<桓武平氏>高望王系

H507:杉本義宗  平 高望 ― 平 将常 ― 三浦忠通 ― 三浦義明 ― 杉本義宗 ― 和田義盛 H508:和田義盛


リンク
和田義盛 和田常盛

 和田氏は坂東八平氏の一つ三浦氏の支族で、相模国三浦郡和田の里、あるいは安房国和田御厨に所領があったことから和田を姓とする。
 治承4年(1180年)8月22日、三浦氏は伊豆国で平氏打倒の挙兵をした源頼朝に味方することを決め、頼朝と合流すべく義明の子・三浦義澄以下500余騎を率いて本拠の三浦半島を出立した。義盛と弟の小次郎義茂もこの軍勢に参加している。しかし、頼朝軍に合流する前に、23日夜、大庭景親は石橋山の戦いで頼朝軍を撃破し、頼朝は行方知れずとなる。やむなく三浦勢は三浦半島へ兵を返すが、26日には、畠山重忠ら数千騎で三浦氏の本拠・衣笠城を襲い、祖父・三浦義明は一人城に残って奮戦して討ち死にした(衣笠城合戦)。
 義盛ら三浦一族は海上で頼朝の舅・北条時政らと合流。29日に安房平北郡猟島で頼朝を迎えた。
 9月、安房に集結した頼朝方の残党は再挙を図り、各地の武士に参陣を命じた。その内でも有力な千葉常胤には安達盛長が、上総広常には義盛が使者となった。
 その後、頼朝のもとには多くの軍勢が集まり、頼朝は関東の固めに入る。11月に常陸国の佐竹氏を討ち、義盛と広常は佐竹秀義を生け捕りにした。11月17日に鎌倉へ凱旋し、そこで関東統治のための諸機関を設置。義盛はかねてから希望していた侍所別当に任じられた。12月、鎌倉大倉の地に頼朝の御所が完成し、その入御の儀式に際し、義盛は居並ぶ御家人の最前に立った。
 元暦元年(1184年)8月、頼朝の弟の範頼が平家追討のため1,000余騎を率いて鎌倉を発向した。侍所別当の義盛は軍奉行としてこの軍勢に従軍している。
 建久元年(1190年)9月、頼朝の上洛に際して義盛は先陣を賜った。12月1日、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれて参院の供奉をした。さらに、これまでの勲功として頼朝に御家人10人の成功推挙が与えられた時、その1人に入り左衛門尉に任ぜられる。
 建久3年(1192年)、侍所別当職を梶原景時と交代。『吾妻鏡』によれば、景時が「一日だけでも」と義盛に頼み、所領へ帰る暇のついでに職を預けたが、景時の奸謀によってそのまま奪われてしまったという。
 建暦3年(1213年)2月、義盛が上総伊北荘に下っている最中に、泉親衡が頼家の遺児(栄実)を擁立して北条氏を打倒しようとする陰謀が露見(泉親衡の乱)。関係者の自白から義盛の子の義直,義重,甥の胤長の関与が明らかにされた。
 3月、義盛は鎌倉へ戻って実朝に子や甥の赦免を願い出て、子は許されるが、甥の胤長のみは張本人であるとして許されなかった。助命嘆願に訪れた和田一族90人が控える将軍御所の南庭で胤長は縄で縛られて引き立てられ、和田一族に大きな恥辱を与えた。17日、胤長は陸奥国へ配流となり、鎌倉の邸は没収され、その6歳の娘は悲しみから病となり同21日に亡くなった。義盛は罪人の屋敷は一族に下げ渡される慣わしであるとして自分に賜るよう求めた。この願いは聞き届けられるが、そのすぐ後に義時は乱の平定に手柄のあった自身の家人・金窪行親と安東忠家に胤長旧邸を下げ渡してしまった。
 重ね重ねの、この義時の挑発に対して、義盛は横山党や反北条派を誘い挙兵を決意する。鎌倉では流言飛語が飛び、騒然とした。4月27日、憂慮した実朝は使者を義盛の邸へ送った。使者に対して、義盛は「上(実朝)には全く恨みはございませんが、相州(義時)のあまりの傍若無人について仔細を訊ねるべく若い者たちが用意しており、私は何度も諫めているのですが聞き入れようとしません。すでに一味同心しており、もはや私の力は及びません」と答えた。
『明月記』建暦3年5月9日条には、去る春に謀反(泉親衡の乱)を起こした者が結集しているとの風聞・落書があり、首謀者は義盛である。そこで義盛は自ら弁明し、実朝の許しを得た。しかし御所では義盛粛清の密議が行われていた。その動きを察した義盛はさらに兵を集め、謀反の計画を立てたとある。『保暦間記』には義盛の息子たちが頼家遺児の擁立を謀り、義盛もそれに同意したことから合戦となったとしている。
 挙兵に際して最も頼りにした本家三浦氏の当主・義村は、挙兵への同心を約束したが、変心して義盛謀反を義時に通報した。『明月記』は義盛と義村がそれ以前から対立関係にあったとしており、義村は当初から義時に内通していた可能性が高い。『愚管抄』からは、叔父・三浦義澄死後の三浦一族の家長は、義盛と見ていたと思われる。
 5月2日、義盛は一族と共に挙兵。鎌倉で激しい市街戦が展開された。武勇で知られる和田一族は奮戦し、中でも3男の朝比奈義秀は最もめざましく戦った。だが、義時方には新手が次々に到着し、夜までに和田一族も疲れ、由比ヶ浜へ後退して援軍を待った。翌3日朝、横山党が到着し、その他の味方も到着して、再び勢いを盛り返した。和田方が意外な大軍になりつつあるのを恐れた義時と大江広元は将軍実朝の名で御教書を発する。これに多くの御家人が応じ、実朝の命を受けた幕府軍は大軍となって押し返した。夕刻までに和田一族は次々と討たれ、そのうち愛息・義直も討ち死にし、老いた義盛は声をあげて悲嘆号泣した。そこへ大江義範の郎党が襲いかかり、遂に討ち取られた。享年67。子の義重,義信,秀盛は討ち死にするが、常盛,朝比奈義秀,孫の朝盛らは戦場を脱して落ち延びた。
 鎌倉では八幡宮三の鳥居近くの小町通り側、現在の鎌倉彫椿堂の辺りに邸宅があった。義盛が戦死した由比ヶ浜には、現在でも「和田塚」という供養塚と地名が残っている。
 弓の名手であり、武勇において御家人の尊敬を受ける人物であった。侍所別当としては、西国遠征の際には真っ先に東国へ帰ろうとしたり、鎌倉内で三浦氏と足利氏が争った際に、仲裁にあたるべき立場でありながら三浦方に加わるなど、職務に対して思慮に欠ける面があった。和田合戦ではその単純・愚直さを北条義時に利用され、挑発を受けて挙兵に追い込まれる結果となった。

 弓の名手だったと伝わり、鎌倉幕府将軍・源頼家,実朝に仕えた。建仁3年(1203年)の比企能員の変には父・義盛と共に追討軍に参加した。
 建暦3年(1213年)の和田合戦において一族と共に戦うが、敗れて甲斐国へ逃れ、横山時兼らと共に自害した。享年42。

 

朝比奈義秀 金窪義直

 安房国朝夷郡に領地としたことで朝比奈を苗字とする。朝比奈氏(和田氏一族)の当主。
 正治2年(1200年)9月、小壺の浜で2代将軍・源頼家が若い御家人たちとともに笠懸をし、船を出して酒宴を催していたとき、水練の達者と聞き及ぶ義秀にその芸を見せるよう命じた。義秀は海に飛び込み、10回往還し、次いで海の底へ潜り、三匹の鮫を抱きかかえて浮かび上がり、その大力を示した。頼家がその技を賞して奥州産の名馬を賜おうとすると、この馬はかねてより兄の常盛が所望していたものなので、義秀と常盛が浜で相撲の対決をすることになった。双方大力で容易に勝敗は決しなかったため、北条義時が間に入って引き分けさせたが、常盛は衣を着替える間もなく馬に飛び乗って去ってしまった。義秀は大いに悔しがり、その座にいた者たちは大笑いした。
義秀の大力については、鎌倉の朝夷奈切通(朝比奈切通し)は義秀が一夜で切り開いたものという伝説もある。
 建暦3年(1213年)5月2日、度重なる執権北条義時の挑発に対し、父・義盛は挙兵を決意。和田一族150騎を率いて鎌倉の将軍御所を襲撃した。『吾妻鏡』によると、この合戦でもっとも活躍したのが義秀であった。義秀は惣門を打ち破って南庭に乱入。防戦にあたった御家人の五十嵐小豊次,葛貫盛重,新野景直,礼羽蓮乗らを次々に斬り伏せ、「神の如き壮力をあらわし、敵する者は死することを免れず」と称賛された。御所を守る御家人に従兄弟の高井重茂(義盛の弟・義茂の子)がいた。一族同士雌雄を決することを望み、弓を捨てて馬上組みあい、双方落馬しながら格闘し遂に重茂を討ち取った。そこへ北条朝時(義時の子)が斬りかかるが、義秀はものともせずに打倒し、朝時は負傷してかろうじて退いた。
 その後、政所前の橋で義秀は足利義氏(義時の甥)と遭い、義秀は逃がさずと鎧の袖を掴み、義氏は敵わずと逃げ、鎧の袖を引きちぎられながらも馬上の達者なために辛うじて落馬せず走り、そこへ鷹司官者(野田朝季)が遮り、義秀はこれを殺したが義氏は逃してしまった。義秀の奮戦があったものの、和田勢は疲労し由比ヶ浜へ退いた。翌3日、横山党の来援を得た和田勢は若宮大路へ押し出し、幕府軍と激戦した。義秀はこの日も奮戦し、陣へ討ちかかってきた鎮西の住人・小物資政を討ち取り、土屋義清,古郡保忠と3騎轡を並べて敵陣に突入し、幕府軍を攻め立て追い散らした。だが、幕府軍は大軍で新手を次々繰り出し、和田勢は疲弊し、次第に数を減らし、ついに弟の義直が討たれ、愛息の死を嘆き悲しみ大泣きした義盛も討ち取られた。一族の者たちが次々と討ち死にする中、剛勇の義秀のみは死なず船6艘に残余500騎を乗せて所領の安房国へ脱出した。
その後の消息は不明。『和田系図』では高麗へ逃れたとしている。
 『源平盛衰記』では木曾義仲滅亡後、義仲の愛妾であった女武者巴御前が鎌倉へ下り、義盛があのような剛の者に子を産ませたいと頼朝に申し出て、巴を娶ったのち朝比奈義秀が生まれたとしている。しかし『吾妻鏡』の記録によると義仲滅亡時に義秀はすでに9歳になっており、巴が義秀の母というのは年齢的にありえず、物語上の創作と見られる。また、義盛が巴を妻としたとするのも『源平盛衰記』のみで、『吾妻鏡』や『平家物語』にも見られない話である。義秀は天下無双の大力と称され、鎌倉朝比奈峠を一夜で切通したという伝承をもつ豪傑であるから、その豪傑の義秀と、勇婦の巴を結び付けたのであろう。このような伝承が生じた背景を案ずれば、和田義盛は、侍別当として屋敷に罪人を預かる牢屋を備えていたから、巴を三浦の自館に預かっていた可能性も考えられる。

 建暦3年(1213年)、弟の義重と従兄弟の胤長と共に泉親衡の乱の企てに加担する。同年2月、企てが発覚すると、伊東祐長のもとで禁固に処されるが、父・義盛の嘆願により北条義時の同意の上、弟の義重と共に赦免されるが、胤長は赦されず、陸奥国岩瀬郡へ配流となった。この幕府の裁断に不満を持った義盛は一族を集め挙兵(和田合戦)。義直は5月3日に伊具盛重に討ち取られた。享年37。
 高知県土佐郡土佐町和田には和田義直が生き延びて当地に辿り着いたという伝承がある。その伝承によると、建保4年(1216年)に讃岐国和田浜に下向して、その地に7年住んだ後、土佐国に移住した。その地の土佐和田氏は義直の子孫を称して、戦国時代の和田義清,和田義光親子らは長宗我部氏に従った。

和田業繁 和田信業

 和田氏は山内上杉氏配下の国衆であり、伯父かつ義父である長野業正率いる箕輪長野氏の同心であった。父は天文15年(1546年)7月に戦死し、その後、家督を継いだとみられる。当初は関東管領・上杉憲政に仕えていたが、同21年(1552年)3月に憲政が後北条氏との抗争で越後国に逃亡した後は長野業正と共に北条氏康に従った。永禄3年(1560年)8月に憲政を擁した長尾景虎(上杉謙信)が関東侵攻を開始すると箕輪長野氏と共に上杉方に従い、『関東幕注文』では箕輪衆の一員として「和田八郎」の名前で存在が確認できる。この際に上杉氏に弟を人質として提出している。その後の翌4年(1561年)11月に武田氏は西上野侵攻を行い、業繁は翌5年(1562年)5月までに武田氏に従属している。
 業繁は永禄5年(1562年)12月までの間に甲府に参府し、本来は妻子・従類を信濃へ移すべきところを和田城周辺の情勢が不安定であることや和田氏そのものに被官が不足していることから、老母を人質に出すことで了解を得ている。『甲陽軍鑑』によると和田氏の軍役は30騎となっており上野先方衆の中では下から三番目に少なく、当初の和田城の規模も国衆としての規模も小さいものであったと考えられる。しかし和田城が上杉方の厩橋城や箕輪長野氏の箕輪城に対して最前線に位置する要地であったこともあり、信玄の支援で和田城への武田氏譜代家臣の常駐,城郭の強化,武器・食糧の充実,有事における援軍の派遣など様々な便宜が図られることになった。また、上杉氏に提出した人質の弟も武田氏による人質返還交渉により帰還した。上野に度々侵攻した上杉謙信も和田城の攻略を狙い、永禄6年(1563年)閏12月から翌年4月までに断続的に攻撃を行い、同8年8月にも攻撃を行った。しかし、武田氏による改修により和田城が堅固なものとなったため、攻略することができなかった。永禄9年(1566年)に箕輪城が武田氏によって攻略され、武田氏による西上野支配が安定すると、和田城周辺の情勢も安定し、武田氏譜代家臣の常駐などの事実も見られなくなる。
 永禄11年(1568年)末から武田氏と後北条氏の抗争が発生すると上杉方に離反の動きをみせ、元亀元年(1570年)頃に謙信宛に差し出した書状も存在する。しかし結局武田氏の元に残留した。信玄が死去すると引き続き武田勝頼幕下の先方衆となり、天正2年(1574年)7月には駿河・遠江方面への出陣の功賞として遠江国山口(現・掛川市)にて500貫文を与えられている。翌3年(1575年)の長篠の戦いでは、籠城する長篠城を俯瞰できる対岸の君が臥床砦に布陣したが、5月21日、徳川方の酒井忠次の奇襲に遭遇して戦死した。跡を婿養子・信業(跡部勝資の子)が継いだ。 

 永禄3年(1560年)、甲斐国甲斐武田氏の譜代家老である跡部勝資の子として生まれる。
 武田氏の上野国西部への侵攻に際しては、上野の国人で和田城主・和田業繁の婿養子となり、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで業繁が戦死したため、家督を継いだ。業繁の戦死の直前に領内の清水寺に「八郎信業」名義で諸役免除を認める文書を業繁に代わって発給されており、「八郎」は和田氏嫡男代々の名乗りとみられていることから、業繁の生前から後継者として位置づけられていたとみられている。上野の一国衆に過ぎなかった和田氏は、武田氏重臣の子を当主に迎えたことで武田家中において譜代の家臣並みの位置づけを得たとみられている。
 天正10年(1582年)3月、甲州征伐で武田氏が滅亡するのに先立ち北条氏直に属したが、後に上野は織田信長の家臣・滝川一益が領有したため、織田氏の家臣となった。しかし6月の本能寺の変で信長が死去し、滝川一益も神流川の戦いで敗走したため、再び北条氏直の家臣となり、後北条氏では他国衆として遇された。後北条氏配下になった後も重んじられ、上野の国衆ではそれ以外には由良国繁にしか認められていなかった朱印の使用が許されている。天正18年(1590年)の小田原征伐では後北条方に与して小田原城に籠もったため、戦後に没落した。
 以後は各地を放浪し、最終的には近江国武佐において元和3年(1617年)9月29日に死去。享年68。また、小笠原忠政に仕えたとする説もある。
 嫡男・業勝が跡を継ぎ、その子孫は会津若松藩主・保科氏の家臣として仕えた。