<継体朝>

K201:応神天皇  応神天皇 ― 継体天皇 K301:継体天皇

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継体天皇 安閑天皇

 第26代・天皇で、在位は507年3月3日?(継体天皇元年2月4日)~531年3月10日?(継体天皇25年2月7日)とされる。
 『記・紀』によれば、応神天皇5世の来孫であり、『日本書紀』の記事では越前国、『古事記』の記事では近江国を治めていたとされる。本来は皇位を継ぐ立場ではなかったが、第25代・武烈天皇が後嗣を残さずして崩御したため、大伴金村や物部麁鹿火などの推戴を受けて即位したとしている。先帝とは4親等以上離れている。太平洋戦争後、応神天皇5世というその特異な出自が議論の対象になった。ヤマト王権とは無関係な地方豪族が実力で大王位を簒奪し、現皇室にまで連なる新王朝を創始したとする王朝交替説と、それ以前の大王家と血縁関係のある傍系の王族の出身であるという『記・紀』の記述を支持する説がある。ただ、継体天皇は、前代の武烈天皇など実在が疑われる人物とは違い、実在が確定している天皇であり、現代まで繋がる全ての皇室の始祖であるとされている。漢風諡号「継体天皇」は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から名付けられたという。
 『日本書紀』によれば、450年頃に近江国高島郷三尾野で誕生したが、幼い時に父の彦主人王を亡くしたため、母・振媛は、自分の故郷である越前国高向に連れ帰り、そこで育てられ、「男大迹王」として5世紀末の越前地方を統治していたという。男大迹王は越前にとどまっておらず、父親の彦主人王の故郷の近江にも行き来していたか、近江を拠点にしていた可能性もある。
 506年に武烈天皇が崩御すると、大連・大伴金村,物部麁鹿火,大臣・巨勢男人ら有力豪族が協議し、まず丹波国桑田郡にいた14代・仲哀天皇の5世の孫である倭彦王を推戴しようとしたが、倭彦王は迎えの兵を見て恐れをなして山の中に隠れ、行方知れずとなってしまった。
 次に、群臣は越前国三国にいた男大迹王を迎えようとした。臣・連たちが節の旗を持って御輿を備えて迎えに行くと、男大迹王には大王の品格があり、群臣はかしこまり、忠誠を尽くそうとした。しかし、男大迹王は群臣のことを疑っており、大王に即位することを承知しなかった。群臣の中に、男大迹王の知人である河内馬飼首荒籠がいた。荒籠は密かに使者をおくり、大臣・大連らが男大迹王を迎え入れる本意を詳細に説明させた。使者は3日かけて説得し、その甲斐あって男大迹王は即位を決意し、大倭へ向けて出発したという。その後も男大迹王は自分はその任ではないと言って何度も即位を辞退するが、大伴金村らの度重なる説得を受けて、翌年の507年、58歳にして河内国樟葉宮において第26代・天皇として即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女(仁賢天皇皇女)を皇后とした。継体が大倭の地ではなく樟葉において即位したのは、樟葉の地が近江から瀬戸内海を結ぶ淀川の中でも特に重要な交通の要衝であったからであると考えられている。その後19年間は大倭入りせず、511年に筒城宮、518年に弟国宮を経て526年に磐余玉穂宮に遷った。
 対外関係としては、百済が新羅・高句麗に対抗するために、倭国へ軍事支援を要請してきたため、それに応じて救援の軍を九州北部に送ったものの、新羅と通じた筑紫君・磐井によって反乱が起こり、その平定に苦心している。また、『日本書紀』によれば、継体6年(512年)に百済から任那の四県の割譲を願う使者が訪れたとあり、倭国は大伴金村の意見によってこれを決定した。
 推定生年は『古事記』では485年、『日本書紀』では允恭天皇39年(450年?)とされ、推定崩年は『古事記』では丁未4月9日(527年5月26日?)、『日本書紀』では辛亥2月7日(531年3月10日?)または甲寅(534年?)とされている。崩年に関しては『日本書紀』によれば、531年に皇子の勾大兄(後の安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御したとしている。没年齢は『日本書紀』では82歳、『古事記』では43歳。都にいた期間は、『日本書紀』では5年間。『古事記』では1年間程である。

 継体天皇の後を受けて、66歳にして即位したが、わずか4年で崩御した。 安閑天皇の治世の出来事として『安閑記』に、関東から九州までの屯倉の大量設置と、41箇所の屯倉の名が列挙され、これに伴う犬養部の設置が記されている。
 なお、『日本書紀』に引く「百済本記」によれば、531年頃に天皇と太子・皇子が共に薨去したという所伝があるという。このことから、継体天皇の死後、安閑天皇,宣化天皇の朝廷と欽明天皇の朝廷が並立し、二朝間で内乱があったのではないかとする説もある。

宣化天皇 多治比三宅麻呂

 先の安閑天皇が崩御したとき、その子供がなかったために同母弟の宣化天皇が満69歳にして即位した。筑紫の官家の整備を行い、大伴金村に命じて新羅に攻められている任那に援軍を送った。
 即位元年(536年?)に蘇我稲目が大臣となり、子の蘇我馬子以降続く蘇我氏の全盛の礎が築かれることとなる。
 高齢での即位と、在位が3年余りと短いため、あまり主立った事績はない。また、安閑・宣化朝は、父・継体天皇死後直ぐに即位した弟の欽明天皇と並立していたとの説(辛亥の変仮説)もあるが、いずれにせよ、宣化天皇の血統も石姫皇女を通して、現在まで受け継がれることとなる。人柄は清らかで、君子らしい顔立ちをしていたといわれている。

 東山道巡察使を経て、慶雲元年(704年)従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵。慶雲4年(707年)、文武天皇の崩御に際して御装束司を務める。
 元明朝では、催鋳銭司,造雑物法用司が初めて設置されるとその官人に任ぜられる一方、和銅4年(711年)に正五位上、和銅6年(713年)に従四位下と順調に昇進し、元明朝末の和銅8年(715年)には従四位上・左大弁に叙任される。
 元正朝でも、民部卿,河内国摂官など歴任し、養老3年(719年)正四位下、養老5年(721年)正四位上と順調に昇進を続ける。また同年、参議に任ぜられたともされ、参議任官が事実であれば、既に大納言・多治比池守がいた多治比氏は藤原氏に続いて一族から同時に複数の議政官を出したことになる。しかし、翌養老6年(722年)、謀反を誣告したとして罪を得て、斬刑に処せられるところを皇太子・首皇子(のちの聖武天皇)の奏請によって減刑されて伊豆国への流罪となった。この誣告事件について、当時右大臣として実質的に太政官の首班に立っていた長屋王が、藤原四兄弟と政治路線の違いが顕在化しつつある中で、長屋王に反発していた新任参議の三宅麻呂を除いて、代わりに親交のある阿倍広庭(一説では長屋王の舅)を議政官に加えることで、少しでも太政官運営の円滑化を図ろうとしたという、策謀の結果とする見方もある。
 一説では、神亀2年(725年)6月22日配所で卒去。享年73。

宅部皇子 額田王
 用明天皇2年(587年)用明天皇の崩御後、物部守屋が次期天皇として穴穂部皇子を擁立しようと謀る。しかし、策謀が漏れて、炊屋姫(のちの推古天皇)を奉じた蘇我馬子の命令を受けた佐伯丹経手,土師磐村,的真噛により、穴穂部皇子と前後して殺害された。宅部皇子は穴穂部皇子と親しかったために一緒に討たれたという。物部氏とも深い関係にあり、妃が物部氏の娘だったとも考えられる。

 額田王(『万葉集』)の表記が一般的だが、額田女王,額田姫王(『日本書紀』),額田部姫王(『薬師寺縁起』)とも記される。『日本書紀』には、鏡王の娘で大海人皇子(天武天皇)に嫁し十市皇女を生むとある。鏡王は他史料に見えないが、「王」称から2世~5世の皇族(王族)と推定され、一説に宣化天皇の曾孫という。十市皇女の出生後、天武天皇の兄である中大兄皇子(天智天皇)に寵愛されたという話は根強いが確証はない。状況証拠は『万葉集』に収められた歌のみである。
 ・茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(巻1・20・額田王)
 ・紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(巻1・21・大海人皇子)
の2首などをめぐって天智・天武両天皇との三角関係を想定する理解が一般にあるが、近年では、この2首を宴席での座興の歌ではないかという見解が有力視され、学会では通説となっている。晩年の王の歌としては、持統天皇吉野行幸に際して弓削皇子と交わした贈答歌があり、行幸の時期から推測して60代前後までは確実に生存していたと推測されている。
 なお、談山神社所蔵の「栗原寺三重塔伏鉢」(国宝)銘文に見える「比売朝臣額田」について臣籍降下した額田王の改名とする説を唱えている。しかし、王族の額田王が朝臣姓を賜っている点はやや不審であり、もしこの説が正しいとすると額田王は当時の藤原氏一族の有力者であった藤原大嶋と再婚し80歳近くまで生きていたことになる。
 また、額田王が絶世の美人であったという通説があるが、額田王に関する記述に容貌について物語る史料はない。

鏡女王 三国麻呂

 素性は謎に包まれており、額田王の姉という説があるが、『日本書紀』等には2人が姉妹だという記述はなく確証はない。しかし、額田王の父・鏡王との血縁関係はなかったとしても、同じ「鏡」という名が付いていることから、同じく鏡を作る氏族に養育された可能性はある。また、鏡王女には舒明天皇の皇女ないし皇孫だという説もある。
 はじめ天智天皇の妃だったが、後に藤原鎌足の正妻となる。鎌足の病気平癒を祈り、天智天皇8年(669年)に山階寺(後の興福寺)を建立した。
 『日本書紀』の天武天皇12年7月4日、天武天皇が見舞いに来たが、その翌日に死去した。
 『万葉集』には四首の歌が収録されている。天智天皇,額田王,藤原鎌足との歌の問答が残されている。
 なお現在、墓所に比定されているのは奈良県桜井市にある小墳丘で、舒明天皇の押坂陵内にある。ただし、当時としては女王を娶れるのは王に限るという規則があり、そのためいくら鎌足が有力者であろうとも女王を娶れることはなく、後世の創作ともいわれる(鎌足の妻とするのは興福寺縁起のみ)

 飛鳥時代の豪族。大化5年(649年)、蘇我日向が偽って蘇我倉山田石川麻呂の謀反を報告したとき、孝徳天皇の命で石川麻呂を尋問した。白雉改元のきっかけとなった白い雉が穴戸国司から献上されたとき、雉をのせた輿を天皇の前に運んだ。