<桓武平氏>高望王系

H517:佐原盛連  平 高望 ― 平 将常 ― 平 忠通 ― 三浦義明 ― 佐原義連 ― 佐原盛連 ― 三浦盛時 H518:三浦盛時


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三浦盛時 三浦時継

 三浦氏佐原流の出身で相模三浦氏の祖。嘉禄3年(1227年)7月、浄土宗多念義派(長楽寺義)の祖隆寛律師(法然の弟子)が奥州に流罪することが決定した際(嘉禄の法難)、奥州に所領を持つ佐原盛時の預かりとなっている事実から、盛時が宝治の乱以前、すでに会津郡耶麻郡加納庄を領していたことになる。これが史料上の初見となる。仁治2年(1241年)、頼経が明王院北斗堂の供養のために行列を組んだ時は御家人役の一人に名が見える。宝治元年(1247年)、宝治合戦後の京都大番役の再編の際には三浦介として御家人役を分担し、建長4年(1252年)に宗尊親王が鶴岡八幡宮に参詣した際には後陣の随兵として名が見える。
 母の矢部禅尼は最初、北条泰時に嫁いでいたが、離縁して佐原盛連に再縁したという経緯を持つ。泰時との間に北条時氏、盛連との間に盛時ら兄弟を儲けており、盛時は時氏と異父兄弟の関係にあった。それゆえ得宗との血縁的な結びつきが強かった。そのためか、宝治合戦では嫡流の泰村らとは袂を分かち、兄弟たちと共に甥の北条時頼に与した。合戦に先んじて、時頼は盛時を陸奥国糠部五戸郡の地頭代に任命しており、既に盛時は時頼に懐柔されて得宗被官になっていたという。
 宝治合戦の直前、津軽の海辺に「人間の死骸のような」魚が漂着するという事件があった。盛時はこの顛末を時頼に報告し、更に、奥州合戦の直前にも酷似した現象があったことから、合戦の予兆であるとも指摘した。この話は『吾妻鏡』に収録されており、盛時が宗家の泰村の「征伐」を時頼に教唆したことを示すものではないかとも解釈されている。
 合戦当日、盛時の兄弟は時頼の与党と共に時頼の館に結集したが、盛時自身は何らかの事情があって参戦に遅刻したらしい。遅れた盛時は屋敷の塀を乗り越えて時頼の館に到着し、この行動に感嘆した時頼から盛時は鎧を賜った。宝治合戦で三浦一族が滅びると、三浦介に任命され、三浦宗家の家督を継承した(相模三浦氏)。佐原氏嫡流は兄の光盛が継承している。盛時は三浦介、三浦家棟梁としての扱いを受ける一方で、将軍の鶴岡八幡宮参詣や放生会などでは随兵の役目しか回されず、宝治合戦で滅びる前、三浦氏がまだ隆盛していた頃の厚遇を受けることはなかった。三浦介となり、三浦宗家を継承したが、待遇そのものはあくまで佐原氏時代のものが踏襲されたという。
 弘長3年(1263年)に時頼が没すると、兄弟の光盛・時連と揃って出家し、浄蓮と号した。

 相模三浦氏の当主。鎌倉幕府の御家人であり、元徳3年(1331年)に後醍醐天皇が起こした元弘の乱の際には笠置寺に立て籠もる天皇を攻撃するために幕府軍の一員として出陣し、笠置山の戦いに参加している。元弘3年(1333年)5月に行われた鎌倉の戦いでは、本拠地である相模国三浦郡は鎌倉に隣接しているが、この時の時継の動静はよく分かっていない。おそらく他の御家人たちと同じく北条高時を裏切って後醍醐天皇方に与していたと考えられる。
 その後、京に滞在している。『太平記』にその時分の話として記載されているのが、後醍醐天皇が御所で天下安鎮法という儀式を行うとし、名のある武士を召し出した。時継(もしくは子の高継の可能性もある)も名門三浦家の当主として召されることになったのだが、下総国の武士である千葉介千葉貞胤と席次のことなどでもめて険悪な状態になり、両者出仕を拒否するという事件があったという。
 建武2年(1335年)に高時の子・北条時行が中先代の乱を起こした際には三浦郡に帰っていたようで、そのまま時行に与して後醍醐天皇に反旗を翻した。北条軍は天皇方の足利直義を破って7月25日に鎌倉を占領した。しかし、天皇の許可を得ないまま出陣した足利尊氏が8月19日に鎌倉を占拠すると、時継は船に乗って鎌倉を脱出し、尾張国の熱田に逃れた。そこで熱田神宮の大宮司に捕まって捕虜となり京に送られて斬首され、獄門にかけられた。子の高継は一貫して天皇方であったため、時継の死後に家督と所領を安堵されている。 

三浦高継 三浦高通

 高継の名の「高」の字は鎌倉幕府の執権・北条高時からの偏諱であると思われる。元弘3年(1333年)5月に行われた鎌倉の戦いでは、本拠地である相模国三浦郡は鎌倉に隣接しているのだがこの時の時継・高継父子の動静はよく分かっていない。おそらく他の御家人たちと同じく北条高時を裏切って後醍醐天皇方に与していたと考えられる。
 その後、高継は京に残って天皇に仕えていたが、時継は三浦郡に戻っていた。そこに、建武2年(1335年)になって高時の子・北条時行が中先代の乱を起こすと、時継はこれに与して後醍醐天皇に反旗を翻した。北条軍は一時的に鎌倉を占領したが最後は足利尊氏に敗れ、尊氏が8月19日に鎌倉を占拠すると時継は鎌倉を脱出するも尾張国の熱田で熱田神宮の大宮司に捕まって捕虜となり京に送られて斬首され、獄門にかけられた。しかし、この間、高継は一貫して天皇方であったため、早くも9月27日には家督を認められ、三浦介と所領を安堵されている。
 後醍醐天皇と足利尊氏が争うようになる(建武の乱)と、高継は尊氏に与して翌建武3年(1336年)の秋頃から翌建武4年(1337年)まで室町幕府の侍所頭人に任じられている。また、この建武4年は4月20日に子の高通が左衛門少尉に任ぜられ、次いで8月28日には高継が従五位上に叙せられている。暦応元年(1338年)1月に美濃国で行われた青野原の戦いでは、幕府軍の武将として高通とともに参戦し、天皇方の北畠顕家と戦っている。翌暦応2年(1339年)5月17日に死去。 

 父・高継が侍所頭人であった建武4年(1337年)4月20日に高通は左衛門少尉に任ぜられている。暦応元年(1338年)1月に美濃国で行われた青野原の戦いでは幕府軍の武将として高継とともに参戦し、天皇方の北畠顕家と戦っている。
 翌暦応2年(1339年)5月17日に高継が亡くなると、家督と三浦介を継ぎ、京を離れて自らの所領がある相模国三浦郡に戻って鎌倉公方足利義詮に仕えるようになる。観応2年(1351年)10月までには相模守護に任じられていたが、観応の擾乱が広がりを見せる中で、同年に上杉憲顕が足利直義派として挙兵するとそれに加担し、しばらくして守護を解任されている。薩埵峠の戦いの後に将軍・足利尊氏に降伏すると、所領の多くを没収された。
 文和元年(1352年)閏2月の武蔵野合戦では挙兵した新田義興,脇屋義治,北条時行による鎌倉攻めに加担して彼らとともに一時的に鎌倉を占領するが、翌3月には鎌倉を放棄することとなり、彼らとは行動をともにせず逃亡した。しかし、尊氏の死後に上杉憲顕が尊氏の4男で鎌倉公方の足利基氏の下で復権を果たすと、高通も貞治元年(1362年)頃には没収されていた三浦郡の所領を返還され、幕府に復帰している。
 貞治3年(1364年)には再び相模守護に任ぜられている。その後、家督と三浦介を高連に譲り、貞治6年(1367年)から永和2年(1376年)の間に亡くなった。 

三浦時高 三浦高救

 官位は相模介(三浦介)。三浦郡三崎城(新井城)主。応永23年(1416年)、上杉禅秀の乱が勃発し、父・高明は鎌倉公方・足利持氏に従って鎌倉の化粧坂の守備を担当するなどしたが、応永28年(1421年)には相模守護を解任されている。代わって守護になったのは持氏の近臣である上杉定頼であった。この後、時高は元服すると、持氏に仕えるようになる。
 永享10年(1438年)、永享の乱の幕が切って落とされたが、この時に時高は持氏より鎌倉の留守を預かるよう命じられた。先例に従ってという理由であるが、時高は領地が少なくて多くの軍勢も動員できないとして当初これを断った。しかし、厳命を受けて最後には従っている。ところが、室町幕府第6代将軍・足利義教が兵を起こした持氏の討伐を命じると、しばらくして時高にも義教からの誘いがあり、高時はその誘いに乗った。
 幕府軍迎撃のために箱根山に向かった持氏であったが、9月27日に今川範忠と合戦して敗れた。それを横目に10月3日、時高は上杉憲実と結んで叛旗を翻すと軍勢を整えるためか鎌倉を放棄して三浦郡に引き上げた。翌4日には憲実が鎌倉に入ろうと上野国の平井城を出陣している。17日に時高は二階堂氏とともに持氏のいない鎌倉に攻め込んで民家を焼くなどしたが、この時はすぐに引き上げている。11月1日再びいまだ持氏が戻っていないうちに二階堂氏とともに鎌倉を攻めると、持氏の御所を陥落させて鎌倉を占領した。翌永享11年(1439年)2月10日、足利持氏・義久父子と稲村公方・足利満貞が将軍・義教の命を受けていた上杉憲実によって攻められて自害して果てた。
 永享の乱以後、時高は扇谷上杉家に従うと事実上の相模国の国主といえるほどその勢力を上げた。時高は扇谷上杉家の当主である上杉持朝の信頼を得ると、持朝の次男・高救を養子に迎えている。さらに、相模西部の大森氏頼と時高の姉妹の間に生まれた娘(時高の姪)を高救に娶わせると、その間に生まれた義同(時高から見れば姪孫)をも自らの養子としている。こうして時高は扇谷上杉家と大森氏との関係を強化していった。
 永享12年(1440年)3月に勃発した下総国の結城氏朝・持朝父子が起こした反乱である結城合戦の際にも、幕府軍の総大将・上杉清方が鎌倉を出陣する際に時高は先例に従って鎌倉の留守を務めている。合戦は翌嘉吉元年(1441年)4月まで行われ、結城父子は討死し、父子が擁立していた足利持氏の遺児である春王丸と安王丸は将軍義教の命で殺害された。しかし、嘉吉の乱が起きて義教が赤松満祐に暗殺されると、永寿王丸は幕府の裁定で助命された。
 新しい鎌倉公方(後に古河公方)となった永寿王丸改め足利成氏と山内上杉家・扇谷上杉家との間で享徳の乱が発生すると、時高は持朝に従って各地で成氏側と戦った。この間に山内上杉家は8代将軍・足利義政の異母兄・政知の新公方擁立を図った。しかし、関東の情勢の不安定さのためもあって政知は鎌倉に入ることができず、伊豆国堀越に逗留して堀越公方と名乗るようになった。だが、五十子の戦いの最中にもかかわらず、相模を支配する扇谷上杉家とその傘下である三浦氏・大森氏が鎌倉入りを妨害しているのではとの猜疑が政知方から出ると、政知の重臣・渋川義鏡が上杉持朝と時高,大森氏頼・実頼父子に反逆の疑いありと将軍に讒言するなど混乱が起きた。足利政知とその家臣達が前々から所領のことで上杉持朝・大森氏頼と諍いを起こしていたのも原因の一つであった。
 そんななかで時高は嫌気がさしたか寛正3年(1462年)3月に隠居をすると言い出したため、将軍・義政からの説得を受けている。それでも結局翌4月に五十子陣から三浦郡に戻って隠居してしまった。持朝の代わりとして責任を負うことで事態の収拾を図ろうとしたか。この時、千葉実胤が隠遁したのも関係があるといわれている。これによって高救が家督を継いだが、後に時高に実子である高教が生まれると高教を高救の後継にしようと図り、高救・義同父子と対立したとされているが、時高は隠居後間もなくして亡くなったともいわれる。
 文明18年(1486年)に扇谷上杉家を継いでいた上杉定正(高救の弟)が、内外の信望厚い重臣太田道灌を暗殺して家臣団に動揺が広がると、高救は三浦氏の家督を義同に譲って扇谷上杉家に復帰して自らが当主になろうと画策した。これに激怒した時高は定正とともに高救父子を追放して実権を奪還したという。結果、高救は安房国に、義同は母方の祖父の大森氏頼のもとに奔ったという。
 明応3年(1494年)、出家して「道寸」と称していた義同が、時高に反発している三浦家家臣団を率い、大森氏の支援をも受けて挙兵して三浦郡を攻撃、9月23日に三崎城を攻め落として時高・高教父子を自害に追い込んだ、とされている。世の人々は「永享の乱で主君・足利持氏を裏切って攻め滅ぼした報いだ」と評したという。ただ、この義同の挙兵と時高の自害については実際には何があったのかという点については不明な点も多い。 

 寛正3年(1462年)、養父が実父・上杉持朝と堀越公方の確執の責任を取って隠居したために家督を継ぐ。当初は異母弟の上杉定正を支えていたが、文明18年(1486年)に太田道灌が暗殺されると、これを憎んで養父と養子縁組をしていた息子・義同に家督を譲り、自らは扇谷上杉家に復帰して当主にならんとした。これに激怒した時高によって、義同ともども追放されてしまった。
 明応3年(1494年)に義同が実力で三浦氏の家督を奪還して当主となると、高救はこれを補佐したと見られている。没年は不詳だが、諸記録から明応8年(1499年)以後に病没したと推定されている。なお、晩年に安房に滞在して、その子孫が安房正木氏となったという説もある。 

三浦義同 三浦義意

 北条早雲の最大の敵であり、平安時代から続いた豪族・相模三浦氏の事実上の最後の当主である。
扇谷上杉家から、新井城(三崎城とも)主・三浦時高の養子に入る(先に義同の実父・上杉高救が時高の養子であったとする説もある)。しかし、時高に実子・高教が生まれたため不和となり、初め山内上杉家の上杉顕定、次いで祖父・大森氏頼を頼ったが、大森氏領内の足柄下郡の総世寺で出家して道寸と号す(一説には義同の実父・高救とその実兄で扇谷上杉家を継承した定正との不和によって、定正に忠誠を誓っていた時高が義同を実家に送り返したとする説もある)。そのため三浦氏の被官は両派に分裂してしまう。明応3年(1494年)9月、義同は大森氏の支援を受けて新井城を攻めて時高および高教を滅ぼし、三浦家当主の座と相模守護代職を手に入れた。その後、実子の義意(荒次郎)に家督を譲って新井城に据え、自らは相模中部の岡崎城(現・平塚市)に拠った。ただし、この内紛について、時高死後の三浦家中の混乱に乗じて義同が三浦氏に復帰し、その家督を奪ったとする考えもある。
 その後、上杉定正の死後に家督を継いだ朝良(道寸の従兄弟)と和睦して、台頭してきた安房国の里見氏と同盟を結んだ。
 同時期の明応4年(1495年)、西相模を抑えていた小田原城の大森藤頼が、駿河今川氏の軍師・伊勢宗瑞(北条早雲)によって城を奪われるという事件があった(ただし、その年次については明応5年(1496年)以後とする異説あり。また、藤頼が山内上杉家の上杉顕定に降ったため、早雲に攻撃させたという説もある)。早雲は伊豆国と小田原を本拠に、次第に独立して戦国大名化し、関東へ本格的に進出を始める。道寸は藤頼を保護してこれと争うが、早雲は山内上杉家と対抗するために明応7年(1498年)、上杉朝良,三浦道寸に対して同盟を提案する。話し合いの結果、顕定が守護職であった伊豆を2分する(早雲が伊豆半島を、道寸が伊豆諸島を領有する)ことで和解が成立した。
 その後、早雲と朝良は上杉顕定を立河原の戦いで破ったが、やがて両者は対立するようになり、必然的に扇谷上杉家傘下の三浦氏とも対立することになる。これに対して義同は永正7年(1510年)、小田原城の早雲を攻め、逆に早雲も岡崎城に攻撃を加えた。
 永正9年(1512年)、ついに早雲は兵を挙げ岡崎城に攻撃を開始した。敵せずと見た道寸は弟・道香の守る住吉城に退却し、抵抗を続けた。しかし、道香も戦死。道寸はさらに新井城へ退却し、扇谷上杉家へ援軍を要請する。しかし、援軍に向かった太田資康も北条勢に迎撃されて討ち死。道寸・荒次郎父子は三浦半島の新井城に籠城、北条軍がこれを包囲した。三方を海に面する天然の要害であり、三浦水軍の軍事力を背景に持つ新井城の守りは堅固で、三浦父子は北条軍の攻撃を実に3年間に渡って抑えていたが、永正13年(1516年)、ついに落城し、家臣ともども討ち死にした。『北条五代記』によれば、最期は十字状に切腹をしたと記されている。これにより平安時代以来の豪族三浦家は滅亡した。なお、この落城の際、討ち死にした三浦家主従たちの遺体によって港一面が血に染まり、油を流したような様になったことから、同地が油壺と名付けられたという。三浦市三崎町に道寸の墓が残る。 

 父から相模国三崎城(新井城とも)を与えられ、永正7年(1510年)頃、家督を譲られる。「八十五人力の勇士」の異名を持ち、足利政氏や上杉朝良に従って北条早雲と戦うが、永正10年(1513年)頃には岡崎城,住吉城を北条氏によって奪われて三浦半島に押し込められた。
 父と共に三崎城に籠って3年近くにわたって籠城戦を継続するが、遂に三崎城は落城、父・義同の切腹を見届けた後に敵中に突撃して討ち取られたと言う。これによって三浦氏は滅亡し、北条氏による相模平定が完了することになる。
 『北条五代記』(『北条盛衰記』本巻二)では、脚色されている部分があるが、背丈は7尺5寸(227cm)と伝え、最期の合戦で身につけた鎧の鉄札の厚さが2分(6cm。通常の鎧の札厚が1mm程度であることを考えると異常な厚みであり、重過ぎるため創作とみられる)、白樫の丸太を1丈2寸(364cm)に筒切りにしたものを八角に削り、それを節金を通した棒(金砕棒)をもって戦い、兜の頭上を打つと粉々になって胴に達し、横に払うと一振りで5,10人と押し潰し、討たれたものは500余名になった末、自害したと記述される。

三浦重成

 はじめは佐原氏で、源頼朝に仕えた佐原義連の末裔と称する。父の佐原作右衛門義成は、天正18年(1590年)の小田原征伐で本多忠勝に属して従軍したが、5月20日の岩槻城攻撃において戦死した。
 重成は徳川家康の小姓を務めていたが、家康の命によって名字を三浦に改めた。天正18年(1590年)8月、家康が関東に入国すると、父の戦功によって下総佐倉領に1万石が与えられた。文禄4年(1595年)に豊臣秀吉によって従五位下・監物に叙任され、併せて豊臣姓を与えられた。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、近江国浅井郡で3千石を加増された。重成は当初男子に恵まれなかったため、阿部正次の2男・重次を婿養子に迎えた(重次の母が佐原義成の娘であるため、重次は重成の甥にあたる)。その後、慶長10年(1605年)に重成に重勝が生まれたため、重次には近江の所領3000石を分与して別家を立てさせた。慶長20年/元和元年(1615年)の大坂夏の陣の際に重成は病気にかかっており、代わって重次が出陣した。
 重成がいつ没したか、重勝がいつ家督を継承したかについては不明であるが、重勝は父の遺領を継いだのち寛永元年(1624年)に従五位下に叙されたとあることから、重成は慶長末年ないしは元和年間には没していた可能性が高く、大坂夏の陣の際にかかっていた病気がもとで死去したのかもしれない。