<桓武平氏>高望王系

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平 将常 秩父武基

 治安3年(1023年)、武蔵介の藤原真枝が勅命に反し武蔵国にて兵を起こした。将恒は藤原真枝征伐の命を受けて相模・上総の兵を率いて豊島で戦い、藤原真枝は自害、将恒はこれを鎮圧した功で駿河・武蔵・上総・下総に領地を得たという。
 長元元年(1028年)、兄の平忠常が房総半島で大規模な反乱(平忠常の乱)を起こしたが、将恒はこれに加担せず、勢力を大きく減退させることはなかったと伝わる。
 武蔵国秩父郡において秩父氏を称し、将恒の子孫は秩父平氏として武蔵国各地に勢力を拡大した。長男・武基の生母は武蔵武芝の娘、次男・武常と3男・常任の生母は平忠通の娘とされる。
 前九年の役にて、51歳で戦死したと伝わる。 

 系図には「秩父別当」とあり、武蔵国の秩父牧、または国衙の別当を務めたと見られる。秩父郡石田牧は承平6年(933年)4月2日以降、勅旨牧となっている。史料上の牧と秩父平氏の関係は不明だが、軍事貴族の流れを汲む武基が現地の旧郡司を務める氏族と結びつき、牧の管理を行うことで秩父平氏が発展していったと考えられる。
 子の武綱は前九年の役・後三年の役に加わって先陣を務めている。

秩父武綱 秩父重綱

 前九年の役・後三年の役に加わり、源頼義・義家父子に従って戦った。『延慶本平家物語』『源威集』によれば、前九年の役の際、永承6年(1051年)、武蔵府中に逗留していた源頼義から「奧先陣譜代ノ勇士」に選ばれ、白旗を賜ったという。
 『源平盛衰記』によれば、後三年の役で武綱は勢揃坂から出陣し、源義家から白旗を賜って先陣を務め、清原武衡らを滅ぼしたとしている。武綱は、秩父郡吉田郷の鶴ヶ窪台地に居城・秩父氏館(吉田城)を構えて、広大な秩父牧を支配した。
 曾孫に畠山重忠,河越重頼,江戸重長など、源頼朝の平家追討に協力した坂東武者がいる。特に畠山重忠は、頼義・義家の子孫である源頼朝の挙兵にあたり当初敵対し、のちに帰伏する際、「平家は一旦の恩、源氏は重代の恩」と述べて武綱の白旗・白弓袋を差し上げて頼朝の陣営に赴き、秩父一族の参陣を許した頼朝は、先祖の故事にならって重忠に先陣を命じている。

 平将門の来孫にあたる。父は平武綱、母は源有光の長女で、後妻は源義平の乳母となっている。居住地は本貫地の武蔵国秩父郡吉田郷。官位は出羽権守。祖父・平武基が秩父別当となり、この重綱の代に在庁官人として実際に武蔵国で力を持つようになる。のちの鎌倉幕府の編纂書『吾妻鏡』によれば、子孫である畠山氏や河越氏が有した「武蔵惣検校留守所」は、重綱の代から代々秩父氏の家督が補任されてきたという。重綱の代には「大主」と呼ばれ、のちに国衙支配を確立していく中で惣検校職という名称が確立したと考えられる。出羽権守として出羽国の国司を務めている。
 子の畠山氏,河越氏の両者の家系では秩父氏の家督を巡る争いが続くことになる。

秩父重弘 小山田有重

 武蔵国で在庁官人を務める重綱の長男であったが、家督は弟の重隆が継いだ。重弘の嫡男・重能と重綱の後妻は、重隆の家督相続に不満を持ち、河内源氏の源義朝・義平親子と結んで大蔵合戦で重隆を討っている。秩父氏本拠の大蔵は畠山氏が獲得したが、秩父氏家督である留守所総検校職は重隆の家系が継いでる。
 重弘の家系は秩父氏庶流ながら、娘は千葉常胤に嫁いでおり、嫡男・重能の妻は三浦義明の娘で下総国・相模国の大族と婚姻関係を結び、義朝・義平父子が滅んだ後は積極的に平家と主従関係を結んで独自に勢力を伸ばした。

 

 武蔵国多摩郡から都筑郡にまたがる小山田保、また武蔵小山田荘を支配して小山田別当を称し、小山田氏の祖となる。
 院政期における動向は不明であるが、久寿2年(1155年)には源義朝の長男・義平が叔父の義賢と、有重・重能兄弟の叔父にあたる秩父重隆を殺害する大蔵合戦が発生している。大蔵合戦は秩父一族の主導権争いとしての性格も有し、『平家物語』に拠れば重能は義平方に属し、勢力を拡大している。
 有重の初見史料は『保元物語』で、保元元年(1156年)の保元の乱において、敗れた源為朝は父の為義に対し、合戦に参加しなかった三浦義明,小山田有重,畠山重能らと談合して関東において抵抗することを提案している。この三者はいずれも義朝方に近く、三者の立場を反映しているかの点は慎重視されている。また、保元の乱以前には源義朝・藤原信頼が立荘に携わった武蔵稲毛荘が成立しており、重能・有重兄弟も関わっていると考えられている。
 平治元年(1159年)、源義朝・藤原信頼は平治の乱において平氏に敗れ没落している。『平家物語』『愚管抄』に拠れば重能・有重兄弟は平氏の郎等と記されており、この頃には平氏方に帰属したと見られている。
 治承4年(1180年)8月の源頼朝挙兵では、兄・重能と共に大番役として在京しており、平家の忠実な家人として各地で戦った。有重の属する秩父氏は同年10月に頼朝に帰伏している。
 『吾妻鏡』(文治元年7月7日条)によると、一族が源氏方に付いたことから平家の棟梁・平宗盛に拘束されたが、平家の家人・平貞能のとりなしによって宇都宮朝綱と重能・有重は東国へ帰国したという。『平家物語』では一門都落ちの際に平知盛が、『源平盛衰記』では宗盛が重能・有重兄弟を諭して帰郷させたとしている。
 元暦元年(1184年)6月16日の頼朝による一条忠頼謀殺の際、御所に呼び出された忠頼の討手として献盃する役だった工藤祐経が動揺して顔色を変えた様子を見て、有重が座を立ち「このような席での御酌は年寄りの役割であろう」と言って祐経の持っていた酌を取った。子の重成,重朝も盃と肴を手にして忠頼の前に進み、有重は息子たちに「給仕の際の故実では、指貫は上括とするものだ」と訓戒を述べ、重成らが盃を置いて括を結んで忠頼の気を逸らせたところを、天野遠景が忠頼を斬った。
 これ以降の史料に有重の記録はなく、息子達への世代交代が行われたと見られる。東京都町田市下小山田町にある大泉寺は有重の館跡と伝えられ、境内に有重・行重父子と南北朝期の高家の三基の宝篋印塔がある。

稲毛重成 小沢重政

 当初、小山田重成を名乗る。父・有重は兄の畠山重能と共に秩父一族の争いである大蔵合戦において勢力を強め、保元の乱・平治の乱後に平家の郎党として在京した。治承4年(1180年)8月の伊豆における源頼朝挙兵では平家方として頼朝と敵対したが、同年10月、隅田川の長井の渡しにおいて、畠山重忠ら秩父一族と共に頼朝に帰伏し、御家人として東国に下向したと見られている。その後、頼朝の正室・政子の妹を妻に迎える。
 多摩丘陵に所在した武蔵稲毛荘は保元の乱以前に立荘され、重成は頼朝からこれを安堵され進出する。『吾妻鏡』において重成は榛谷御厨に進出した弟の重朝とともに「小山田」姓で呼ばれているが、寿永3年(1184年)以降には「稲毛」姓で呼ばれ、この頃に進出したと見られている。また、同荘の枡形山に枡形城を築城したという。
 『吾妻鏡』に拠れば、養和元年(1181年)、前年に所領として加えられた多磨郡の土地が、本来は平太弘貞の所有であることが発覚し、頼朝の怒りを受ける。『吾妻鏡』に拠れば、翌養和2年4月5日に頼朝が江ノ島参詣の帰路に金洗沢において催した牛王物に際して恩賞を賜っており、この頃には赦免したと見られている。文治3年(1187年)、弓術の行事に参加し、源頼朝より弓三張が下賜される。神鳥前川神社を創立。
 治承・寿永の乱においては秩父一族は畠山重忠,重成・重朝兄弟らが東国へ参陣しており、重成は重朝とともに寿永3年(1184年)正月の木曾義仲追討において宇治方面を進んだ源範頼の軍に加わっており、続く 一ノ谷の戦いにおいても活躍している。
 文治元年(1185年)10月、頼朝の弟・義経は後白河法皇と結び頼朝に反旗し、同年11月12日には義経の舅である河越重頼が所領を没収され殺害されている。これにより秩父氏の家督は畠山重忠が継承し、重成の立場も向上したと見られている。文治5年(1189年)7月には、重朝とともに義経を匿った奥州藤原氏の討伐に参陣する。建久元年(1190年)の頼朝上洛に供奉。
 建久6年(1195年) 6月、 頼朝の再上洛に随行し、その帰路、美濃国で妻の危篤を知る。頼朝から駿馬が下賜され急ぎ本領へもどる。同年7月、妻の病没を悲しみ出家して法名を道全と名乗った。以降、稲毛入道,小沢入道と呼ばれる。建久9年(1198年) 、重成は亡き妻のために相模川に橋をかけ、その橋の落成供養に出席した頼朝が帰りの道中で落馬し、それがもとで死去している。
 元久2年(1205年)6月22日、畠山重忠の乱が起こり、北条時政の謀略によって従兄弟の重忠が滅ぼされると、その原因は重成の謀略によるもので、重成が舅の時政の意を受けて無実の重忠を讒言したとされ、翌23日、三浦義村によって弟の榛谷重朝、その子・太郎重季、次郎秀重が謀殺され、重成は大江戸行元によって殺害された。子の小沢重政は宇佐見祐村に討たれた。
 11月3日、一族の小沢信重が乳母夫を務める2歳の姫を伴って京から鎌倉を訪れる。姫は源師季(綾小路師季)と重成の娘の間の子で、北条時政の外曾孫であった。重成の災禍を恐れて隠れ住んでいたが、哀れんだ政子が綾小路の姫を自身の猶子として、重成の遺領武蔵国小沢郷を与えた。また、一族の大半が讃岐に落ち、現在の香川県まんのう町には稲毛姓が残っている。
 墓所は神奈川県川崎市多摩区の館跡と伝わる広福寺にある。

 小沢城城主とされる。弓矢に優れ、建仁元年(1201年)1月12日、幕府の的初めの儀に叔父の榛谷重朝とともに一番射手となる。
 元久2年(1205年)6月23日、北条時政の謀略によって同族の畠山重忠が畠山重忠の乱で滅ぼされると、その翌日、重忠の誅殺は父・重成の陰謀であるとされ、三浦義村が経師谷入口で秩父一族の榛谷重朝とその子息らを謀殺し、重成は大河戸行元に殺害され、重政は宇佐美祐村に殺された。

棒谷重朝 渋谷重家

 伊勢神宮の荘園(御厨)・榛谷御厨の支配を任され、榛谷四郎と称した。本拠地は二俣川。
 治承4年(1180年)10月、秩父一族は挙兵した源頼朝に帰伏して御家人となる。養和元年(1181年)4月、重朝は頼朝の寝所を警護する11名の内に選ばれた。弓馬に優れた重朝は頼朝に従って犬追物・牛追者・小笠懸などを行い、正月の的始(弓始め)の射手を度々務める。元暦元年(1184年)2月、源範頼率いる源義仲・平氏追討軍に従い、一ノ谷の戦いに参加。文治5年(1189年)7月の奥州合戦に従軍し、毎日、頼朝の乗馬を洗ったという。
 頼朝没後の正治元年(1199年)10月、梶原景時の変に加わり、建仁(1203年)9月の比企能員の変で比企一族討伐軍に参加。
 元久2年(1205年)6月23日、畠山重忠の乱において、従兄弟の重忠謀殺に荷担したとして咎めを受け、鎌倉の経師谷で子の重季,秀重と共に三浦義村に討たれて榛谷氏は滅亡する。

 『金王八幡神社社記』によると、重家は京都の禁裏で守衛を務めた際に、賊徒の渋谷権介盛国を捕らえ、その功により渋谷姓を与えられて、渋谷土佐守従五位下に任じられたという。また、重家の父・基家の時に谷盛庄(渋谷区)を領したとされており、重家が与えられた渋谷という姓がその所領の地名となったという説がある。
 この他『社記』には、重家が八幡宮に祈ったことで、永治元年(1141年)に子の金王丸(のちの土佐昌俊)を授かったとある。重家の子としては、渋谷重国がいる。重国は相模国高座郡渋谷荘に住み、渋谷庄司を名乗った。現在の東京都の渋谷の地名は、重国の支族が移り住んだことに由来するという説もある。

渋谷常光(金王丸)

 金王八幡宮の境内には,金王丸御影堂があり,そこには金王丸の木像や遺品が納められているという。由緒によれば、渋谷氏の出である金王丸は、源義朝のそば近くに仕えていたらしい。義朝の非業の死に際し、その死を常盤御前に伝えるなど、常盤とその子供たちとの関わりも深かったのではないかと思われる。そして、義朝の霊を弔うために出家し、土佐坊昌俊と称したのだとか。それが、やがて頼朝の命によって,常盤の子・義経を討つことになる。けれども義朝と常磐の子を討つに偲びなかったのか、堀川にある義経の館に攻め入ったものの討ちとることはせず、逆に捕らえられ、従容と死についたと、そういう伝承もある。その辺の葛藤が、浄瑠璃などの題材となり、語り継がれ、歴史画の画題ともなってきたのだろう。
 金王八幡宮の由緒は、堀川の館に攻め入った土佐坊昌俊を渋谷館で生まれた金王丸と同一人としている。