<継体朝>

K301:継体天皇  応神天皇 ― 継体天皇 ― 欽明天皇 K302:欽明天皇



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欽明天皇 用明天皇

 継体天皇と手白香皇女との間の息子である。継体天皇には即位までの妃との間に他にたくさんの子がいたが、嫡子は直系の広庭とされた。宣化天皇の妃が身罷った時に、先代・安閑天皇の皇后であった春日山田皇女を中継ぎとして推薦したがこれは辞退され、まだ若い広庭が539年(宣化天皇4年12月5日)に即位し欽明天皇となった。欽明は傍系が解消され現皇統へと続く祖となった。
 なお、天皇が皇女を皇后とするという流れは、仁徳天皇を唯一の例外とし、聖武天皇妃の光明皇后冊立まで続いた。
 大伴金村と物部尾輿を大連とし、蘇我稲目宿禰を大臣としたが、直後の540年(欽明天皇元年)に大伴金村は失脚する。これにより、物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがるが、特に蘇我氏とは541年(欽明天皇2年)に稲目の娘である堅塩媛や小姉君を妃とし、敏達天皇崩御後、彼女らの間にもうけた橘豊日皇子以降3人の弟・妹が、母親が皇族である押坂彦人大兄皇子を差し置いて約40年間にわたり大王(天皇)位につき、蘇我氏の全盛期が築かれる(ただ、当時は親子よりも兄弟の継承が一般的であった)。
 百済の聖明王の間とは541年より任那の復興について協議していたが、戦況は百済側に不利であり、552年には平壌と漢城を放棄(『三国史記』によれば538年)、さらに554年(欽明天皇15年)に新羅との戦で、聖明王が亡くなると新羅軍は勢いづき、562年(もしくは560年)に任那を滅ぼしてしまう。これに激怒した欽明天皇は562年(欽明天皇23年)に新羅に対して討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却する。同年、高句麗にも軍を送っている。なお、任那は一つの国ではなく十国が集まった連合であるという記載が『日本書紀』にある。欽明天皇は、最後まで任那復興を夢見ながら亡くなったという。第一皇子の箭田珠勝大兄皇子はすでに552年に早世していたため、554年に立太子させた渟中倉太珠敷皇子(敏達天皇)が即位した。 

 和風諡号は、『日本書紀』では橘豊日天皇、『古事記』では橘豊日命という。また、即位前の名称として大兄皇子とも称する。
都は磐余池辺雙槻宮。『日本書紀』によると、磐余池辺雙槻宮は5世紀前半に履中天皇が造った磐余池のほとりに建設されたとされている。
 敏達天皇の崩御を受け即位。大連と大臣は、物部守屋と蘇我馬子がそのまま引き継いだ。蘇我稲目の孫でもある用明天皇は、敏達天皇とは違って崇仏派であり仏法を重んじ、実質、王朝において仏教を公認、それが後の推古天皇以降の仏教隆盛につながった。
 一方、危機感を持った廃仏派の筆頭である物部守屋は、欽明天皇の皇子の一人の穴穂部皇子と通じていた。天皇は天然痘のため、在位2年足らずの用明天皇2年(587年?)4月9日(古事記では4月15日)に崩御した。宝算は36,41,48,67,69など諸説ある。なお、『日本書紀』に明記されている同母妹の推古天皇の生年(554年)や他12人もの同母兄弟姉妹の存在から、530年代後半から551年頃の生まれと推定することができるが、正確な生年・崩年は不明である。 

来目皇子 当麻皇子

 602年2月、任那を滅ぼした新羅に対する新羅征討計画の際、征新羅大将軍として軍2万5000を授けられる。4月に軍を率いて筑紫国に至り、島郡に屯営したが、6月に病を得て新羅への進軍を延期とした。征討を果たせぬまま、翌年(603年)2月4日、筑紫にて薨去。周防の娑婆に殯し、土師猪手がこれを管掌した。
 河内国埴生山岡上に葬られた。現在、同墓は大阪府羽曳野市3丁目の塚穴古墳に比定され、宮内庁の管理下にある。 

 推古天皇10年(602年)、征新羅大将軍であった異母弟の来目皇子が薨去した後、翌推古天皇11年(603年)4月に征新羅将軍となった。難波から船で出発したが、播磨国明石で妻である舎人皇女が薨去したことから、皇女を明石に葬った後、引き返したという。 


当麻広嶋 当麻国見
 当摩氏(当麻氏)は用明天皇の皇子である当麻皇子の子孫にあたる皇族系の氏族である。当摩公広島は、672年の壬申の乱が勃発したときに吉備国の守であった。吉備に軍を発するよう命じる使者を出した大友皇子は、広島がかつて大海人皇子(天武天皇)の下についていたことから、広島も反乱に同調するのではないかと疑った。そこで、大友皇子は「もし服従しない様子があったら、殺せ」と使者の樟磐手に命じた。磐手は吉備国について符(命令書)を授ける日に、広島を欺いて刀を解かせた。それから自分の刀を抜いて広島を殺した。

 壬申の乱の功臣で、天武・持統・文武の三代の天皇に仕えた。また、当麻寺の開山に携わったと伝えられる。
 壬申の乱時の国見の行動は『日本書紀』に見えないが、『続日本紀』の大宝元年(701年)7月21日条には、かつて功臣として100戸の封戸を与えられたことが記されており、天武方で何らかの活躍をしたことが分かる。天武天皇13年(684年)10月に八色の姓が制定されると、当麻公姓を改め当麻真人姓を賜与された。
 朱鳥元年(686年)9月27日、天武天皇の葬儀に際して、直大参の位にあった当摩国見は左右兵衛のことを誅した。これにより、天武朝で軍事に関わっていたことがわかる。持統天皇10年(696年)2月28日、直広壱の位であった国見は東宮大傅に任じられたが、下僚として路跡見が春宮大夫、巨勢粟持が春宮亮に任じられている。東宮大傅は皇太子の教育職で、この場合、軽皇子(後の文武天皇)のための人事である。軽皇子は翌年(697年)8月1日に即位したため、この時に国見の東宮大傅の任も解かれたと思われる。
 文武天皇3年(699年)10月20日、衣縫王,当麻国見,土師根麻呂,田中法麻呂が、判官4人・主典2人・大工2人を引きつれ、越智山陵を修造するために派遣された。国見の位はこのとき直大壱であった。その後の活動は見えない。 

当麻広麻呂 推古天皇

 『日本書紀』が壬申の乱について記すくだりに当麻広麻呂の名は見えないが、死亡時の贈位記事によって功があったことが知られる。
 天武天皇4年(675年)4月8日に、当摩広麻呂と久努麻呂は、天皇によって朝廷への出仕を禁じられた。理由は不明である。後に許されたと思われるが、その記述はない。広麻呂のこのときの姓は公、位は小錦上であった。当麻公は、天武天皇13年(684年)10月1日の八色の姓制定の日に、真人の姓を与えられた。
 天武天皇14年(685年)5月19日に当麻真人広麻呂は直大参の位で死去。壬申の年の功によって、直大壱の位を贈られた。

 『日本書紀』敏達紀では、571年に異母兄・渟中倉太珠敷皇子(敏達天皇)の妃となり、575年11月の皇后広姫の崩御を承け576年4月23日、皇后に立てられた。585年9月15日に敏達天皇が崩御した。敏達天皇との間に2男5女をもうけた。
 586年5月、敏達天皇の殯宮に穴穂部皇子が侵入し、皇后を犯そうとした。寵臣・三輪逆に助けられたが、逆は穴穂部皇子に同調した物部守屋らに追い詰められ殺された。その後、皇后は穴穂部皇子との関係を強要された。
 その後、用明天皇が2年ほど皇位に在ったが、587年5月21日に崩御した後、穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を支持する蘇我馬子が戦い、蘇我氏の勝利に終わった。そこで皇太后(額田部皇女)が詔を下して泊瀬部皇子に即位(崇峻天皇)を命じたという。しかし、5年後の592年12月12日には崇峻天皇が馬子の指図によって暗殺されてしまい、翌月である12月(旧暦12月8日)に、先々代の皇后であった額田部皇女が、馬子に請われて豊浦宮において即位した。時に彼女は39歳で、史上初の女帝となった(ただし、神功皇后と飯豊皇女を歴代から除外した場合)。
 その背景には、皇太后が実子の竹田皇子の擁立を願ったものの、敏達の最初の皇后が生んだ押坂彦人大兄皇子(舒明天皇の父)の擁立論が蘇我氏に反対する勢力を中心に強まったために、馬子と皇太后がその動きを抑えるために、竹田皇子への中継ぎとして即位したのだと言われている(だが、竹田皇子は間もなく薨去)。
 593年5月15日、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させた。厩戸の父は用明天皇、母も異母妹の穴穂部間人皇女の間柄であったことが厩戸を起用する背景になったと見られている。
 推古天皇は頭脳明晰な人で、皇太子と大臣馬子の勢力の均衡を保ち、豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図った。在位中は蘇我氏の最盛期であるが、帝は外戚で重臣の馬子に対しても、国家の利益を損じてまで譲歩したことがなかった。このような公正な女帝の治世のもと聖徳太子はその才能を十分に発揮した。
 628年4月15日、75歳で小墾田宮において崩御。死の前日に、女帝は敏達天皇の嫡孫・田村皇子(のちの舒明天皇)を枕元に呼び、謹しんで物事を明察するように諭し、さらに聖徳太子の子・山背大兄王にも他人の意見を納れるように誡めただけで、後継者の指名は避けたようである。
 『古事記』によると、亡くなった年の9月20日に喪礼が執り行われ、遺令によって女帝の亡骸は息子・竹田皇子が眠る墓に合葬されたが、後年(時期不明)、河内国磯長山田陵に改葬されたという。

穴穂部間人皇女 穴穂部皇子

 聖徳太子の生母として知られる。「穴穂部」の名は、石上穴穂宮で養育されたことに由来すると考えられている。なお「間人」の名を持つ皇女は他に舒明天皇皇女(孝徳天皇皇后)がいるが、単に間人皇女と呼ばれることが多い。
 厩戸皇子(聖徳太子),来目皇子,殖栗皇子,茨田皇子を産む。用明天皇崩御後は、用明天皇の第一皇子・田目皇子(多米王;聖徳太子の異母兄)に嫁し佐富女王を産んだ。
 また、穴穂部間人皇女にとっての長子である聖徳太子は574年2月7日?の出生で、末子である佐富女王は588年?以降の出生であることから、女性の出産年齢を考えると、550年代の生まれであると推定できる。
 橘豊日尊皇子(のちの用明天皇)の妃であった時に、諸司巡行中、厩の戸口で厩戸王(聖徳太子)を難なく出産したという『日本書紀』の逸話は有名であるが、これは中国に伝来したキリスト教の異端派である「景教」(ネストリウス派)がもたらした新約聖書の福音書にある「キリストの降誕」を元にしたとの説があるなど、史実かどうか疑われている。実際、厩戸は地名に由来するとの説もある。なお、天寿国繍帳左上の亀形に「部間人公」の4字が確認できるが、これは人名「孔部間人公主」の一部で、穴穂部間人皇女のことだと考えられる。

 穴穂部皇子は皇位を望んでおり、585年8月、兄・敏達天皇が崩御し、殯宮で葬儀が行われた際に「何故に死する王に仕え、生きる王(自分)に仕えないのか」と憤慨した。ところが、同年9月に大臣・蘇我馬子の推す大兄皇子(用明天皇)が即位したため、これに対抗し大連・物部守屋と結んだ。
 586年5月、炊屋姫(後の推古天皇)を犯さんと欲し、殯宮に押し入ろうとした。これに対し先帝の寵臣・三輪逆は門を閉じて拒み、穴穂部皇子は7度門前で呼んだが、遂に宮に入ることができなかった。穴穂部皇子は蘇我馬子と物部守屋に三輪逆は不遜であると相談し、馬子らはこれに同意。守屋は兵を率い磐余池で三輪逆を包囲するが、三輪逆は逃れて炊屋姫の後宮に隠れた。しかし、密告により居所を知ると、穴穂部皇子は三輪逆とその子らを殺すよう守屋に命じ、守屋は兵を率いて向かった。その後、報告を聞こうと守屋のもとへ赴こうとするが、これを知りかけつけた馬子と門前で出会い「王者は刑人に近づくべからず」と諫言されるが、穴穂部皇子は聞き入れようとしなかった。馬子は仕方なくついて行き、磐余に至ったところで再度諫言、穴穂部皇子もこれに従い、胡床に座り守屋を待ち、戻ってきた守屋から三輪逆を斬ったと報告を受けた。なお、馬子は「天下の乱は近い」と嘆くが、守屋は「汝のような小臣の知るところにあらず」と答えている。
 587年4月2日、用明天皇は病になり仏法を信奉したいと欲し群臣に諮った。排仏派の守屋は反対したが、崇仏派の馬子は詔を奉じて助けるべきとして、穴穂部皇子に僧の豊国を連れて来させた。守屋は自分が推していた穴穂部皇子が法師を連れてきたことに大いに怒り睨みつけた。その後、守屋は群臣から命を狙われていると知らされて、別業の阿都(河内国)へ退いた。
 同年4月9日、用明天皇は崩御したが、後嗣が定まらず皇位は一時的に空位となった。そのため同年5月、守屋は穴穂部皇子を天皇に立てんと欲し、密使を皇子に送り、遊猟に出ると欺いて淡路へ来るよう願った。これに対し同年6月7日、蘇我馬子は炊屋姫を奉じて、佐伯連丹經手,土師連磐村,的臣眞に速やかに穴穂部皇子と宅部皇子を誅殺するよう詔した。その日の夜半、佐伯連丹經手らは穴穂部皇子の宮を囲んだ。穴穂部皇子は楼を登ってきた衛士に肩を斬られると、楼から落ちて隣家へ走り入ったが、灯をかかげた衞士らによって探し出され殺害された。なお、翌8日には穴穂部皇子と仲が良かった宅部皇子も誅殺され、同年7月には馬子によって物部守屋も滅ぼされている。

崇峻天皇 蜂子皇子

 大臣の蘇我馬子によって推薦され即位した。一方、大連の物部守屋は、穴穂部皇子を即位させようとはかるが、穴穂部皇子は蘇我馬子によって逆に殺されてしまう。その後、蘇我馬子は、物部守屋を滅ぼし、これ以降物部氏は没落してしまう。
 物部氏の没落によって欽明天皇以来の崇仏廃仏論争に決着が付き、法興寺(飛鳥寺)や四天王寺などの造寺事業を積極的に行った。しかし、即位したあとでも政治の実権は常に馬子が握っており、次第に不満を感じるようになった。
 592年10月4日に、猪を献上する者があった。天皇は笄刀を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言。そのことを聞きつけた馬子が「天皇は自分を嫌っている」と警戒し、部下に暗殺命令を下した。そして、東国の調を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で東漢駒に暗殺をさせた。臣下により天皇が殺害されたのは、確定している例では唯一である。死亡した当日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことは、他に例がない。「王殺し」という異常事態下であるにも関わらず、天皇暗殺後に内外に格段の動揺が発生していないのは、馬子個人の策動ではなく多数の皇族・群臣の同意を得た上での「宮廷クーデター」であった可能性も指摘されている。

 562年に崇峻天皇の第三皇子として誕生したと伝わる。592年11月3日に、蜂子皇子の父である崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺されたため、馬子から逃れるべく蜂子皇子は聖徳太子によって匿われ宮中を脱出して丹後国由良から海を船で北へと向った。そして、現在の山形県鶴岡市由良にたどり着いた時、八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見て、皇子はその美しさに惹かれて、近くの海岸に上陸した。八乙女浦という地名は、その時の八人の乙女に由来する。蜂子皇子はこの後、海岸から三本足の烏(ヤタガラスか?)に導かれて、羽黒山に登り羽黒権現を感得し、出羽三山を開いたといわれている。
 羽黒では、人々の面倒をよく見て、人々の多くの苦悩を取り除いたことから、能除仙や能除大師,能除太子などと呼ばれるようになった。現在に残されている肖像画は、気味の悪いものが多いが、多くの人の悩みを聞いた結果そのような顔になったともいわれている。出羽三山神社にある皇子の墓(東北地方で唯一の皇族の墓)は、現在も宮内庁によって管理されている。