<桓武平氏>高望王系

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正木時綱 正木時茂

 その出自について確定はしていない。三浦時高(義高)の子、その養子の三浦義同の子、義同の弟の三浦義時の子と諸説ある。
 第一の説によれば明応3年(1494年)の三浦氏の内紛で時高が義同に殺害された時に、第二の説では、永正13年(1516年)に北条早雲によって三浦氏が滅ぼされた時に、幼児であった通綱が安房国正木郷に落ち延びて成長した後に、三浦氏と友好関係にあった里見氏によって重臣に抜擢されたと言われている。第三の説によれば、義同の実父でまた時高の養子でもあった三浦高救が、養父によって廃嫡された後に安房に奔り、その子・義時が正木姓を名乗って里見氏に臣従し、その実子あるいは婿養子が通綱であるというものである。
 だが、第一の説の唱える内紛について発生の事実そのものを証明する文献などは無く、第二の説では子供達の生没年と合致せず、第三の説では義時の実在が証明できないために、こうした説は後年紀州徳川家の重臣となった子孫(三浦長門守家)が、自らを三浦氏の嫡流とした系譜を創作した可能性が指摘されている。また、古文書によれば、内房地域の水軍勢力に三浦氏の一族と思われる武士達が存在しており、その中に正木氏の存在も確認される。通綱も元は、こうした水軍を率いた三浦氏庶流の武将の一人であったものと思われる。
 里見義通から一字拝領を受けて通綱と名乗り、その弟である里見実堯の配下の将として上総国へと侵攻している。その後も義通の後を継いだ里見義豊の命を受けて武蔵国品川湊への攻撃を指揮しており、安房国長狭郡及び三原・正木の2郷を領するなど、急速に里見氏の家中で発言力を増したが、実堯と義豊の関係が不穏になると、実堯に近い通綱に対しても譜代の重臣の反発が高まるようになる。
 こうした状況の下で、実堯が北条氏と通じているとの風評が流れたため、天文2年(1533年)7月27日、義豊によって稲村城で実堯ともども殺害された(稲村の変)。なお、『寛政重修諸家譜』では、通綱が実堯の子・義堯を擁して謀反を企てているとの糟谷石見守の讒言を受け、これを信じた義豊が実堯と通綱を襲撃し、通綱は襲撃時に腕に受けた矢傷が悪化して居城の山之城で死去したとされる。一説には、古傷の悪化によって稲村城に登城しなかった通綱は殺害を免れたものの、脱出して山之城に逃げ込んだ直後に無理な移動が祟ってそのまま危篤状態となり死亡したとする伝承もある。

 1533年(天文2年)、里見氏の内紛である稲村の変が発生し、父・時綱と兄が戦死したため家督を相続した(時茂は傷を負いながらも命からがら脱出したと言われている)。時茂は槍術に優れており、槍大膳と称された。
 里見義堯に寄騎として属し、1534年(天文3年)の里見義豊討伐に従い、勝利した義堯が安房本国に入ったためにそれまで居城としていた上総国金谷城に代わりに入ったとされる。翌年に北条氏綱が扇谷上杉家と戦った際には北条方の援軍として派遣されている。その後、里見氏と北条氏の関係が対立関係に転じ、1538年(天文7年)の第一次国府台合戦には里見方として参陣する。
 その後、一族である内房正木氏の北条方への離反や上総武田氏勢力の衰退という状況を受けて、金谷城がある西上総から安房国朝夷郡に本拠を移した後に東上総へ進出し、1542年(天文11年)には勝浦城を攻めてこれを奪っている。1544年(天文13年)には真里谷朝信を討ち、その所領である小田喜城(後の大多喜城)を奪って居城とした。その後、1561年初頭の上杉輝虎(謙信)の関東出陣に際しては、義堯の嫡男・里見義弘に従って嫡男の信茂とともに参陣している。
 1561年(永禄4年)4月7日、死去。安房国長狭郡宮山(現在の千葉県鴨川市)の長安寺に葬られた。越前の朝倉宗滴が語った言葉をまとめたとされる『朝倉宗滴話記』には、同時代の優秀な武将の一人として、その名が挙げられている。

正木信茂 正木憲時

 永禄4年(1561年)頃、父・時茂に代わって家督を継ぎ当主となる。主君・里見義堯の娘・種姫を娶った。里見氏の北上政策の中心的存在として千葉氏の原胤貞や大須賀政常らと戦う。この頃から上総・下総の里見軍の命令には信茂の名義で発給されているものが多く、また叔父である正木時忠が占領した大須賀氏領の小見川(現在の千葉県香取市)の返還に関して行われていた父・時茂と千葉胤富との交渉を引き継いだのも信茂であった。また、『海上年代記』において、下総国匝瑳郡長谷(現在の千葉県匝瑳市)に城を築いた「正木大膳亮」も信茂のこととみられており、若年ながら既に里見軍の中心的な人物の一人であったと考えられる。永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦の際に戦死した。享年25。
 信茂の死後、妻の種姫は出家して尼となり、夫の菩提を弔う余生を送った。養老渓谷に近い上総朝生原に富士山宝林寺を建立したと伝えられ、そのまま宝林寺で生涯を送ったとも、その後、安房白浜の滝本山種林寺に住して晩年に宝林寺に移ったとも言われる。朝生原の宝林寺に墓があり、白浜の種林寺に「種姫の碑」がある。若くして山中に隠棲した種姫を、曲亭馬琴の読本『南総里見八犬伝』に登場する「伏姫」のモデルと唱える説がある。 

 永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦が里見軍の敗戦に終わり、実父・弘季と正木家当主の信茂が討死した。そこで、正木氏を継いで大多喜城を領した。この敗戦を契機に、里見氏は北条軍の反攻を受けることになるが、憲時はそれを懸命に防ぎ、逆に同年には米ノ井城を、永禄8年(1565年)には敵将・伊能景信の居城である矢作城を落としている。永禄10年(1567年)の三船山の戦いでも奇襲策により北条軍に勝利する。天正2年(1574年)の義堯の死後は、その子・義弘に引き続き仕えた。義弘の死後、義頼に反乱を起こしたため、義頼に城を攻められて敗北。最期は太田康資とともに家臣に殺されたという。しかし、近年では反対に義頼の方が里見氏の宿敵である北条氏政と組んで、兄である義弘の嫡男梅王丸を追放して里見氏を継いだために、異論を挟んだ憲時が謀反の汚名を着せられて粛清されたとする説もある。 
正木時茂 正木時忠

 天正9年(1581年)、大多喜城主・正木憲時が謀反を起こして討たれると(実際には義頼の家督相続に異を唱えたために粛清されたとも)、正木大膳亮の家名の断絶が惜しまれたために、義頼は次男の弥九郎に正木氏を継がせて当主とし、大多喜城主に据えた。
 天正18年(1590年)、兄である里見義康が上総国を没収されると安房に移住。8000石を与えられ、里見家筆頭重臣となる。慶長8年(1603年)に義康が死去すると、甥の里見忠義に仕え、館山藩の藩政を補佐した。
 慶長19年(1614年)、大久保忠隣失脚に連座して里見忠義が安房国を没収される処分を受け、伯耆国倉吉藩に移される(事実上の配流)。時茂はこの1年前から駿府に滞在しており(徳川家康に呼び出されていたとされる)、倉吉に向かう忠義一行が途中駿府に立ち寄った際に合流している。しかし、大坂の陣終了後、時茂のみが家康に駿府に呼び戻され、家康死後の元和3年(1617年)、今度は徳川秀忠によって江戸に呼び出され、江戸桜田にあった自らの屋敷で蟄居を命じられている。元和8年(1622年)、忠義の死去により倉吉藩が無嗣改易されると、鳥取藩の池田光政にお預けとされ、鳥取に移された。鳥取では2000俵の合力米が給付され、丁重に扱われたという。
 寛永7年(1630年)6月20日、預かりの身のまま同地で死去。墓所は倉吉の大岳院で、主君・里見忠義の墓の傍らに葬られている。大変な怪力の持ち主で、鳥取藩で相撲の技を見せて大いに賞せられたという伝説がある。『里見代々記』によれば、神子上典膳と一騎討ちして引き分けた腕をもつ。

 天文2年(1533年)に当主の里見義豊によって里見実堯と父の通綱が殺害されたため、兄の時茂と共に実堯の遺児・里見義堯に与し、翌天文3年(1534年)4月6日の犬掛の戦いで勝利を収め、義堯が新たに里見氏の当主となった(天文の内訌)。
 兄の時茂が上総武田氏の内紛への介入を義堯から命じられると、天文13年(1544年)に真里谷朝信を討ち取るなど、東上総をその傘下に収めていった。時忠は天文11年(1542年)に上総の要衝の一つである勝浦城を本拠地とする勝浦正木氏を興し、興津・吉宇などの海岸地域郷村を支配下に置き、朝信から奪った大多喜城に入った時茂(大多喜正木氏)を補佐することになる。東上総の軍権を任された兄の時茂に従い、武田氏の残党や下総千葉氏など近隣の勢力と戦ったり、上総に海を越えて勢力を伸ばそうとする相模北条氏と争い、いずれも功を挙げたという。
 兄の時茂の死後、弱体化した大多喜正木氏に代わって正木氏の実力者となっていたが、次第に里見氏からの自立を志向するようになる。永禄7年(1564年)、第二次国府台合戦の直前に里見氏から離反し、北条氏康に接近する。翌永禄8年(1565年)3月に北条氏政が両総に侵攻すると、時忠は逸早く参陣するとともに、子の時長(頼忠)を人質として差し出し、北条氏の軍事的な支援を受けるようになり、北条氏照が時忠の指導に努めたという。以後、北条氏の傘下の勢力として里見氏と争ったが、北条氏が駿河国を巡って甲斐武田氏との抗争を繰り広げるようになると、思うような支援が得られなくなったため、北条氏との関係が徐々に悪化していった。天正2年(1574年)には北条領国の上総国大坪に侵攻しており、この頃までには里見氏に帰参したものと推測されている。
 時忠は勝浦を中心とした外房の海賊集団を掌握し、水軍組織の編成を行うなど里見水軍の有力な武将であったと推定される。勝浦が大船の出入りする要津であったことから、時忠の漁船・水夫の動員が可能になったといえる。天正4年(1576年)8月1日、死去。享年56。墓所は千葉県南房総市の正文寺。 

正木時通 正木頼忠

 里見義弘に属していたが、伯父の時茂の死後、大多喜正木氏が弱体化すると、父の時忠は里見氏から自立することを目指すようになり、永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦の直前に里見氏から離反するとともに、弟の頼忠を人質として北条氏康に差し出し、里見氏に従う従兄弟の憲時を攻撃して上総国に勢力を伸ばした。永禄9年(1566年)5月11日、北条氏の出陣要請を受け、時通は北条氏政の軍勢に派遣されており、翌永禄10年(1567年)には北条氏に武器の提供や援軍要請などを行っている。
 以後、北条氏に属する勝浦正木氏当主として里見氏と争うが、時通はあくまでも里見氏によって抑え込まれていた自己の勢力拡大に主眼を置いており、同じ北条傘下の千葉胤富を攻撃してその領地を奪ったため、次第に周辺勢力から孤立する。
 天正年間初頭には里見氏に復帰したとされ、天正2年(1574年)に北条領国の上総国大坪に侵攻している。天正3年(1575年)11月8日の深夜に三原城で病死した。墓所は時通が復興した千葉県南房総市の日運寺。法号は日運。 

 時通には子が無く、小田原北条氏のもとへ人質となっていた弟の頼忠が安房に帰って養子となった。そして、父・時忠,兄・時通が相次いで没してのちに家督を相続し勝浦城に住した。
  天正18年(1590年)、里見義康が豊臣秀吉から上総国を没収されて安房一国になったとき、安房に帰り入道して環斎と号した。慶長期には、長狭郡八色村,丸郡平磯村,加茂村のうちで千石の知行地を与えられた。頼忠には数人の子があったが、人質として小田原にあった時、北条氏隆の娘との間に為春,於万兄妹をもうけた。この於万は徳川家康の側室となり、紀伊頼宣,水戸頼房を生んだため、兄・為春は家康に召されて紀伊頼宣の家老となった。里見家改易後、頼忠は紀伊に赴き、為春の許で一生を終えたという。為春の家は、のちに三浦を称し、紀州藩の家老として幕末まで続いた。


正木於万

 母は北条氏尭の娘とも、あるいは田中泰行娘(=北条氏尭養女、板部岡江雪斎姉の娘・姪)と諸説ある。実父の頼忠で、当初は小田原に人質として滞在していたが、万の同母兄である為春と万をもうけた後、急死した実兄の正木時通の跡を継ぐため上総に戻ることになる。万と為春の生母は北条氏家臣だった蔭山氏広と再婚した。万はこの義父の元で育てられることになる。
 伊豆で成長した万は16,7歳の頃、家康に見初められ側室となった。万は慶長7年(1602年)の3月に長福丸(後の徳川頼宣)を、さらに翌年の8月には鶴千代(後の徳川頼房)を生んだ。慶長8年(1603年)には、長福丸には常陸国水戸20万石が与えられ、慶長6年(1606年)には、鶴千代に下総国下妻10万石が与えられた。慶長14年(1609年)には、長福丸は駿河国・遠江国50万石に、鶴千代は水戸25万石に移封される。後に頼宣は紀州徳川家初代藩主に、頼房は水戸徳川家初代藩主になった。
 義父の蔭山家は、代々日蓮宗を信仰しており、万もその影響を受け、日遠に帰依した。家康は浄土宗であり、日頃から宗論を挑む日遠を不快に思っていたため、江戸城での問答の直前に日蓮宗側の論者を家臣に襲わせた結果、日蓮宗側は半死半生の状態となり、浄土宗側を勝利させてしまった。この不法な家康のやり方に怒った日遠は身延山法主を辞し、家康が禁止した宗論を上申した。これに激怒した家康は、日遠を捕まえて駿府の安倍川原で磔にしようとしたため、万は家康に日遠の助命嘆願をするが、家康は聞き入れなかった。すると万は「師の日遠が死ぬ時は自分も死ぬ」と、日遠と自分の2枚の死に衣を縫う。これには家康も驚いて日遠を放免した。
 この万の勇気は当時かなりの話題になったようで、後陽成天皇も万の行動に感激し、万は天皇が自ら「南無妙法蓮華経」と七文字書いた物を賜ったという。彼女は家康の死去した後、元和5年(1619年)の8月、身延山で法華経一万部読誦の大法要を催し、満願の日に七面山に向かった。承応2年(1653年)、万は死去。墓所は山梨県南巨摩郡身延町大野の日蓮宗寺院・本遠寺と静岡県三島市の妙法華寺。承応3年(1654年)に徳川頼宣により建立された墓所で、花崗岩製の宝篋印塔が現存している。