<桓武平氏>高望王系

H502:三浦義明  平 高望 ― 平 将常 ― 平 忠通 ― 三浦義明 ― 杉本義宗 H507:杉本義宗


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杉本義宗 和田義茂
 衣笠城からより鎌倉に近い場所に拠点を作ることを考え、三浦半島を出て鎌倉郡杉本郷に居を構えて杉本城を築城した。同地は三浦氏の勢力下で六浦道を抑える要衝であった。長寛元年(1163年)秋、三浦氏の勢力が及ぶ安房国に水軍率いて出陣し、長狭常伴と合戦に及び待ち構えていた長狭勢からの矢傷が原因で杉本城内で亡くなった。享年39。その後、義宗の長子・和田義盛は三浦郡和田郷に拠点を構え、義宗の次男・義茂が入城し杉本の家督と城を守った。  武芸に優れ、弓の名手。治承4年(1180年)、挙兵した頼朝と合流しようとした三浦一族は鎌倉の由比ヶ浜で平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇。和平が成立しかけたが、遅れて来て事情を知らない義茂が畠山勢に討ちかかってしまい、これに怒った畠山勢が応戦して合戦となっている(小坪合戦)。養和元年(1181年)4月には、頼朝の寝所を警護する11名の内に選ばれた。同年、足利俊綱追討を命じられ下野国に出陣している。
高井茂実 杉本宗実
 越後国奥山荘北条の地頭。正慶2年/元弘3年(1333年)2月、所領を安堵され、新田義貞の庇護を受ける。建武3年/延元元年(1336年)、足利尊氏に従い、下野権守に任命され南朝方と戦う。

 治承・寿永の乱では源範頼に従い、西海に出陣し平氏と戦う。
 文治5年(1189年)の奥州合戦に出陣。建久元年(1190年)と同6年(1195年)の頼朝上洛にも従う。建久3年(1192年)には軍功を賞され越後国奥山荘の地頭となる。
 男子がなかったため、娘婿で甥の高井重茂が宗実の後を継いだが、建暦3年(1213年)の和田合戦において和田一族の中でただ1人北条方に付き、従兄弟の朝比奈義秀に討たれている。

和田胤長 和田荒鵑

 弓の名手と伝わる。建暦3年(1213年)、従兄弟で和田義盛の子である義直,義重らと共に泉親衡の乱の謀議に加わり、捕縛された。このとき義盛の嘆願により義直,義重は赦免されたが、胤長一人だけ赦されず、陸奥国岩瀬郡に配流となった。
 没収された胤長の屋敷は一旦は義盛が拝領することとなったが、北条義時の反対に遭い、結局は北条氏の預かりとなったため、面目を潰された義盛は北条氏を打倒する意思を固め、同年の和田合戦へと繋がる。胤長は和田合戦の後、配流地で処刑された。享年31。
 静岡県伊東市の大室山に胤長が大蛇を退治したという伝説が残っている。

 建暦3年3月17日(1213年4月9日)、泉親衡の乱に連坐した父・胤長は陸奥国岩瀬郡に配流された。3月21日(4月13日)、父に会えなくなった悲しみから病になってしまった荒鵑がついに危篤となったため、胤長と似ていたはとこの和田朝盛が帰ってきたということを父と偽って伝えると、彼女は少し目を開けてその姿を微かに見て、ついに目を閉じて亡くなったという。このとき6歳、その日の夜に火葬された。27歳の母はこれを機に出家したという。
 この荒鵑の死は、和田合戦に至るまでの和田氏の悲劇の一つとしてしばしば取り上げられている。