<桓武平氏>高望王系

H402:平 将常  平 高望 ― 平 良文 ― 平 将常 ― 小山田信澄 H406:小山田信澄

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小山田信長 小山田弥太郎

 甲斐国都留郡の国衆。『甲州郡内小山田家系図』によれば、小山田氏の13代当主で、仮名は「孫三郎」、法名は「耕雲」を称したという。なお、戦国時代に小山田氏一族は仮名に「弥」に始まる名を用いていることから、「孫三郎」は「弥三郎」の誤読と考えられている。小山田氏当主・小山田弥太郎は子とされる。『甲州郡内小山田氏系図』によれば、姉妹は甲斐国守護・武田信昌の妻となり、油川信恵,岩手縄美兄弟の生母となったという。
 甲斐国では室町時代後期の明応年間に武田信昌の子である守護・信縄と油川信恵の間で抗争が発生し、『向嶽寺文書』によれば、信長はこれに乗じて都留郡田原郷の向嶽寺領を横領した。明応7年(1498年)に信縄・信恵間で和睦が成立すると、信長は明応8年(1499年)9月に横領分を向嶽寺に還付したという。信長の花押も記されており、この時点で信長は平姓を称していることが確認される。
 『甲斐国志資料』によれば、永正17年(1520年)には現在の大月市賑岡町に所在する円通寺(現在は廃寺)の棟札の奉加者に藤原長吉,内匠助長吉,奥秋長吉,志村長吉の4名の人物が記され、いずれも「長」の一字を持っているため、信長からの偏諱であるとも考えられている。
 武田氏では信昌・信縄の死後に信縄・嫡男の信直(信虎)と油川信恵・岩手縄美兄弟の間で抗争が再発し、小山田氏の当主・弥太郎は信恵方に属している。これは、『甲州郡内小山田家系図』に信長の姉妹が信恵・縄美兄弟の生母となっていることが背景にあると考えられている。 

 『甲州郡内小山田家系図』に拠れば郡内小山田氏の14代当主。諱は「信隆」とされるが確証はない。先代の信長からの代替わりの時期は不明であるが、仮名「弥太郎」を名乗っていることから若年での継承であったと考えられている。
 甲斐国では守護・武田信昌の子である信縄と油川信恵・岩手縄美間で抗争があり、明応8年(1499年)には和睦が成立したものの、永正2年(1505年)に信昌が、永正4年(1507年)に信縄が病死すると抗争は再燃。永正5年(1508年)に家督を継承した信縄の嫡男・信直(後の信虎)と叔父の油川信恵・岩手縄美兄弟との間で家督争いが起こると、弥太郎は信恵方に与した。これは、弥太郎の叔母が信恵・縄美兄弟の生母であったことが背景にあると考えられている。同年10月4日、勝山合戦において信恵方は信直に大敗し、信恵・縄美ともに戦死した。弥太郎はこれに対して国中へ出兵するが、同年12月5日に信直に敗北し戦死した。弥太郎の享年は不明であるが、仮名のまま死去していることから、若年であったと考えられる。 弥太郎の戦死により、郡内小山田氏では一門・境小山田氏の小山田平三(弾正)は伊豆国韮山の伊勢宗瑞(北条早雲)のもとへ亡命した。
 『菊隠録』に拠れば、永正17年(1513年)12月5日に広厳院(山梨県笛吹市一宮町金沢)において、子息の越中守信有とみられる人物により十三回忌仏事が行われている。
 『甲州郡内小山田家系図』では法名を「徹山」とするが、永昌院二世・菊隠瑞潭の語録『菊隠録』に拠れば、法名は「義山」であり、誤りであることが指摘されている。なお、『甲州郡内小山田家系図』では「儀山」を弥太郎の曽祖父・信実としている。 

小山田信有(涼苑) 小山田信有(契山)

 甲斐国東部の郡内領主(国人)。越中守を称した。法名は涼苑。妻は武田信縄の娘で、正室の死後に大井信達の娘を継室に迎えた可能性も示唆されている。子に出羽守を称した小山田信有がいるとされてきたが、世代的に弟である可能性が挙げられている。
 戦国期の甲斐国は、国中地方において守護・武田信昌の子・信縄と油川信恵の兄弟間で家督争いが起こり、有力国衆を巻き込む乱国状態となっていた。一旦、和解するも信縄が死去して幼い信直(信虎)が家督を継ぐと再燃し、永正5年(1508年)10月4日の坊ヶ峰合戦で信恵は信直に討ち取られる。小山田氏当主を討ち取った信直は永正6年(1509年)秋と12月、翌7年春にまで及んで都留郡に攻め込み、遂に小山田氏との和睦を果たした。この和睦は小山田氏の事実上の武田氏への従属であり、この際に武田・小山田氏の間で婚姻が成立したと見られている。
 国中地方では武田信虎と有力国衆との抗争が続き、これに隣国の駿河国・今川氏や相模国・後北条氏が介入し、郡内の小山田氏も武田氏と共にこの一連の戦乱に参戦した。永正12年(1515年)に西郡の大井信達との大井合戦では小山田一族も動員され、小山田大和守が戦死した。同13年(1516年)末、大井氏を支援していた今川氏が郡内へ侵攻し、吉田山城を占拠し、小山田勢の西海右近進・平八兄弟や大石与五郎を討ち取っている。これに対し小山田氏家老の小林宮内丞やその父・尾張入道が吉田山城を攻め立て、翌14年(1517年)1月12日には今川勢が撤退した。しかし、その後も郡内や国中での武田・小山田氏と今川氏の争いは継続し、永正15年(1518年)5月に漸く和睦が成立した。
 享禄5年(1532年)、信有は本拠を中津森館(都留市金井)から谷村へ移転している。以後、谷村館を中心とした城下町が整備されたと考えられており、谷村館背後の城山には近世初頭には築城されている勝山城が所在し、勝山城の築城期・築城主は不明であるが、中津森館は吉田・忍草から大月方面へ抜ける諸道を掌握・監視する役割を持っていたと考えられており、小山田氏時代には城山に勝山城の前身となる城砦が存在したとも考えられている。
 天文4年(1535年)6月5日、武田・今川間の和睦が破れると、信虎は駿河へ侵攻し甲駿国境の万沢において両勢は激突する。一方、今川氏と同盟関係にある北条氏綱は郡内へ侵攻し、同年8月22日には山中の戦いにおいて小山田信有,勝沼信友勢と北条勢が激突する。この合戦において郡内勢は敗北し、小山田弾正,小林左京助(小林和泉守の嫡男)らが戦死し、後北条勢はさらに吉田へ侵攻し同地を焼き払うが、武田勢に同調した扇谷上杉氏の上杉朝興が後北条氏の本拠である小田原城へ侵攻すると、後北条勢は撤退した。
 長生寺所蔵の「紙本著色小山田越中守信有画像」の像主は越中守信有とされていたが、修理名の存在から像主は出羽守信有である可能性が指摘されている。

 天文9年(1540年)、弥三郎信有が誕生。同年、主君武田家でも武田晴信が家督を継承。出羽守信有は弟・信義とともに引き続き晴信に仕える。翌天文10年には父・越中守信有が死去。嫡男となっていた兄・小山田虎親も同年に死去したため、代わって家督を継いだ。
 出羽守信有は晴信(信玄)期に本格化する信濃侵攻においては活動が見られ、天文14年(1545年)に諏訪攻めの延長として行われている伊那郡箕輪城攻めにおいては、城主・藤沢頼親の降伏に際して勝沼信元,穴山信友ら親類衆とともに仲介を務めており、天文16年(1547年)8月の佐久郡侵攻においては、志賀城主・笠原清繁の夫人を側室として与えられ、駒橋へ連れ帰ったという。また、天文17年(1548年)2月の上田原の戦いにおいても従軍しており、天文19年(1550年)8月に武田勢は小県郡戸石城の村上義清を攻めるが攻城は難航し、10月1日には撤退するところを村上勢に追撃され敗退した(砥石崩れ)。信有はこの合戦において負傷、家臣らも討死しており、翌天文20年(1551年)の筑摩郡小笠原攻めにおいて、信有は病床にあり嫡子・弥三郎が小山田勢を率いている。信有自身は天文21年(1552年)に死去した。
 出羽守信有期には無年号文書を含む8通の文書が現存している。小山田氏については越中守信有期の発給文書が現存しておらず、天文11年10月16日付小山田信有判物は小山田氏最古の発給文書となっており、内容は諸役・棟別免許や過所など。出羽守信有文書には花押と方形単廊朱印が使用されており、以来、この方式は信茂期に至るまで継承されている。
 また、小山田氏は越中守信有期に武田氏と和睦し、享禄3年(1530年)には居館の谷村移転が行われており、以来、小山田氏は国中における有力国人勢との戦いにも動員され、郡内領への経済的圧力を加えられるなど武田氏への従属を強めているが、秋山敬は『勝山記』享禄5年条の解釈から越中守信有の没年が同年であるとし、谷村館への居館移転は出羽守信有の家督相続の時期にあたり、郡内への圧力を強める武田氏との政治情勢が背景にあった可能性を指摘している。
 山梨県都留市下谷の長生寺に伝来する小山田信有画像は従来越中守信有に比定されていたが、高野山過去帳による出羽守信有の法名と修補銘に「契山存心」と記されていることから、画像は出羽守信有のものと考えられている。

 

小山田信有(桃隠) 小山田信茂

 小山田氏は弥三郎信有の祖父にあたる越中守信有期に甲斐守護・武田氏に従属する。父の出羽守信有は武田晴信(信玄)の信濃侵攻において活躍するが、天文19年(1550年)8月29日の信濃国衆・村上義清の拠る戸石城攻めでは敗退したという。
 天文19年には武田宗家による柏尾山大善寺の修築が行われており、同年3月に父の出羽守信有は「鶴千代丸」「藤乙丸」に二子を連れ大善寺を参詣し勧進延年舞を奉納している。同文書に拠れば両人は12歳の同年で、鶴千代丸は惣領(長男)と記されている点から弥三郎信有に、「藤乙丸」は信茂に比定される。これが弥三信有の初見資料となる。天文19年に12歳とされる点から両人は天文8年出生となるが、弥三郎信有は永禄5年(1562年)5月の願文で「廿三」と記しており、天文9年出生とも考えられている。
 父・出羽守信有は病床にあったと言われ、『勝山記』に拠れば翌天文20年11月に弥三郎信有は信濃平瀬城への番勢派遣を命じられ、被官衆を派遣している。『勝山記』に拠れば、翌天文21年正月23日に出羽守信有は死去し、家督相続・元服したと考えられている。弥三郎信有は出羽守信有が病床にあった時期から当主代行を務めていたと考えられているが、当初は別の実名を名乗り、出羽守信有の没後に「信有」と改名したと考えられている。

 甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。武田二十四将の一人に数えられる。甲斐東部郡内地方の国衆・小山田氏当主・小山田出羽守信有の次男として生まれる。しかし、小山田信茂の出自は不明瞭な点がある。天文24年9月5日付「柏尾山造営記写」に拠れば、天文19年(1550年)3月中旬に父・出羽守信有は、柏尾山大善寺へ参詣した際に鶴千代丸・藤乙丸の二子を連れ、両人とも「12歳」としている。鶴千代丸は惣領(長男)と記されているため弥三郎信有に、藤乙丸は信茂に比定される。両人とも天文8年(1539年)の出生と考えられるが、弥三郎信有は永禄5年(1562年)5月の願文で自身の年齢を「廿三」と記しているため生年は天文9年で、信茂は弥三郎信有の庶兄とも考えられている。『甲斐国志』でも天正10年(1582年)に「小山田信茂は43歳死去」としており、天文9年出生となる。なお、このほかに『甲陽軍鑑末書』では永禄12年(1569年)時点で27歳とし、天文12年出生とする説もある。
 天文21年(1552年)正月には父の出羽守信有が病死し、跡は兄の弥三郎信有が家督を継ぐ。永禄8年(1565年)、弥三郎信有が病死したために、信茂は家督を継いだ。
 永禄9年(1566年)正月16日には鶴瀬の佐藤与五左衛門に過所を発給しており、これが初見文書とされる。永禄10年(1567年)8月7日には武田家における義信事件に際した起請文(下之郷起請文)が提出され、この時、信茂も起請文を記している。
 永禄11年(1568年)12月には武田氏と今川氏の同盟が断絶し、武田氏による今川領侵攻が開始される。『甲陽軍鑑』に拠れば信茂はこの駿河侵攻で武田軍の先陣を務め、駿河江尻から上原に侵攻したという。翌永禄12年(1569年)、今川領への侵攻は相模後北条氏との甲相同盟の断絶も招き、北条氏との抗争も発生する。『甲陽軍鑑』に拠れば、信茂は駿河で合戦を続けていたとしているが、詳細な動向は不明。
 今川・北条との争いはその後も続き、元亀元年(1570年)8月には伊豆韮山城・興国寺城攻めが行われており、信茂は山県昌景,諏訪勝頼とともに韮山城攻めに加わっている。
 元亀3年(1572年)12月には徳川方との三方ヶ原の戦いが発生する。『甲陽軍鑑』に拠れば、西上作戦に際して信茂は武田軍の先陣を務めたとし、信茂は投石隊を率いたとされるが、後世俗説が成立したと考えられている。
 信玄の死後、織田信長・徳川家康は攻勢を強め、元亀4年(1573年)7月に家康は三河国長篠城攻めを開始し、武田勝頼はこれに対して後詰を派遣する。『甲陽軍鑑』に拠れば、信茂はこの時に武田信豊,馬場信春とともに長篠城に派遣されたという。同年8月には三河国作手の国衆・奥平氏が離反し、同年9月に長篠城は落城する。『甲陽軍鑑』に拠れば、信豊ら後詰の兵も帰国したとされ、信茂も帰国したと見られている。天正3年(1575年)4月に勝頼は反攻を開始し、三河足助城攻めを行う。信茂もこの時に参陣している。天正3年(1575年)5月、勝頼は長篠城を包囲すると、これに対して織田信長が出兵し、同年5月21日には武田軍と織田・徳川連合軍の間で長篠の戦いが発生する。この時、『甲陽軍鑑』に拠れば、信茂は馬場信春,内藤昌秀,山県昌景,原昌胤らとともに軍の撤退を主張し、軍の出撃を唱える勝頼を諌めたという。また、信茂は長篠の戦いで徳川勢と競り合ったとしている。結局、長篠の戦いでは武田軍は大敗し。多くの重臣たちが戦死したが、信茂は勝頼の身辺を警護し退却したという。
 天正6年(1578年)3月、越後で上杉謙信の没後に上杉景勝・上杉景虎の間で家督を巡る御館の乱が発生する。勝頼の仲裁のおかげで景勝と景虎との間の和睦は一時的に成立するが、この時、信茂は景勝との交渉において勝頼側近の跡部勝資,長坂光堅とともに取次を担当している。しかし、天正6年(1578年)8月22日に徳川家康が駿河田中城に攻めてくると、勝頼は越後から軍を撤兵した。すると、景勝と景虎との間の和睦は崩れ、再び対立状態となった。天正7年(1579年)3月、景虎が景勝に攻められて滅亡し、これによって、甲相同盟は消滅。勝頼はこれに対して景勝との新たな同盟を強化し、甲越同盟が成立する。この時、信茂は引き続き上杉方との取次・交渉を担当している。
 天正9年(1581年)12月、織田信長・徳川家康は武田領攻めを開始した(甲州征伐)。この織田軍の動きに反応して、信濃木曽郡の国衆・木曾義昌が武田家から離反した。また、相模の後北条氏も武田領への侵攻を開始し、武田家の信濃領国は動揺した。天正10年(1582年)2月29日、織田信忠は伊那郡高遠城の仁科盛信(信盛)を攻め、信忠は矢文で盛信に降伏を促し、信茂らが勝頼から離反したと伝えているが、この段階で信茂が勝頼から離反していることは虚報であると指摘されている。
 勝頼は天正9年に新府城を新たに築城し、国の本拠地を甲府の躑躅ヶ崎館から新府城に移転した。『信長公記』によれば、同年3月3日に勝頼は新府城を放棄し、まだ築城途中だったこの新府城に火を放ち廃城にして、小山田氏の郡内へ逃れたという。『甲陽軍鑑』によれば、勝頼・嫡男の信勝は新府城における籠城戦を主張したが、真田昌幸が上野岩櫃城への退避を提案した。しかし勝頼側近の長坂光堅が小山田信茂を頼り、郡内の岩殿城へ逃れることを主張したという。一方、『甲乱記』では信勝や昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対し郡内への退避を諮問したとしている。
 勝頼一行が新府城から郡内領へ退避する最中、突然、信茂は勝頼から離反し、勝頼らに対し鉄砲を向けた。その後、勝頼は田野において残された武田軍の兵を引き連れて、織田方の滝川一益の軍勢と戦い、最後は自刃した(天目山の戦い)。この信茂の離反に関して、記録によって経緯が異なる。
 武田家滅亡後、織田氏・徳川氏は、旧武田家の本国の甲斐を平定した。旧武田家家臣の信茂は嫡男を人質として差し出すために、織田軍の本陣のある甲斐善光寺に行き、織田信長に謁見しようとした。しかし、そこに出てきたのは織田信忠であった。信忠は、信茂が長年武田家の家臣として主君の武田氏に仕えてきたのに、その武田家を裏切ったことを非難し、その場で信茂の処刑を命じた。享年44。
 鉄道唱歌には「川を隔てて聳ゆるは 岩殿山の古城蹟 主君に叛きし奸党の 骨また朽ちて風寒し」と詠われ、小山田信茂は「奸党」とまで蔑まれている。

小山田行村 小山田虎満

 小山田信茂の従弟といわれる。武田信玄の旗本衆であり、永禄12年(1569年)小田原城攻撃の際には同僚の初鹿野信昌と共に増水した酒匂川の渡河を達成する殊勲を挙げた。使番十二人衆、武田勝頼の代には中老職であったという。
 天正10年(1582年)、武田家滅亡に際しては甲斐国を脱出するものの、相模国道志川のあたりで織田の手の者に銃撃されて死亡した。 

 天文15年(1546年)5月、武田氏は晴信期に信濃侵攻を本格化させ、佐久郡内山城の大井貞清を攻め落としている。虎満の初見資料は『高白斎記』において同年7月条の記事で、「上原伊賀守」が武田晴信により内山城代に任命され、西上野口へ通じる佐久郡を確保している。『高白斎記』天文20年3月29日において、内山城代は前城主・貞清に交代し虎満は甲府へ帰還したが、同9月20日条では貞清が更迭され再び内山城代となっており、この際に石田小山田氏を継承し小山田備中守を称している。天文23年(1554年)7月には村上義清の監視のため、飯富虎昌とともに再び内山城に在番している。
 天文22年(1553年)1月には、信濃守護小笠原氏・村上氏の連携に対し、晴信は虎満に対し、村上方の本拠である葛尾城攻めに際した出陣を秘匿するため戸石城修築の虚報を流させている自筆書状を送っている。また、信濃国衆真田幸隆(幸綱)との取次も務めており、幸隆とともに軍事行動も行っている。
 永禄元年(1558年)には病重篤であったが辛うじて回復したとされ、真下家所蔵文書年未詳武田晴信書状では山本菅助が「当家宿老小山田」の見舞いを命じられており、これは虎満を指す可能性が考えられている。永禄7年(1564年)頃には出家し玄怡を名乗る。
 永禄10年(1567年)2月には嫡男・昌成(菅右衛門尉)への知行・同心衆の譲与を認められていることからこの頃に隠居したと考えられており、同年8月に生島足島神社へ奉納された起請文には虎満の名が見られず、以降は嫡男昌成が備中守を称している。
 虎満の終見文書は元亀3年(1572年)の武田家朱印状「柏木文書」で、没年は高野山蓮華定院過去帳から天正7年(1579年) 10月12日で、死去まで内山城代であったことも確認されている。
 『軍鑑』では、小山田備中守が築城した城は落城することがなく、信玄は城を築いた際には虎満を入城させる恒例を行っていたという逸話を記している。 

小山田昌成 小山田有誠

 虎満は天正7年(1579年)の死去まで内山城代を務めていることが確認されているが、永禄10年(1567年)には嫡男である菅右衛門尉(昌成)への知行・同心衆譲渡を認められており、この頃に虎満は隠居したと考えられている。昌成は2代目備中守を襲名しているが、虎満は高野山蓮華定院過去帳によれば、天正7年(1579年)10月12日に死去しているが、死去するまで備中守を称していることから、昌成の2代目襲名はこれ以降のことであると考えられている。
 昌成の活動が見られる文書は少ないが、天正3年(1575年)からは四点の龍朱印状の奉者として見られる。
 勝頼期の1582年(天正10年)3月には織田・徳川連合軍が信濃侵入を開始する。昌成は信濃伊那郡高遠城主・仁科盛信の相備衆として救援に向い、仁科盛信の副将として織田信忠率いる大軍に対して籠城し、盛信や弟の小山田大学助と共に討死した。(高遠城の戦い)

 甲斐都留郡倉見境領主。父・弾正が天文4年8月22日(1535年9月19日)の国中・郡内合戦で戦死すると、家督を継ぐ。都留郡谷村城主の小山田信茂の援護役をつとめた。
 弘治2年(1556年)、下吉田衆100余人が小林房実に対し訴訟を起こした際、有誠は房実に頼まれ訴訟の回避を試みるも失敗に終わる。永禄12年(1569年)に武田信玄の遠江・三河侵攻により深沢城が開城すると、有誠は深沢城の定番に任命された。天正10年(1582年)3月の甲州征伐で武田家が滅ぶと、有誠は子の茂誠と共に北条氏直に仕えた。同年秋に氏直の叔父である氏忠の命で武蔵鉢形城に移る。 

小山田茂誠 小野之知

 『長国寺殿御事蹟稿』によれば、茂誠は天正10年(1582年)の高遠城落城の際に21歳もしくは22歳であるとされ、生年は永禄4年もしくは永禄5年に推定されている。父・小山田有誠は小山田氏当主・信有(弥三郎)・信茂期に一門として活動し、天正10年(1582年)3月に武田氏・小山田氏が滅亡すると、後北条氏に従う。
 有誠のその後の動向は不明であるが、子息の茂誠は武田遺臣松代藩真田家の藩士となる。『松代小山田家文書』には天正3年(1575年)12月に「小山田平三」が「茂」字の偏諱を受けた一字書出が存在し、茂誠が小山田氏の当主・信茂から偏諱を受けたものと考えられている。有誠・茂誠は小山田弾正家の出自と考えられているが、茂誠は同じ武田家臣で郡内小山田氏とは別系統の石田小山田氏・小山田昌成の子孫を自称している。
 茂誠は武田氏滅亡後は相模国の後北条氏に仕え、天正18年(1590年)2月から7月の小田原合戦後に武田遺臣の真田昌幸に仕えたと考えられている。同年12月1日には、昌幸から信濃国小県郡村松郷(長野県青木村)を与えられる。茂誠は昌幸の長女・村松殿を室に迎え、真田一門となる。
 『長国寺殿御事蹟稿』によれば、慶長3年(1598年)3月には昌幸から受領名「壱岐守」を与えられ、さらに真田姓の名乗りも許される。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは昌幸に従い西軍に属し、上田城に籠城(第二次上田合戦)。関ヶ原の戦いで西軍が敗北すると、茂誠は昌幸の嫡男・真田信之の家臣となる。
 慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、病に臥せていた信之の名代の信吉・信政兄弟に従い、子・之知と共に従軍した。信之の弟の信繁とも親交があり、信繁から茂誠宛に出した近況を伝える手紙は、信繁が最後に出した手紙であったという。
 元和8年(1622年)、信之の松代移封に従い、松代に住し代々次席家老となった。寛永14年(1637年)に享年76もしくは77で死去。 

 父の小山田茂誠は甲斐都留郡の国衆・小山田氏の一門である境弾正家の出自であるが、後に武田家臣の石田小山田氏の小山田昌成の子孫を称している。茂誠は武田家臣時代に武田家臣であった真田昌幸娘と婚姻し、之知が誕生していたと考えられている。天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍の武田領侵攻により武田氏は滅亡する(甲州征伐)。小山田氏の当主・小山田信茂は武田氏から離反するが織田氏により処刑され、小山田氏も滅亡した。之知の生年は不明であるが武田氏が滅亡した際に小野村に身を隠したという伝承があり、事実とすればこれ以前の生まれとなる。
 父の茂誠は相模国の後北条氏に仕えた後に真田一門となる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて真田昌幸とともに西軍に属するが、西軍の敗北に伴い茂誠は昌幸嫡男の信之の家臣となる。慶長7年(1602年)2月18日、真田信之から「之」の字を与えられた。慶長11年(1606年)3月、父・茂誠とは別に100貫文の知行を与えられる。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣後、叔父の真田信繁との交流があり、父と同様に信繁から書状が送られている。
 元和8年(1622年)に信之の松代移封に従い、寛永5年(1628年)10月3日、知行969石を与えられた。この頃までに家督を相続した。
 寛永13年(1636年)に死去。法名は落葉一歩。墓所は長国寺。