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平 将常 | 秩父武基 |
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治安3年(1023年)、武蔵介の藤原真枝が勅命に反し武蔵国にて兵を起こした。将恒は藤原真枝征伐の命を受けて相模・上総の兵を率いて豊島で戦い、藤原真枝は自害、将恒はこれを鎮圧した功で駿河・武蔵・上総・下総に領地を得たという。 |
系図には「秩父別当」とあり、武蔵国の秩父牧、または国衙の別当を務めたと見られる。秩父郡石田牧は承平6年(933年)4月2日以降、勅旨牧となっている。史料上の牧と秩父平氏の関係は不明だが、軍事貴族の流れを汲む武基が現地の旧郡司を務める氏族と結びつき、牧の管理を行うことで秩父平氏が発展していったと考えられる。 |
秩父武綱 | 秩父重綱 |
前九年の役・後三年の役に加わり、源頼義・義家父子に従って戦った。『延慶本平家物語』『源威集』によれば、前九年の役の際、永承6年(1051年)、武蔵府中に逗留していた源頼義から「奧先陣譜代ノ勇士」に選ばれ、白旗を賜ったという。 |
平将門の来孫にあたる。父は平武綱、母は源有光の長女で、後妻は源義平の乳母となっている。居住地は本貫地の武蔵国秩父郡吉田郷。官位は出羽権守。祖父・平武基が秩父別当となり、この重綱の代に在庁官人として実際に武蔵国で力を持つようになる。のちの鎌倉幕府の編纂書『吾妻鏡』によれば、子孫である畠山氏や河越氏が有した「武蔵惣検校留守所」は、重綱の代から代々秩父氏の家督が補任されてきたという。重綱の代には「大主」と呼ばれ、のちに国衙支配を確立していく中で惣検校職という名称が確立したと考えられる。出羽権守として出羽国の国司を務めている。 |
秩父重弘 | 小山田有重 |
武蔵国で在庁官人を務める重綱の長男であったが、家督は弟の重隆が継いだ。重弘の嫡男・重能と重綱の後妻は、重隆の家督相続に不満を持ち、河内源氏の源義朝・義平親子と結んで大蔵合戦で重隆を討っている。秩父氏本拠の大蔵は畠山氏が獲得したが、秩父氏家督である留守所総検校職は重隆の家系が継いでる。
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武蔵国多摩郡から都筑郡にまたがる小山田保、また武蔵小山田荘を支配して小山田別当を称し、小山田氏の祖となる。 |
稲毛重成 | 小沢重政 |
当初、小山田重成を名乗る。父・有重は兄の畠山重能と共に秩父一族の争いである大蔵合戦において勢力を強め、保元の乱・平治の乱後に平家の郎党として在京した。治承4年(1180年)8月の伊豆における源頼朝挙兵では平家方として頼朝と敵対したが、同年10月、隅田川の長井の渡しにおいて、畠山重忠ら秩父一族と共に頼朝に帰伏し、御家人として東国に下向したと見られている。その後、頼朝の正室・政子の妹を妻に迎える。 |
小沢城城主とされる。弓矢に優れ、建仁元年(1201年)1月12日、幕府の的初めの儀に叔父の榛谷重朝とともに一番射手となる。 |
棒谷重朝 | 渋谷重家 |
伊勢神宮の荘園(御厨)・榛谷御厨の支配を任され、榛谷四郎と称した。本拠地は二俣川。 |
『金王八幡神社社記』によると、重家は京都の禁裏で守衛を務めた際に、賊徒の渋谷権介盛国を捕らえ、その功により渋谷姓を与えられて、渋谷土佐守従五位下に任じられたという。また、重家の父・基家の時に谷盛庄(渋谷区)を領したとされており、重家が与えられた渋谷という姓がその所領の地名となったという説がある。 |
渋谷常光(金王丸) | |
金王八幡宮の境内には,金王丸御影堂があり,そこには金王丸の木像や遺品が納められているという。由緒によれば、渋谷氏の出である金王丸は、源義朝のそば近くに仕えていたらしい。義朝の非業の死に際し、その死を常盤御前に伝えるなど、常盤とその子供たちとの関わりも深かったのではないかと思われる。そして、義朝の霊を弔うために出家し、土佐坊昌俊と称したのだとか。それが、やがて頼朝の命によって,常盤の子・義経を討つことになる。けれども義朝と常磐の子を討つに偲びなかったのか、堀川にある義経の館に攻め入ったものの討ちとることはせず、逆に捕らえられ、従容と死についたと、そういう伝承もある。その辺の葛藤が、浄瑠璃などの題材となり、語り継がれ、歴史画の画題ともなってきたのだろう。 |