| H518:三浦盛時 | 平 高望 ― 平 将常 ― 平 忠通 ― 三浦義明 ― 佐原義連 ― 佐原盛連 ― 三浦盛時 ― 正木時綱 | H519:正木時綱 |


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| 正木時綱 | 正木時茂 |
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その出自について確定はしていない。三浦時高(義高)の子、その養子の三浦義同の子、義同の弟の三浦義時の子と諸説ある。 |
1533年(天文2年)、里見氏の内紛である稲村の変が発生し、父・時綱と兄が戦死したため家督を相続した(時茂は傷を負いながらも命からがら脱出したと言われている)。時茂は槍術に優れており、槍大膳と称された。 |
| 正木信茂 | 正木憲時 |
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永禄4年(1561年)頃、父・時茂に代わって家督を継ぎ当主となる。主君・里見義堯の娘・種姫を娶った。里見氏の北上政策の中心的存在として千葉氏の原胤貞や大須賀政常らと戦う。この頃から上総・下総の里見軍の命令には信茂の名義で発給されているものが多く、また叔父である正木時忠が占領した大須賀氏領の小見川(現在の千葉県香取市)の返還に関して行われていた父・時茂と千葉胤富との交渉を引き継いだのも信茂であった。また、『海上年代記』において、下総国匝瑳郡長谷(現在の千葉県匝瑳市)に城を築いた「正木大膳亮」も信茂のこととみられており、若年ながら既に里見軍の中心的な人物の一人であったと考えられる。永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦の際に戦死した。享年25。 |
永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦が里見軍の敗戦に終わり、実父・弘季と正木家当主の信茂が討死した。そこで、正木氏を継いで大多喜城を領した。この敗戦を契機に、里見氏は北条軍の反攻を受けることになるが、憲時はそれを懸命に防ぎ、逆に同年には米ノ井城を、永禄8年(1565年)には敵将・伊能景信の居城である矢作城を落としている。永禄10年(1567年)の三船山の戦いでも奇襲策により北条軍に勝利する。天正2年(1574年)の義堯の死後は、その子・義弘に引き続き仕えた。義弘の死後、義頼に反乱を起こしたため、義頼に城を攻められて敗北。最期は太田康資とともに家臣に殺されたという。しかし、近年では反対に義頼の方が里見氏の宿敵である北条氏政と組んで、兄である義弘の嫡男梅王丸を追放して里見氏を継いだために、異論を挟んだ憲時が謀反の汚名を着せられて粛清されたとする説もある。 |
| 正木時茂 | 正木時忠 |
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天正9年(1581年)、大多喜城主・正木憲時が謀反を起こして討たれると(実際には義頼の家督相続に異を唱えたために粛清されたとも)、正木大膳亮の家名の断絶が惜しまれたために、義頼は次男の弥九郎に正木氏を継がせて当主とし、大多喜城主に据えた。 |
天文2年(1533年)に当主の里見義豊によって里見実堯と父の通綱が殺害されたため、兄の時茂と共に実堯の遺児・里見義堯に与し、翌天文3年(1534年)4月6日の犬掛の戦いで勝利を収め、義堯が新たに里見氏の当主となった(天文の内訌)。 |
| 正木時通 | 正木頼忠 |
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里見義弘に属していたが、伯父の時茂の死後、大多喜正木氏が弱体化すると、父の時忠は里見氏から自立することを目指すようになり、永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦の直前に里見氏から離反するとともに、弟の頼忠を人質として北条氏康に差し出し、里見氏に従う従兄弟の憲時を攻撃して上総国に勢力を伸ばした。永禄9年(1566年)5月11日、北条氏の出陣要請を受け、時通は北条氏政の軍勢に派遣されており、翌永禄10年(1567年)には北条氏に武器の提供や援軍要請などを行っている。 |
時通には子が無く、小田原北条氏のもとへ人質となっていた弟の頼忠が安房に帰って養子となった。そして、父・時忠,兄・時通が相次いで没してのちに家督を相続し勝浦城に住した。 |
| 正木於万 | |
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母は北条氏尭の娘とも、あるいは田中泰行娘(=北条氏尭養女、板部岡江雪斎姉の娘・姪)と諸説ある。実父の頼忠で、当初は小田原に人質として滞在していたが、万の同母兄である為春と万をもうけた後、急死した実兄の正木時通の跡を継ぐため上総に戻ることになる。万と為春の生母は北条氏家臣だった蔭山氏広と再婚した。万はこの義父の元で育てられることになる。 |