<桓武平氏>高望王系

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三浦義村 矢部禅尼

 治承4年(1180年)、源頼朝の挙兵に当たり、父・義澄は東胤頼とともに決断を促したともされ、史料にはみえないものの義村も当然参加していたものとされている。
 寿永元年(1182年)には、頼朝の妻・政子の安産祈願の祈祷のため、安房『東條庤明神』へ奉幣使として遣わされた。建久元年(1190年)に右兵衛尉に任官される。正治元年(1199年)の梶原景時の変では中心的役割を果たし、元久2年(1205年)の畠山重忠の乱でも討伐に参加。その後、無実の重忠を陥れたとして、稲毛重成,榛谷重朝を殺害した。
 建暦3年(1213年)には従兄弟で侍所所司であった和田義盛と北条氏打倒で結ぶが、これを直前で裏切って北条義時に義盛の挙兵を告げ、義盛は敗れて和田氏は滅ぶ(和田合戦)。大きな策謀には関わっており、幕政での地位を向上させることに腐心している。建保6年(1218年)、侍所所司に就任した。
 建保7年(1219年)1月27日、公暁(源頼家の子)が3代将軍・源実朝を暗殺する。公暁は義村に対し挙兵を求めるが、義村は逆に討手を差し向けた。待ちきれなくなった公暁が義村宅に行こうと裏山に登ったところで討手に遭遇し、激しく戦って振り払い、義村宅の塀を乗り越えようとしたところを殺害された。この事件の真相は明らかではないが、公暁の乳母は義村の妻であり、子の駒若丸は公暁の門弟であるなど、義村との縁が深いことから、事件は公暁をそそのかして実朝と義時を同時に葬ろうとした義村が黒幕であるとする見方もある。公暁討伐の功により、同年には駿河守に任官した。
 承久3年(1221年)の承久の乱では、後鳥羽上皇の近臣だった弟の三浦胤義から決起をうながす使者を送られるが、義村は直ちにこれを義時に知らせた。義村は幕府軍の大将の一人として東海道をのぼり、京方を破って上洛。胤義は敗死した。
 元仁元年(1224年)、北条義時が病死すると、後家の伊賀の方が自分の実子である北条政村を執権に、娘婿の一条実雅を将軍に立てようとした伊賀氏の変が起こる。政村の烏帽子親であった義村はこの陰謀に関わるが、尼将軍・北条政子が単身で義村宅に説得に赴いたことにより翻意し、事件は伊賀の方一族の追放のみで収拾した。
 嘉禄元年(1225年)夏には大江広元・北条政子が相次いで死去する。同年12月に執権・北条泰時のもと、合議制の政治を行うための評定衆が設置され、義村は宿老としてこれに就任した。幕府内の地位を示す椀飯の沙汰では北条氏に次ぐ地位となっている。貞永元年(1232年)の御成敗式目の制定にも署名した。4代将軍・藤原頼経は、将軍宣下ののち、三浦一族と接近するようになり、義村は子の三浦泰村と共に頼経に近しく仕えた。延応元年12月5日(1239年12月31日)、死去。 

 建久5年(1194年)2月に13歳の泰時が元服した際、源頼朝の命により三浦義澄の孫から良い娘を選んで泰時と娶せることが決められる。この8年後の建仁2年(1202年)8月23日、義澄の嫡男・義村の娘(のちの矢部禅尼)が泰時に嫁ぎ、翌年、長男の時氏が産まれるが、後に泰時と離別している。時期は不明だが、泰時の後妻である安保実員の娘が泰時の次男・時実を建暦2年(1212年)に産んでいることから、それ以前には離縁したものと考えられる。離縁の理由は特に不仲が生じたわけでもなく不明である。
 その後、三浦氏佐原流の佐原盛連に再嫁して三子(蘆名光盛,加納(三浦)盛時,新宮時連)を産み、夫・盛連の死後は三浦矢部郷に帰って出家し、法名禅阿,矢部禅尼と称した。嘉禎3年(1237年)6月、幕府から矢部禅尼に和泉国吉井郷が与えられ、孫の時頼が三浦矢部郷まで下文を届ける使いをしている。北条氏との対立によって三浦一族が滅亡した宝治元年(1247年)の宝治合戦では、矢部禅尼の子達は北条氏側として戦い、盛時は後に三浦姓を名乗って三浦家を再興している。
 康元元年(1256年)4月10日、不食の所労により70歳で死去。時頼は祖母の死にあたり50日の喪に服している。再婚相手の盛連は時氏との血縁を利用して側近になって上洛しているが、盛連は乱行で京都中に知られており、在京でも乱暴行為で知られており時氏を悩ませたと伝わる。

三浦泰村 三浦胤村

 武勇(特に弓術)に優れ、承久3年(1221年)の承久の乱では、父・義村と共に幕府軍の一軍として参戦して活躍した。放生会での流鏑馬や正月の弓始などの儀礼においても射手の役割をしばしば担当した。
 泰村は泰時の娘を娶って北条氏の一門衆となり、暦仁元年(1238年)には幕府の評定衆の一人にまでなって幕政に参与するようになる。さらに、泰村は三浦氏の幕府内における権勢を強めようと、鎌倉幕府第4代将軍・九条頼経に接近し、その権勢は北条氏をも凌ぐようになったと言われている。さらに弟・光村も5代将軍・九条頼嗣との仲を深めるようにまでなったため、執権・北条時頼から三浦氏は危険視されるようになる。時頼本人は泰村と三浦氏に政権中枢からの穏便な引退を望んでいた。
 寛元4年(1246年)、時頼は六波羅探題に赴任させていた北条重時を招来することを打診したが、評定の場で泰村のみは承諾せず、頑なにこれを拒んだ。重時が帰参することで自らの政治的地位が低下することを懸念したようだが、これによって時頼や北条一門らの心証をより悪化させた。もし重時の招来を承諾していれば、温厚な重時は三浦氏に穏便な措置を計らってくれたかも知れず、穏健派の重時を遠ざけたことで、三浦氏排斥の過激派である安達景盛が積極的に干渉する機会を与えてしまい、結果として泰村は自ら墓穴を掘ったとも指摘される。
 宝治元年(1247年)、時頼と安達景盛の策謀にかかった泰村は鎌倉で挙兵した。しかし、この反乱は結果的に失敗で、北条軍と安達軍の前に三浦軍は大敗し、追いつめられた泰村は妻子一族郎党と共に鎌倉の法華堂で自害して果てた(宝治合戦)。このことによって、北条氏の幕府内における政敵は全て排除され、北条氏における執権政治はいよいよ独裁色を強める。この宝治合戦において、泰村は適切な指揮を取れていなかったと指摘されている。泰村は他の御家人と諍いを起こしたり、北条氏に対する方針を巡り政治家としての立ち回りには拙い部分があり、優柔不断なところがあった。また、安達氏が北条氏の外戚になったことで、幕府における枢要な地位が三浦氏から安達氏へと推移していったことを把握できていなかった。 

 三浦一族が滅亡した宝治合戦の際は奥州に滞在。三浦泰村・光村・家村らや毛利季光など一族郎党のほとんどは自害もしくは討死するも、奥州にいた胤村は小山長村に捕縛され鎌倉に護送される。しかし、乱の責任は無いとされ助命される。その後、親鸞聖人の弟子となり出家、明空房となり常陸国下妻に光明寺を開基したと伝わる。 末裔には駿河三浦氏(徳川旗本の三浦氏)数流あり。