H402:平 将常 | 平 高望 ― 平 良文 ― 平 将常 ― 小山田信澄 | H406:小山田信澄 | ● |
リンク |
小山田信長 | 小山田弥太郎 |
---|---|
甲斐国都留郡の国衆。『甲州郡内小山田家系図』によれば、小山田氏の13代当主で、仮名は「孫三郎」、法名は「耕雲」を称したという。なお、戦国時代に小山田氏一族は仮名に「弥」に始まる名を用いていることから、「孫三郎」は「弥三郎」の誤読と考えられている。小山田氏当主・小山田弥太郎は子とされる。『甲州郡内小山田氏系図』によれば、姉妹は甲斐国守護・武田信昌の妻となり、油川信恵,岩手縄美兄弟の生母となったという。 |
『甲州郡内小山田家系図』に拠れば郡内小山田氏の14代当主。諱は「信隆」とされるが確証はない。先代の信長からの代替わりの時期は不明であるが、仮名「弥太郎」を名乗っていることから若年での継承であったと考えられている。 |
小山田信有(涼苑) | 小山田信有(契山) |
甲斐国東部の郡内領主(国人)。越中守を称した。法名は涼苑。妻は武田信縄の娘で、正室の死後に大井信達の娘を継室に迎えた可能性も示唆されている。子に出羽守を称した小山田信有がいるとされてきたが、世代的に弟である可能性が挙げられている。 |
天文9年(1540年)、弥三郎信有が誕生。同年、主君武田家でも武田晴信が家督を継承。出羽守信有は弟・信義とともに引き続き晴信に仕える。翌天文10年には父・越中守信有が死去。嫡男となっていた兄・小山田虎親も同年に死去したため、代わって家督を継いだ。
|
小山田信有(桃隠) | 小山田信茂 |
小山田氏は弥三郎信有の祖父にあたる越中守信有期に甲斐守護・武田氏に従属する。父の出羽守信有は武田晴信(信玄)の信濃侵攻において活躍するが、天文19年(1550年)8月29日の信濃国衆・村上義清の拠る戸石城攻めでは敗退したという。 |
甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。武田二十四将の一人に数えられる。甲斐東部郡内地方の国衆・小山田氏当主・小山田出羽守信有の次男として生まれる。しかし、小山田信茂の出自は不明瞭な点がある。天文24年9月5日付「柏尾山造営記写」に拠れば、天文19年(1550年)3月中旬に父・出羽守信有は、柏尾山大善寺へ参詣した際に鶴千代丸・藤乙丸の二子を連れ、両人とも「12歳」としている。鶴千代丸は惣領(長男)と記されているため弥三郎信有に、藤乙丸は信茂に比定される。両人とも天文8年(1539年)の出生と考えられるが、弥三郎信有は永禄5年(1562年)5月の願文で自身の年齢を「廿三」と記しているため生年は天文9年で、信茂は弥三郎信有の庶兄とも考えられている。『甲斐国志』でも天正10年(1582年)に「小山田信茂は43歳死去」としており、天文9年出生となる。なお、このほかに『甲陽軍鑑末書』では永禄12年(1569年)時点で27歳とし、天文12年出生とする説もある。 |
小山田行村 | 小山田虎満 |
小山田信茂の従弟といわれる。武田信玄の旗本衆であり、永禄12年(1569年)小田原城攻撃の際には同僚の初鹿野信昌と共に増水した酒匂川の渡河を達成する殊勲を挙げた。使番十二人衆、武田勝頼の代には中老職であったという。 |
天文15年(1546年)5月、武田氏は晴信期に信濃侵攻を本格化させ、佐久郡内山城の大井貞清を攻め落としている。虎満の初見資料は『高白斎記』において同年7月条の記事で、「上原伊賀守」が武田晴信により内山城代に任命され、西上野口へ通じる佐久郡を確保している。『高白斎記』天文20年3月29日において、内山城代は前城主・貞清に交代し虎満は甲府へ帰還したが、同9月20日条では貞清が更迭され再び内山城代となっており、この際に石田小山田氏を継承し小山田備中守を称している。天文23年(1554年)7月には村上義清の監視のため、飯富虎昌とともに再び内山城に在番している。 |
小山田昌成 | 小山田有誠 |
虎満は天正7年(1579年)の死去まで内山城代を務めていることが確認されているが、永禄10年(1567年)には嫡男である菅右衛門尉(昌成)への知行・同心衆譲渡を認められており、この頃に虎満は隠居したと考えられている。昌成は2代目備中守を襲名しているが、虎満は高野山蓮華定院過去帳によれば、天正7年(1579年)10月12日に死去しているが、死去するまで備中守を称していることから、昌成の2代目襲名はこれ以降のことであると考えられている。 |
甲斐都留郡倉見境領主。父・弾正が天文4年8月22日(1535年9月19日)の国中・郡内合戦で戦死すると、家督を継ぐ。都留郡谷村城主の小山田信茂の援護役をつとめた。 |
小山田茂誠 | 小野之知 |
『長国寺殿御事蹟稿』によれば、茂誠は天正10年(1582年)の高遠城落城の際に21歳もしくは22歳であるとされ、生年は永禄4年もしくは永禄5年に推定されている。父・小山田有誠は小山田氏当主・信有(弥三郎)・信茂期に一門として活動し、天正10年(1582年)3月に武田氏・小山田氏が滅亡すると、後北条氏に従う。 |
父の小山田茂誠は甲斐都留郡の国衆・小山田氏の一門である境弾正家の出自であるが、後に武田家臣の石田小山田氏の小山田昌成の子孫を称している。茂誠は武田家臣時代に武田家臣であった真田昌幸娘と婚姻し、之知が誕生していたと考えられている。天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍の武田領侵攻により武田氏は滅亡する(甲州征伐)。小山田氏の当主・小山田信茂は武田氏から離反するが織田氏により処刑され、小山田氏も滅亡した。之知の生年は不明であるが武田氏が滅亡した際に小野村に身を隠したという伝承があり、事実とすればこれ以前の生まれとなる。 |