H403:畠山重能 | 平 高望 ― 平 良文 ― 平 将常 ― 畠山重能 ― 伊地知重光 | H405:伊地知重光 | ● |
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伊地知季随 | 伊地知重興 |
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越前国伊知地を領しており、北朝方に与していたが、讒言のために足利尊氏によって罪人とされ領地を没収された。島津氏久及びその父・貞久の取り成しによって救われたことから、以後は島津氏に従い転戦した。南朝方の菊池氏との戦いで島津氏が敗れた際に、恩ある氏久の身代わりとなって討死した。以後伊地知氏は薩摩国や大隅国等に土着した。 |
父・伊地知重武は島津氏当主である島津勝久の家老職を務め、重興も島津宗家を継いだ伊作島津家の貴久に従う。弘治2年(1556年)4月の蒲生氏討伐に参加したが、永禄年間には肝付兼続,禰寝重長と同盟を結び島津氏に反旗を翻した。 |
伊地知重政 | 伊地知幸介 |
永禄9年(1566年)の三ツ山城攻めで軍功を為し、天正6年(1578年)の耳川の戦いでは、島津義弘の命により10月10日の夜半に酒瀬川武安,富山備中守と共に300余の兵で伏兵し、敵勢を討ち取る功を上げた。後に日向国門川の地頭に任じられ、軍議に参加する人数54人のうち日向3城の一人に数えられる(日向の3城は吉利忠澄が地頭であるため、地頭職は忠澄に任じられたものとも)。天正9年(1581年)の肥後国水俣城攻めには、この門川衆を率いて出陣している。
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薩摩藩士・伊地知直右衛門の長男として生まれる。薩摩閥の1人であり、最初の妻は大山巌元帥の姪。御親兵(後の近衛兵)に抜擢されて上京。陸軍幼年学校を経て、明治8年(1875年)12月に陸軍士官学校入学。明治10年(1877年)4月から翌月まで西南戦争に出征した。明治12年(1879年)2月、砲兵少尉に任官し、同年12月、陸軍士官学校を卒業。 |
伊地知正治 | |
薩摩藩士・伊地知季平の次男として鹿児島城下千石馬場町に生まれる(幼名は竜駒)。3歳の時に文字を読んで「千石の神童」と呼ばれるが、幼い頃に大病を患ったために片目と片足が不自由となる。 |