<桓武平氏>高望王系

H456:大須賀胤信  桓武天皇 ― 平 高望 ― 平 忠常 ― 千葉常重 ― 大須賀胤信 ― 君島嗣胤 H458:君島嗣胤

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君島嗣胤 君島胤時

 大須賀胤信の8男・成毛範胤は宝治元(1247)年6月の宝治合戦では、正室が三浦一族・津久井泰行の娘であったことから、三浦氏に荷担して北条氏と敵対。6月5日の法華堂の戦いで敗れ、逐電した。その後、鎌倉を出奔して宇都宮頼綱を頼って「小田備中守藤原嗣胤」を称したというが、この時代、受領名を名乗ることが許されていたのは幕府上層部など一部に限られていたので不審がある。また、6月13日、「大須賀八郎左衛門尉範胤」は捕らわれているので、彼が逐電したまま鎌倉を出奔したというのも疑問である。おそらく、宇都宮頼綱に預けられることになったのでは。そのまま彼は宇都宮家の家ノ子となったのかもしれない。
 範胤はのちに、下野国芳賀郡君嶋村(真岡市君島)に住んで「君島」を名乗り、名も範胤から嗣胤と改名したという。嗣胤は弘長(1261)元年8月7日、58歳で亡くなった。これ以降、君島氏は下野国に定住し、代々宇都宮氏などと縁組みを重ねて強固な地盤を築き、黒磯方面まで勢力を持った。君島の地には星宮神社が祀られている。 

 胤時は、建武2(1335)年11月、中先代の乱を鎮圧したものの、後醍醐天皇の帰京の勅に背いて鎌倉にこもった足利尊氏を討つため、新田義貞が鎌倉に派遣された。このとき、胤時は新田勢に加わって、三河国矢作川の矢合せで功があり、義貞から感状を受けた。その後、正六位下・備中守に任じられている。しかし、その後は足利尊氏に寝返っている。 
君島綱胤 君島高胤
 綱胤は宇都宮高綱のもと、足利尊氏方として活躍した。綱胤は合戦上手で知られ、観応2(1351)年の駿河薩山の戦いで功績を挙げ、尊氏から感状を賜っている。しかし、同年12月の上野国那和郡の戦いで、足利直義方の桃井直常,長尾左衛門尉との戦いで戦死した。33歳。 

 宇都宮氏に仕えて、永禄年中、結城晴朝との合戦に出陣し猿山で功を挙げた。このとき、赤埴綱雄,赤埴綱安,塙大膳,竹林淡路守らも先鋒として功を挙げている。天正13年 (1585年)、壬生上総守(介?)義雄,壬生大門左衛門,鹿沼綱勝らが北条氏直に与して謀叛を企てた。高胤は玉井高宗,玉井権大夫,加藤大隅守らと千本城に拠って、壬生義雄らの勢を妨げ、日河合戦において功を挙げている。
 その後、益子紀七郎が北条氏の誘いで反逆、宇都宮国綱は高胤を将としてこれを追討させ、高胤はその功により益子城を賜った。高胤の子・家宗は益子氏の跡を継ぎ、天正17年(1589年)、芳賀高武,多功綱継,笠間綱家,塩谷由綱らと密かに謀った宇都宮国綱に攻められ、かなわず討死、家宗の代で益子氏は滅亡した。
 天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原北条氏攻めの軍が起された。宇都宮国綱をはじめ、佐竹義宣,同東中務らは小田原に参陣し、後詰めの軍となった。高胤も芳賀成高とともにこれに従って軍功を挙げ、小田原開城後に秀吉から感状を賜っている。
 豊臣大名の一員となった宇都宮国綱は、文禄元年(1592年)の朝鮮出兵にも出陣して、釜山において戦功をあげた。ところが、浅野長政による太閣検地の結果、所領申告に不正があったと摘発され、慶長2年(1597年)9月、突如、秀吉の命によって改易の処分を受けた。この背景には、長政からその子・長重を嗣子にという提案を拒否したため、それを恨んだ長政が仕返しをしたのだという。いずれにしろ、宇都宮氏は改易となり、君島氏ら家臣も離散の運命となった。

君島永胤

 下野国塩谷郡船生城主。君島高胤の嫡男として誕生。父・高胤が慶長2年(1597年)6月15日に没すると家督を継ぎ船生城主となるが、同年10月13日に主君・宇都宮国綱が改易されると、自身も流浪の身となり、その年に生まれたばかりの国綱の次男・則綱に、川上通正(あるいは川上通茂)と共に従い那須の地に移り住んだ。
 則綱が13歳で没すると、那須の地を離れ、塩原邑茗荷里に移り住み、茗荷君島氏の祖となる。寛永15年(1638年)8月23日、死去。