立し、源氏側に付いた外祖父の三浦義明を衣笠城合戦で討ち取っている(ただし、重能が江戸重継の娘を側室に迎えた形跡があり、重忠は側室の子であった可能性も指摘されている)。 『平家物語』では、重能と弟の小山田有重が平家の都落ちに従おうとして平知盛に東国への帰国を促されるなど、平家との縁が深かった重能は、畠山氏が源氏に属するようになると、重忠に後事を託して隠居したものと推測される。 重能が重忠の頼朝への帰順後も平家方にあった最大の理由は、重能は源氏と婚姻関係などのつながりを持たず、明確な主従関係の成立も大蔵合戦から平治の乱までの数年間に過ぎず、平家との主従関係の方が遙かに長く強いものであったこと、当時の情勢から平家方の逆転が見込めるとの判断から、自らの意思で積極的に加担していたと考えられている。だが、『平家物語』の諸本では重能が平家方に起請文を迫られたり、押籠られたり、挙句の果てには平家の都落ちの際に処刑されかけている場面まで登場する。これは時代が下って源氏(頼朝陣営)の勝利の事実と畠山重忠の頼朝への忠義ぶりが自明のものとされていく中で、重忠が当初平家に味方した理由が理解困難となっていき、その事実を説明するために父・重能が平家方の人質であったかのような解釈がされるようになったと考えられている。
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存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。 治承4年(1180年)8月17日に源頼朝が挙兵すると、父・重能(平家方)が大番役で京に上っていたため、領地にあった17歳の重忠が一族を率いることになり、平家方として頼朝討伐に向かった。相模国まで来ていた畠山勢は鎌倉の由比ヶ浜で三浦勢と遭遇。合戦となり、双方に死者を出して兵を引いた。26日、河越重頼,江戸重長の軍勢と合流した重忠は、三浦氏の本拠の衣笠城を攻め、一人城に残った老齢の当主で母方の祖父である三浦義明を討ち取った(衣笠城合戦)。 9月、頼朝は安房国で再挙し、千葉常胤,上総広常らを加えて2万騎以上の大軍に膨れ上がって房総半島を進軍し、武蔵国に入った。10月、重忠は河越重頼,江戸重長とともに長井渡しで頼朝に帰伏。『源平盛衰記』によると、重忠は先祖の平武綱が八幡太郎義家より賜った白旗を持って帰参し、頼朝を喜ばせたという。重忠は先陣を命じられて相模国へ進軍、頼朝の大軍は抵抗を受けることなく鎌倉に入った。 重忠は御家人に列し、頼朝の大倉御所への移転や鶴岡八幡宮の参詣の警護などの『吾妻鏡』の記事に重忠の名が見える。重忠は頼朝の舅の北条時政の娘を妻に迎えている。だが、この時期の重忠は父の重能が未だに平家方にあったこともあり、必ずしも頼朝の信任を得ていなかったとする見方もある。また、同じ秩父一族の中でも小山田氏が重用されて畠山氏は待遇面で格差をつけられ、更に平家郎党期に惣領の地位を占めていた河越氏は更に冷遇されて後に誅殺されるなど、頼朝が一族間で待遇に格差をつけて内部分断を図ったとする見方もある。 『平家物語』によると、寿永2年(1183年)、京を支配していた源義仲軍を撃破した義経は京に入り、後白河法皇の御所へ駆けつけ、重忠は義経らとともに後白河法皇に御簾越しに拝謁して名乗りを上げている。 頼朝と義経が対立し、義経が京で挙兵するが失敗して逃亡すると、義経の舅の河越重頼は連座して誅殺され、重頼の持っていた武蔵留守所惣検校職を重忠が継承した。 文治3年(1187年)、重忠が地頭に任ぜられた伊勢国沼田御厨で彼の代官が狼藉をはたらいたため、重忠の身柄は千葉胤正に囚人として預けられた。これを恥じた重忠は絶食してしまう。頼朝は重忠の武勇を惜しみ赦免するが、重忠が一族とともに武蔵国の菅谷館へ戻ると、侍所所司の梶原景時がこれを怪しみ謀反の疑いありと讒言した。頼朝は重臣を集めて重忠を討つべきか審議した。小山朝政が重忠を弁護し、とりあえず、下河辺行平が使者として派遣されることになった。行平から事情を聞いた重忠は悲憤して自害しようとするが、行平がこれを押しとどめて鎌倉で申し開きするよう説得した。景時が取り調べにあたり、起請文を差し出すように求めるが、重忠は「自分には二心がなく、言葉と心が違わないから起請文を出す必要はない」と言い張った。頼朝は何も言わずに重忠と行平を召して褒美を与えて帰した。 文治5年(1189年)、夏の奥州合戦で先陣を務める。建久元年(1190年)に頼朝が上洛した際は先陣を務め、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれて参院の供奉をした。 建久4年(1193年)、武蔵国の丹党(南西部)と児玉党(北西部)の両武士団の間に確執が生じ、合戦になる直前にまでおちいった際には、仲裁に入り、和平させ、国内の開戦を防いだ(この時、児玉党の本宗家は庄家長と考えられる)。 正治元年(1199年)10月の諸将66名による景時弾劾の連判状にも名を連ねている。景時は翌正治2年(1200年)に駿河国にて討死。 建仁3年(1203年)の比企能員の変では、重忠は北条氏に味方して比企氏一族を滅ぼしている。頼家は幽閉され、後に謀殺された。後継将軍には弟の源実朝が就き、執権の北条時政が実権を握った。 元久元年(1204年)11月、重忠の息子の重保が北条時政の後妻・牧の方の娘婿である平賀朝雅と酒席で争った。この場は収まったが、牧の方はこれを恨みに思い、時政に重忠を討つよう求めた。翌元久2年(1205年)6月、時政は息子の義時・時房と諮り、『吾妻鏡』によると二人は「忠実で正直な重忠が謀反を起こす訳がない」とこれに反対するが、牧の方から問い詰められ、ついに同意したという。なお、『吾妻鏡』におけるこの下りは、その後、北条政子と義時が父・時政を追放したという「背徳」を正当化する伏線となっている。 稲毛重成(時政の娘婿)が御所に上がり、重忠謀反を訴え、将軍・実朝は重忠討伐を命じた。6月22日、鎌倉にいた重保は謀略をもって殺された。この時、重忠は「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」との虚偽の命を受けて130騎ほどを率いて菅谷館を出て鎌倉に向かう途上にあった。武蔵国二俣川(二俣川の戦い、鶴ヶ峰の戦い)で義時を大将軍とする数万騎が自分に差し向けられたことを知った重忠は覚悟を決め、わずかな兵で踏みとどまって義時の大軍を相手に奮戦。愛甲季隆に射られて討ち死にした。享年42。 『愚管抄』には重忠は自害したと記述されている。合戦後、義時は送られてきた重忠の首を見て「年来合眼の昵を忘れず、悲涙禁じがたし」と悲嘆にくれた、そして、「謀反を企てることすでに虚誕」「讒訴によって誅戮に逢へる」と、重忠討伐を讒訴によるものと断じ、父・時政の所行を糾弾したと『吾妻鏡』には記述されている。三浦義村が鎌倉にいた重忠の義弟の榛谷重朝父子を討ち、さらに重忠謀反を訴えた稲毛重成も殺害された。人望のあった重忠を殺したことで、時政と牧の方は御家人たちから憎しみを受けることになり、同年閏7月に牧氏事件が起こり、時政と牧の方は失脚して伊豆国へ追放され、平賀朝雅は殺された。 事件の背景には、武蔵武士団の首領である畠山氏と、武蔵守である朝雅を後見する北条氏による有力国武蔵支配を巡る衝突があり、また、時政の先妻の子・義時と、後妻の娘婿・朝雅の北条家内の対立があったものと考えられる。 重忠旧領と畠山の名跡は足利義兼の庶長子・足利義純が重忠の未亡人(時政女)と婚姻し継承した。これによって畠山氏は源姓として存続することになる。なお、義純が婚姻した女性は重忠の未亡人(時政女)ではなく、重忠と時政女との間に生まれた女性であるとの説もある。 埼玉県比企郡嵐山町には重忠の菅谷館の跡とされるものがあり、空堀などの遺構が残されている。ただし、現在残っているのは戦国時代の後北条氏のものであると言われる。衣笠城にほど近い神奈川県三浦郡葉山町には、畠山という標高205mほどの山があり、衣笠城攻めの折に重忠が布陣した場所と伝えられている。
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