<桓武平氏>高望王系

H511:三浦義村  平 高望 ― 平 将常 ― 平 忠通 ― 三浦義明 ― 三浦義澄 ― 三浦義村 ― 三浦正次 H513:三浦正次


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三浦正次 三浦明敬
 三浦正重の長男。幕閣の中心人物である土井利勝の甥にあたるため、慶長17年(1612年)から元和9年(1623年)にかけて土井姓を称するが、のち三浦に復姓する。寛永7年(1630年)、下総矢作に1万石を与えられて大名となる。寛永10年(1633年)3月23日、六人衆(後年の若年寄)となる。寛永16年(1639年)、2万5000石をもって壬生城主となる。寛永18年(1641年)に43歳で死去し、跡を長男の安次が継いだ。

 天和2年(1682年)、父・安次の死去により家督を継いで壬生藩主となる。貞享3年(1686年)11月には奏者番となったが、翌年に勤務怠慢が原因で処罰された。元禄2年(1689年)に若年寄となる。元禄5年(1692年)2月23日、3,000石加増の2万3,000石で日向国延岡に移封される。前領主の有馬氏のために起こった一揆の余波に苦しんだとされている。しかし、積極的に藩政改革を行い、藩財政の立て直しを図ったとも言われる。
 正徳2年(1712年)7月に三河刈谷に移封される。享保9年(1724年)2月に3男の明喬に家督を譲って隠居し、翌年3月10日に死去した。享年68。

三浦義次 三浦顕次

 父の跡は兄の明喬が継いでいたが、兄の実子が早世し、残っていた3男・明次も幼少のため、享保11年(1726年)に兄の死去により、その養子となって家督を継ぎ刈谷藩主となる。
 延享元年(1744年)5月15日に46歳にして奏者番に任じられ、延享2年(1745年)12月21日に江戸城西の丸若年寄に任じられた。延享4年(1747年)2月11日に三河西尾に移封される。寛延2年(1749年)6月末に西の丸若年寄を辞任し隠居、家督を自身の養子とした明次に譲る。また、植村千吉の事件に際し、一族で5000石の大身旗本・三浦梐次が大目付に対し偽証を行ったことを咎められ、改易となった一件に際し、梐次は下総古河藩主・本多忠敞にお預けとなったが、その息子・員次(三浦織部正)は義理の元に預けられた。
 西尾藩では内政に力を注ぎ、宝暦元年(1751年)には検地・新田開発などを行って増収に務めている。一方家中では、兄の子である明次が成長し、家臣団が義理と明次の派閥に分かれて家督をめぐって争うなどの混乱も起きている。宝暦6年(1756年)7月3日に死去した。享年61。跡を明次が継いだ。

 父が病弱だったため、第一次長州征伐・第二次長州征伐に出陣している。父は佐幕派だったが、顕次は勤皇派であり、慶応3年(1867年)からは津山藩(松平慶倫),備中松山藩(板倉勝静)との佐幕同盟を脱している。慶応4年(1868年)5月6日、父の隠居を受けて正式に藩主となった。明治2年(1869年)の版籍奉還で藩知事となる。また、藩名を真島藩に改めた。明治4年(1871年)の廃藩置県で免官された。
 明治17年(1884年)、華族令施行に伴い子爵に叙せられる。明治28年(1895年)9月11日、49歳で死去した。