<桓武平氏>高望王系

H403:畠山重能  平 高望 ― 平 良文 ― 平 将常 ― 畠山重能 ― 伊地知重光 H405:伊地知重光

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伊地知季随 伊地知重興
 越前国伊知地を領しており、北朝方に与していたが、讒言のために足利尊氏によって罪人とされ領地を没収された。島津氏久及びその父・貞久の取り成しによって救われたことから、以後は島津氏に従い転戦した。南朝方の菊池氏との戦いで島津氏が敗れた際に、恩ある氏久の身代わりとなって討死した。以後伊地知氏は薩摩国や大隅国等に土着した。 

 父・伊地知重武は島津氏当主である島津勝久の家老職を務め、重興も島津宗家を継いだ伊作島津家の貴久に従う。弘治2年(1556年)4月の蒲生氏討伐に参加したが、永禄年間には肝付兼続,禰寝重長と同盟を結び島津氏に反旗を翻した。
 しかし、元亀3年(1572年)9月に家臣・伊地知重矩の小浜城を島津歳久に落とされ、更に翌年の天正元年(1573年)に盟友であった禰寝重長が島津義久に降伏したことで事態が悪化する。重興は翌天正2年(1574年)3月に裏切った禰寝氏を肝付氏と共に攻撃するが、肝付家臣・安楽兼寛の牛根城が島津氏に降伏、開城したことで利を失い、重興は全領地を差し出し、剃髪の上で島津氏に降伏した(唯一、下之城のみ返還される)。
 その後は島津氏の家臣となり周防守に任じられると、日向国伊東氏の高原城攻めや大友氏攻めなどで活躍。天正8年(1580年)に死去した。
 重興は豊後国より招いた女を側室としたが、この女が家中の者と密通したため、櫃の中に多数の蛇と共に入れ垂水の池に沈めて殺害している。しかし、後に女が祟りをなしたことから、赤明神として祀り氏神とした。 

伊地知重政 伊地知幸介

 永禄9年(1566年)の三ツ山城攻めで軍功を為し、天正6年(1578年)の耳川の戦いでは、島津義弘の命により10月10日の夜半に酒瀬川武安,富山備中守と共に300余の兵で伏兵し、敵勢を討ち取る功を上げた。後に日向国門川の地頭に任じられ、軍議に参加する人数54人のうち日向3城の一人に数えられる(日向の3城は吉利忠澄が地頭であるため、地頭職は忠澄に任じられたものとも)。天正9年(1581年)の肥後国水俣城攻めには、この門川衆を率いて出陣している。
 天正14年(1586年)の丹生島城攻めの際は先登を果たす功を為したが、翌天正15年(1587年)に豊後国野津の地にて討ち死にした。

 

 薩摩藩士・伊地知直右衛門の長男として生まれる。薩摩閥の1人であり、最初の妻は大山巌元帥の姪。御親兵(後の近衛兵)に抜擢されて上京。陸軍幼年学校を経て、明治8年(1875年)12月に陸軍士官学校入学。明治10年(1877年)4月から翌月まで西南戦争に出征した。明治12年(1879年)2月、砲兵少尉に任官し、同年12月、陸軍士官学校を卒業。
 明治13年(1880年)にフランス、4年後にドイツ帝国に留学。この間にドイツ参謀総長・大モルトケから彼の信頼する参謀将校デュフェ大尉を紹介され戦略戦術の指導を受けているが、これに乃木希典も講義を受けることになり伊地知が通訳などの世話をしている。明治22年(1889年)11月、砲兵少佐に進級し、野戦砲兵第1連隊大隊長に就任。日清戦争時には第2軍参謀副長として出征した。その後、大本営参謀,参謀本部第1部長,英国駐在武官を務める。
 明治33年(1900年)4月、陸軍少将に昇進。同年10月、参謀本部第1部長となり、野戦砲兵監,京城公使館付などを歴任。明治37年(1904年)5月、第3軍参謀長に就任し、日露戦争における旅順攻略を実施。明治38年(1905年)1月、旅順要塞司令官に任命され、東京湾要塞司令官に転じ、明治39年(1906年)7月、同期首席で陸軍中将に進んだ。
 明治40年(1907年)9月、日露戦争の功により男爵となる。明治41年(1908年)12月、第11師団長に親補され2年弱在任。明治43年(1910年)11月に待命、翌年11月、病気により休職。大正2年(1913年)1月、予備役編入となった。 

伊地知正治

 薩摩藩士・伊地知季平の次男として鹿児島城下千石馬場町に生まれる(幼名は竜駒)。3歳の時に文字を読んで「千石の神童」と呼ばれるが、幼い頃に大病を患ったために片目と片足が不自由となる。
 剣術を薬丸自顕流の薬丸兼義に、合伝流兵学を初め伊敷村の石沢六郎、後に荒田村の法亢宇左衛門に学んで奥義を極めた。合伝流の弟子に西郷従道,高崎五六,淵辺群平,三島通庸がいる。池上四郎,有馬藤太も薫陶を受けている。のち藩校・造士館の教授となる。
 安政6年(1859年)には精忠組に参加。文久2年(1862年)、島津久光の上洛に従って京都に上った功績により軍奉行となる。伊地知は類稀な軍略家であり、禁門の変や戊辰戦争で大きな功績を挙げた。白河口の戦いではわずか700の兵で白河城に拠る旧幕府軍2,500に圧勝し、また土佐藩の板垣退助と共に母成峠の戦いで旧幕府軍を大破して会津若松城開城に大きく貢献した。伊地知の兵法の特徴は、徹底した少数精鋭主義(薩摩藩兵では城下士の部隊、長州藩兵では奇兵隊系の部隊を選抜して率いた)、合伝流の伝統である火力絶対主義、そして時に拙速ともいえる速戦主義にあった。
戦後は薩摩藩の藩政改革に臨んだが、中央の太政官政府と海軍予算拠出を巡って対立し勝手に帰郷するなど騒動を起こしてもいる。廃藩置県後は薩閥の有力者として太政官政府に入った。
 征韓論争では征韓側につく。板垣とともに派兵計画を立てるが、明治六年政変では下野しなかった。対立していた左院議長の後藤象二郎が下野したことで、同副議長の伊地知が代わって議長に就任したためである。のちに参議を兼任し、修史館総裁,一等侍講,宮中顧問官などを歴任。西南戦争では早々に薩軍の敗北を予見したが、戦後は帰郷して郷里の復興に尽力し、明治19年(1886年)に58歳で死去。明治20年(1887年)、国家ニ勲功アル者として生前に遡って「伯爵」を授爵された。激烈な性格で頭脳は優れていたというが奇人としての逸話も多い。