| H517:佐原盛連 | 平 高望 ― 平 将常 ― 平 忠通 ― 三浦義明 ― 佐原義連 ― 佐原盛連 ― 三浦盛時 | H518:三浦盛時 |


| リンク | H519・{H118}{AB31} |
| 三浦盛時 | 三浦時継 |
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三浦氏佐原流の出身で相模三浦氏の祖。嘉禄3年(1227年)7月、浄土宗多念義派(長楽寺義)の祖隆寛律師(法然の弟子)が奥州に流罪することが決定した際(嘉禄の法難)、奥州に所領を持つ佐原盛時の預かりとなっている事実から、盛時が宝治の乱以前、すでに会津郡耶麻郡加納庄を領していたことになる。これが史料上の初見となる。仁治2年(1241年)、頼経が明王院北斗堂の供養のために行列を組んだ時は御家人役の一人に名が見える。宝治元年(1247年)、宝治合戦後の京都大番役の再編の際には三浦介として御家人役を分担し、建長4年(1252年)に宗尊親王が鶴岡八幡宮に参詣した際には後陣の随兵として名が見える。 |
相模三浦氏の当主。鎌倉幕府の御家人であり、元徳3年(1331年)に後醍醐天皇が起こした元弘の乱の際には笠置寺に立て籠もる天皇を攻撃するために幕府軍の一員として出陣し、笠置山の戦いに参加している。元弘3年(1333年)5月に行われた鎌倉の戦いでは、本拠地である相模国三浦郡は鎌倉に隣接しているが、この時の時継の動静はよく分かっていない。おそらく他の御家人たちと同じく北条高時を裏切って後醍醐天皇方に与していたと考えられる。 |
| 三浦高継 | 三浦高通 |
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高継の名の「高」の字は鎌倉幕府の執権・北条高時からの偏諱であると思われる。元弘3年(1333年)5月に行われた鎌倉の戦いでは、本拠地である相模国三浦郡は鎌倉に隣接しているのだがこの時の時継・高継父子の動静はよく分かっていない。おそらく他の御家人たちと同じく北条高時を裏切って後醍醐天皇方に与していたと考えられる。 |
父・高継が侍所頭人であった建武4年(1337年)4月20日に高通は左衛門少尉に任ぜられている。暦応元年(1338年)1月に美濃国で行われた青野原の戦いでは幕府軍の武将として高継とともに参戦し、天皇方の北畠顕家と戦っている。 |
| 三浦時高 | 三浦高救 |
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官位は相模介(三浦介)。三浦郡三崎城(新井城)主。応永23年(1416年)、上杉禅秀の乱が勃発し、父・高明は鎌倉公方・足利持氏に従って鎌倉の化粧坂の守備を担当するなどしたが、応永28年(1421年)には相模守護を解任されている。代わって守護になったのは持氏の近臣である上杉定頼であった。この後、時高は元服すると、持氏に仕えるようになる。 |
寛正3年(1462年)、養父が実父・上杉持朝と堀越公方の確執の責任を取って隠居したために家督を継ぐ。当初は異母弟の上杉定正を支えていたが、文明18年(1486年)に太田道灌が暗殺されると、これを憎んで養父と養子縁組をしていた息子・義同に家督を譲り、自らは扇谷上杉家に復帰して当主にならんとした。これに激怒した時高によって、義同ともども追放されてしまった。 |
| 三浦義同 | 三浦義意 |
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北条早雲の最大の敵であり、平安時代から続いた豪族・相模三浦氏の事実上の最後の当主である。 |
父から相模国三崎城(新井城とも)を与えられ、永正7年(1510年)頃、家督を譲られる。「八十五人力の勇士」の異名を持ち、足利政氏や上杉朝良に従って北条早雲と戦うが、永正10年(1513年)頃には岡崎城,住吉城を北条氏によって奪われて三浦半島に押し込められた。 |
| 三浦重成 | |
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はじめは佐原氏で、源頼朝に仕えた佐原義連の末裔と称する。父の佐原作右衛門義成は、天正18年(1590年)の小田原征伐で本多忠勝に属して従軍したが、5月20日の岩槻城攻撃において戦死した。 |