<桓武平氏>高望王系

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三浦貞久 三浦貞広

 天文7年(1532年)に父・貞国の死により家督を相続。小勢ながら高田城に拠ってたびたび尼子晴久の侵攻を撃退していたが、天文16年(1547年)の備中呰部(植木秀長の所領)での尼子軍との戦いは敗退している。
 天文17年(1548年)に貞久が病死すると、その隙を突かれて尼子氏に攻められた三浦氏は一時的に没落を余儀なくされた。ただ、当時の文書では大河原氏に養子に入った実弟・貞尚が尼子国久から娘を貰い婚姻関係を結んでいる等、既に尼子氏の勢力下に入っていたようである。 

 天文17年(1548年)9月16日の父・貞久の病死を受けて家督を相続。以降、惣領として出雲尼子氏のもとにあったが、後に帰国。牧尚春らと共に、三村家親によって没落した三浦氏の再興を目指した。そして永禄9年(1566年)2月、三村家親が宇喜多直家に美作国籾村の興善寺で暗殺されたのに乗じて所領を奪回した。
 しかし、永禄11年(1568年)2月19日、毛利元就に攻められて叔父・三浦貞盛が死去、居城である高田城も落城し所領を追われた。元亀元年(1570年)、山中幸盛の支援を得て所領を奪回した。
 天正2年(1574年)に浦上宗景と宇喜多直家が対立した際には浦上氏に与同し、備中国の三村元親を同盟に引き入れた。このことから宇喜多氏と交戦、更に翌3年(1575年)には備中国を平定した毛利氏の侵攻を受けるに至って、同年9月、宇喜多直家の周旋により降伏した(天神山城の戦い)。
以降、貞広は天正10年(1582年)に備中高松合戦に参陣、その後、播磨国林田で病死したとされる。  

三浦貞勝 三浦桃寿丸

 美作国高田城主。天文17年(1548年)、父・貞久が死去すると三浦氏家臣団に擁立され当主となったが、貞久の死を好機と捉えた尼子氏家臣・宇山久信に攻められ高田城を奪われる。永禄2年(1559年)2月、尼子氏が毛利氏の侵攻を受けている隙を付いて高田城を奪還し旧領を回復する。以降、浦上宗景に与同したとみられるが、三村家親の調略により自害に追い込まれた。この時に落ち延びさせた妻(円融院)は後に宇喜多直家の妻となる。しかし、これらを証明する当時の文書は見られず、当時の尼子氏との遣り取りで永禄年間に高田城を奪回した形跡も無ければ、むしろ毛利氏に従っていた三村氏からの攻撃を受けるまでに既に尼子氏の居城である月山富田城へと重臣・牧尚春が逃亡していることも確認されており、上記を記した史料は史実とは異なっている。
 自刃は永禄8年12月とする記録や、より具体的な永禄7年(1564年)12月15日とする説(三浦貞勝墓碑ほか)がある。22歳。

 生年は父・貞勝が死亡した永禄7年(1565年)以前と推定される。備中松山城主・三村家親により父が自害したため、母と共に備前国に逃れた。一説には備中に隠れたともされる。その後、母が宇喜多直家の室となったことから、義父の直家に育てられることとなったという。その後、元亀3年(1572年)異父弟の宇喜多秀家が産まれている。
 天正10年(1582年)、桃寿丸と秀家は羽柴秀吉に拝謁したとされる。天正12年(1584年)、京都に上った時に地震に遭い圧死し、美作三浦氏は断絶したという。享年は23と伝えられている。なぜ京都に上ったかは理由は不明。また、地震は天正12年11月29日(1584年12月30日)にあったとの記録があり、桃寿丸もこの時に被災した可能性があるが、文禄5年・慶長元年7月12日(1596年9月4日)の伏見地震で圧死したという説もある。 

三浦貞盛

 永禄7年12月15日(1565年1月17日)、甥であり三浦氏当主・三浦貞勝が三村家親により自害に追い込まれた。永禄9年(1566年)2月、家親が宇喜多直家に暗殺されると、貞盛は三浦氏家臣団に擁立され高田城を奪回した。
 永禄11年(1568年)2月19日、攻め寄せた毛利元就により高田城は落城、貞盛は討ち死を遂げた。