<継体朝>

K324:村上天皇  村上天皇 ― 一条天皇 K325:一条天皇


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一条天皇 脩子内親王

 永観2年(984年)、花山天皇の時、皇太子に立てられる。寛和2年(986年)6月23日(8月1日)、花山天皇が内裏を抜け出して出家したため、数え年7歳で即位した。これは孫の早期即位を狙った兼家の陰謀と言われる(寛和の変)。皇太子には冷泉天皇の皇子・居貞親王(のちの三条天皇)を立て、摂政に藤原兼家が就任した(のちに関白)。
 兼家の死後は長男の道隆が引き続き外戚として関白を務め、一条天皇の皇后に娘の定子を入れ中宮を号させるが、長徳元年(995年)に病没。代わりに弟の道兼が関白に就任するがわずか7日後に没し、道隆の子・伊周との争いに勝利した道隆,道兼の弟・道長が、姉で天皇の生母・詮子の推挙を受け、内覧となって実権を掌握した。道長は先に中宮を号していた定子を皇后宮と号し、娘の彰子も皇后に立てて中宮を号させることで、一帝二后の先例を開いた。
 一条天皇の時代は道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后・定子に仕える清少納言、中宮彰子に仕える紫式部,和泉式部らによって平安女流文学が花開いた。天皇自身、文芸に深い関心を示し、『本朝文粋』などに詩文を残している。音楽にも堪能で、笛を能くしたという。また、人柄は温和で好学だったといい、多くの人に慕われた。
 また、道長が内覧に留まったのは、当時閣議に出られない決まりがあった摂政・関白よりも、内覧を兼ねたまま一上(閣員の首座)として実権を掌握しようとしたためと見られるが、天皇自身も長ずるにつれ、曽祖父の醍醐天皇,祖父の村上天皇のような親政を志したとされる。道長も天皇と協調し、これにより、後に大江匡房が『続本朝往生伝』で藤原実資や藤原行成等の有能な人材を輩出したと称えたほど、有為な政治体制が確立した。
 その一方で、『愚管抄』には天皇崩御後、道長・彰子は天皇の遺品の整理中に一通の手紙を発見し、その中には「三光明ならんと欲し、重雲を覆ひて大精暗し」と書かれていて、これを「道長一族の専横によって国は乱れている」という意味に解した道長はその文を焼き捨てたという一件がある。似たような話が同時期の『古事談』にも記載され、晩年に定子が生んだ敦康親王を次期東宮に望みながら、これを道長に阻まれたことが『権記』に記されている。このことから、天皇と道長・彰子の関係が決して良好ではなかったと見る説もある。
 かねてより譲位の意向を道長に伝えていたが、慰留されるうちに寛弘8年(1011年)5月末頃には病が重くなり、同年6月13日に皇太子・居貞親王に譲位する。19日出家するが、22日に崩御。辞世の歌は「露の身の 草の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる ことをこそ思へ」(御堂関白記)。ただし『権記』では「事ぞ悲しき」となっている。 

 早くに母を亡くしたが、父の意向で宮中で育った。鍾愛の皇女であったことから、父は脩子を著裳とともに三品に直叙、寛弘4年(1007年)1月、12歳の時には、一品に叙すとともに准三宮の待遇を与え、本封のほか1,000戸を加えた。このときの詔書は『大日本史』に収録されている。父の死後、藤原道長,彰子の庇護のもとにいるのを潔しとせず、両人の不興を承知のうえで叔父・藤原隆家の屋敷へ移った。その後、長和2年(1013年)1月27日に三条宮に遷御したことが『小右記』に見える。
 彰子のもとに引き取られた同母弟の敦康親王とは別々に暮らしていたが『栄花物語』は敦康が20歳で死去した際には非常に嘆き悲しんだという逸話を伝える。たいへん信心深く、治安4年(1024年)3月に落飾、入道一品宮などと称された。高貴な皇女の多くがそうであったように、終生未婚であったが、藤原頼宗の次女・延子(母は藤原伊周女で脩子内親王の従姉妹)を養女とし、延子が後朱雀天皇に入内した際には養母として付き添った。『栄花物語』によれば、脩子は書に長じ、またそのそばには琴や琵琶を能く弾く人々が多くはべっていたため、延子も箏の琴に優れていたという。永承4年(1049年)に死去した際、葬送の日がちょうど釈迦入滅の日であったため、時人は「成仏間違いなし」と称したと『後拾遺和歌集』は伝えている。
 脩子は外戚の零落後に生まれ、同母弟の敦康親王同様、後見人に恵まれなかったが、父・一条天皇は長女である内親王を非常に可愛がり、また天皇の近臣たちもそれを熟知していたために、彼女のためによく奉仕したことが『権記』『小右記』などに散見する。また、彼女は後一条・後朱雀の両天皇(ともに彰子所生)にとって、異母姉とはいえただひとりの姉であったため、生涯を通して朝廷でそれなりに尊重された。
 なお、彼女は『枕草子』の伝来に関係したらしい(枕草子能因本奥書)。また、歌人・相模が仕えたことでも知られる。寛仁4年(1020年)頃、三条宮西に住む菅原孝標女が内親王家から「めでたき草子ども」を下賜されたというエピソードが『更級日記』にある。

敦康親王 後一条天皇

 長保元年(999年)、中宮大進・平生昌邸において誕生。后腹の第1皇子であったが、当時外祖父である中関白・藤原道隆は既に亡く、また伯父・伊周の失脚で母の実家は没落し力を失っていた。しかも敦康の誕生と同日に藤原道長の長女・彰子が女御宣下を受けていた。
 誕生翌年の長保2年(1000年)4月18日、親王宣下を受けたが、同年末、2歳で母后を失った。その後、母后の末妹(御匣殿、道隆4女)が母代として宮中で親王とその姉妹の脩子・媄子両内親王を養育した。しかし、御匣殿も程なく没したため、父帝の配慮でまだ子がなかった中宮彰子に養育が託され、他の姉妹と離れて彰子の局飛香舎に移された。長保3年(1001年)11月13日、同所にて着袴。同年、天皇側近の藤原行成が親王家の勅別当に任命された。
 中宮彰子は親王を愛情を込めて育てたが、道長は全く別の意味で親王に奉仕していた。道長はかつて親王の外舅伊周・隆家兄弟を失脚させ、親王の生母・定子にも非礼を働いていた。道長にとって、敦康親王は彰子に皇子誕生がなかった時の保険に過ぎず、そのため、寛弘5年(1008年)9月、彰子に第2皇子敦成親王(のちの後一条天皇)が生まれると、道長は敦康親王への奉仕を放棄し、ひたすら敦成親王の立坊・即位を望むようになる。
 寛弘7年(1010年)1月29日、伯父・伊周が薨去。正二位准大臣の高位にあった伯父の死は、敦康親王の立場をさらに弱めた。同年7月17日、親王は道長の加冠により元服し、三品大宰帥に任ぜられた。翌寛弘8年(1011年)6月2日、一品に叙せられ三宮に准ぜられた。これに先立ち、5月27日、譲位を考えていた一条天皇は敦康親王立太子の可否を親王家別当の行成に問うたが、行成は文徳天皇の惟喬親王の例を引き、執政者・道長の賛成が得難く政変の可能性まであるとした上で、親王の母后の外戚家高階氏が伊勢の大神宮に憚る所ありと言い、諌止した。このため、敦康親王叙一品の10日後、皇太子に立てられたのは4歳の異母弟・敦成親王であった。中宮彰子は天皇と自分の意向に逆らった父・道長を怨んだという。
 敦康親王は『大鏡』に「御才いとかしこう、御心ばへもいとめでたうぞおはしましし」と記され、その才華・人品は当時の公卿日記にも詳しい。后腹の第1皇子が立太子できなかったのは異例のことで、世人は親王に多大な同情を寄せたという。
 長和年間の敦康親王は、自邸で作文会・歌合・法華八講を催し、大井河に遊覧するなど、風雅の道に生きた。長和2年(1013年)12月10日、中務卿・具平親王の次女を娶る。長和5年(1016年)1月29日、式部卿に転じた。寛仁2年(1018年)12月17日、俄かに発病し、出家の後、薨去。享年20。
 親王は道長の嫡男摂政頼通と親しく、相婿となり家を共にしていた。薨去後、親王妃は出家し、残された嫄子女王は頼通・隆姫女王夫婦に引き取られ、のちに後朱雀天皇に入内した。 

 誕生の様子は『紫式部日記』に詳しく、道長にとって待望久しい外孫皇子出生はその後の一族の栄華の初花となる。
 長和5年2月7日(1016年3月24日)、8歳で即位したため、道長が摂政となり権勢を振るった。道長の娘で叔母にあたる威子を中宮とし、(外戚の地位を藤原氏御堂流以外に渡すまいという藤原頼通と母・彰子の意向により)この時代には珍しく他の妃を持たなかったが、皇子女は内親王2人のみで世継ぎの皇子には恵まれぬまま、29歳で崩御した。『栄花物語』によると、飲水と痩身の症状の記載があり、糖尿病によるものと考えられている。突然の崩御であったため、譲位の儀式が間に合わなかった。『日本紀略』や『今鏡』では遺詔により、喪を秘して敦良親王への譲位の儀を行ったとされている。この件により、在位中に天皇が崩御した場合でも、喪を秘して譲位の儀を行い、その後に上皇としての葬儀が行われるようになった。

章子内親王 馨子内親王

 万寿4年(1027年)内親王宣下。長元3年(1030年)着袴と共に准三宮・一品に叙される。同9年(1036年)に父・後一条天皇と母・中宮威子が相次いで崩御、幼くして両親と死別した。
 長暦元年(1037年)着裳、12歳で皇太子・親仁親王(のちの後冷泉天皇)に入内。寛徳2年(1045年)、親仁親王の受禅に伴って女御宣下を受け、永承元年(1046年)中宮に冊立される。治暦4年(1068年)皇太后、その2日後に後冷泉天皇崩御。延久元年(1069年)落飾、太皇太后となり、同6年(1074年)院号宣下を受けて、以後、二条院と称する。長治2年(1105年)崩御。享年80。
 後一条天皇の第一子に生まれ、期待された男子ではなかったが両親に非常に鍾愛された。温順な性格の美しい皇女であったという。両親亡き後は祖母(母方では伯母)上東門院彰子の庇護を受けて成長し、東宮妃として入内した。道長の死後はその子息たちが後宮政策で互いに牽制し合う状況にあり、当時は関白・頼通の娘がいまだ幼かったため恐らく折衷案として、道長一族に連なり上東門院の後見を受ける章子内親王が選ばれたと思われる。後に頼通の娘・寛子入内に際して、内親王がこのまま中宮でよいと言ったという話が『栄花物語』に見えるが、これは先帝・後朱雀天皇の後宮で同じく中宮であった禎子内親王(章子内親王には母方の従姉妹にあたる)が頼通の養女・嫄子の立后で皇后に押し上げられ、宮中入りもままならなかった状況を見ていたためでもある。
 とはいえ、高貴でおっとりした人柄であったという章子内親王は、夫・後冷泉天皇が他の妃を寵愛しても気にすることなく、従って頼通らとの関係も穏やかだった。また夫帝や後見の上東門院没後も、国母ではない后としては初めてとなる女院号の宣下さえ受けて、安定した余生を送ったようである(ただし女院宣下については、時の白河天皇女御・藤原賢子を立后させるためだったともいわれ、非国母の故か院分受領は給わっていない)。夫帝との間にはついに子は恵まれなかった。
 陵墓は父・後一条天皇と同じく、菩提樹院陵。

 長元4年(1031年)着袴、二品に叙される。同年、賀茂斎院に卜定、准三宮。同9年(1036年)に父・後一条天皇が崩御したため斎院を退下。その後は上東門院彰子の元で養育され、永承6年(1051年)、皇太子・尊仁親王(のちの後三条天皇)に入内。治暦4年(1068年)後三条天皇が即位、それに伴い、翌延久元年(1069年)中宮に冊立される。同4年(1072年)後三条天皇退位、翌同5年(1073年)、病の後三条上皇と共に出家するがまもなく上皇は崩御。延久6年(1074年)皇后宮となり、寛治7年(1093年)崩御。享年65。
 姉の章子内親王に続いての皇女であったため、馨子内親王の誕生に際して皇子を期待していた宮中の反応は冷ややかなものであったという。その後わずか3歳で大斎院選子内親王の退下を受けて斎院に選ばれ、宮中を離れることとなった。母后威子は馨子内親王を特に可愛がり、斎院にも時折行啓した。
 両親の相次ぐ崩御で斎院を退下の後は、姉と共に祖母(叔母でもある)上東門院に引き取られて養育され、当時としては遅い23歳で18歳の東宮・尊仁親王(のちの後三条天皇)に入内する。これも上東門院の意向であったが、尊仁親王とその生母・禎子内親王は先帝・後朱雀天皇の時代から藤原頼通らと対立しており、馨子内親王の入内もその溝を埋めることはかなわなかった。また尊仁親王には添伏として入内した御息所・藤原茂子(藤原能信養女)がおり、馨子内親王の入内は茂子が第一子を出産後間もなくであったのだが、その後も尊仁親王と茂子の間には合計1皇子4皇女が生まれ、さらに茂子の死後は、源基子が尊仁親王の寵愛を受けて2皇子を産んでいる。後冷泉天皇に皇子誕生が見られず焦っていた頼通や上東門院は、摂関家と縁の深い内親王を東宮妃に入れることで打開を図ったと見られるが、馨子内親王には夭折した1皇子1皇女がいたきりであった。
 やがて、後冷泉天皇が嗣子なくして崩御、後三条天皇が即位して馨子内親王も中宮に冊立される。しかし母后・禎子内親王が女院陽明門院となって天皇の後ろに控え、天皇の寵愛は女御・基子がもっぱらにしているのに対して、馨子内親王は正妃とはいえ皇女さえも持たない后であった。その頃には頼むべき摂関家も既に昔日の面影はなく、後三条天皇が在位5年足らずで退位の後他界してからは、落飾した馨子内親王は西院で余生を送り「西院皇后」と称された。 

後朱雀天皇 後冷泉天皇

 後一条天皇の即位に伴い皇太子となった敦明親王が、寛仁元年(1017年)自ら皇太子を辞退したため、その後を受けて皇太子となる。同5年(1021年)、道長の6女で叔母にあたる嬉子が東宮妃として入内、万寿2年(1025年)に待望の第一皇子親仁(後冷泉天皇)が生まれるが、嬉子は産後の肥立ちが悪く2日後に急逝した。その後、道長の外孫で従姉妹の禎子内親王が入内し第二皇子・尊仁(後三条天皇)始め1男2女を出産、それとは対照的に兄・後一条がついに皇子の誕生を見ぬまま崩御したため、その後を受けて即位した。
 即位後は関白・藤原頼通が養女・嫄子を入内させて中宮に立てたのを始め、その弟・藤原教通が娘・生子を、同じく藤原頼宗が娘・延子を相次いで入内させたが、いずれも皇子を出産することはなかった。
 この時期荘園の増加によって国家財政が危機的状態にあり、その整理が必要とされていた。それら荘園の主たる領主が頼通ら権門であった。天皇は長久元年(1040年)に荘園整理令に着手するが、結果的には権門擁護策に終わる(増加の抑制の成果については肯定的な見方もある)。
 治世の間、皇后・禎子内親王とその皇子・尊仁親王は関白らに冷遇されていたが、後朱雀天皇が里内裏東三条第において病に倒れて譲位を決断した際、皇后を支援していた藤原能信の働きで尊仁親王を次期皇太子にするよう遺詔を発したと言われる。病(肩の悪性腫瘍)により寛徳2年1月16日(1045年2月5日)、親仁(後冷泉天皇)に譲位し、太上天皇となる。その2日後に出家、同日崩御。宝算37。

 治世下では、荘園の増加によって国家財政が危機的状態にあり、その整理が必要とされていた。それら荘園の主たる領主が藤原頼通ら権門であった。天皇は即位早々の寛徳2年、及び天喜3年(1055年)に荘園整理令に着手するが、結果的には権門擁護策に終わる。
 頼通の娘・寛子を皇后とした。頼通は一人娘の寛子に皇子誕生の望みをかけ、その暁には皇太弟・尊仁親王(後三条天皇)と交代させようとして皇太弟を冷遇したが、遂に皇子は生まれなかった。後冷泉天皇の崩御により、異母弟で藤原氏を直接の外戚としない後三条天皇が即位することになる。 

良子内親王 娟子内親王

 父・後朱雀天皇即位に伴い、長元9年(1036年)11月28日、8歳で斎宮に卜定(妹の娟子内親王も同日に斎院卜定)。同年12月、内親王宣下と共に二品。長暦元年(1037年)4月3日、大膳職へ初斎院入り。同年9月17日野宮へ入り、長暦2年(1038年)9月11日に伊勢へ下向(長奉送使は権中納言・藤原資平)。長久3年(1042年)6月裳着、一品。寛徳2年(1045年)1月准三宮、同16日、後朱雀天皇譲位により17歳で退下。同年4月28日に帰京の後は、母・禎子内親王の下で弟妹らと暮らしたと思われる。承暦元年(1077年)、疱瘡のため49歳で死去した。
 良子内親王の伊勢下向(群行)に際しては、同行した藤原資房(藤原資平の子)がその日記『春記』に詳細な記録を残しており、現在のところ群行に関する唯一の同時代史料として注目されている。また、長暦4年(1040年)5月6日に催された「斎宮良子内親王貝合」は、作者不明の『斎宮貝合日記』により雅やかな儀式の詳細が記されており、これも最古の貝合記録として貴重である。 

 父・後朱雀天皇の即位により、姉・良子内親王の伊勢斎宮卜定と同日の長元9年(1036年)11月28日、賀茂斎院に卜定され、翌長暦元年(1037年)4月13日初斎院入りする。この人事は姪の禎子内親王と不仲だった藤原頼通が禎子内親王をくじくために娘を遠方に引き離す戦略だったと説明されることが多い。だが、去ること長元4年(1031年)、当時の伊勢斎宮であった具平親王第3王女・嫥子女王が酒乱に乗じて「ご託宣」と称し「斎宮の冷遇は天皇の失政」として非難した事件があった。このため、伊勢・賀茂の祭祀を天皇家が怠っていないことを表明するため、天皇実娘を斎宮、斎院に任命したとする説が近年有力である。
 寛徳2年(1045年)1月18日、後朱雀上皇の崩御により退下。その後は禎子内親王の下で生活していたが、天喜5年(1057年)、3歳年下の源俊房と密通し、遂に俊房の屋敷へ駆け落ちしてしまった。俊房は伯母・隆姫女王が藤原頼通の正妻、母は頼通の異母妹・尊子という「摂関家よりの人物」であり、これを知った弟の東宮・尊仁親王(後の後三条天皇)は怒り狂ったが、俊房が摂関家の縁者であることもあり、除位などの具体的な処罰までには至らなかった。しかし、この事件で皇女らしからぬ軽率な行動をとった娟子内親王は、その後、狂斎院と呼ばれるようになる。
 俊房との間には子女に恵まれなかったが、その後は俊房正室として厚く遇された。しかし、甥の白河天皇が即位すると、「後三条天皇の遺言」を盾に白河天皇の異母弟・実仁親王,輔仁親王を東宮に推す夫・俊房と、自分の子孫を天皇に据えたい白河天皇は次第に対立するようになる。
 康和5年(1103年)、白河天皇の息子・堀河天皇に皇子(後の鳥羽天皇)が生まれる。この皇子が生後間もなく東宮とされ、俊房は失脚、その後は失意の生涯を送った。娟子内親王は鳥羽天皇と入れ替わるようにこの年薨去、夫の零落を見ることはなかった。 

後三条天皇 篤子内親王

 敦良親王(のちの後朱雀天皇)の第2王子として生まれる。父の即位に伴い、長元9年(1036年)12月に親王宣下を受ける。異母兄・親仁親王(後冷泉天皇)の即位にあたり、寛徳2年(1045年)1月16日、12歳で皇太弟となる。
 生母が藤原氏の出でないため、関白・藤原頼通,教通兄弟に疎んじられたが、彼らの異母弟・能信の支援を受けたと言われている。『今鏡』によると、後朱雀天皇が尊仁親王を兄・親仁親王の皇太弟にと考えていたのを頼通が抑えていたのに対し、能信が強く薦めて、その遺詔により皇太弟となることができたとある。しかし、頼通や教通は、後冷泉天皇の後宮に娘を入内させて外祖父として権力を握るために、尊仁親王に対し陽に陰に圧迫を加えていた。
 後冷泉天皇は、正式な后妃との間には、ついに成長した皇子に恵まれることのないまま崩御し、尊仁親王が即位した。
 頼通が失意のあまり引退した後、上東門院彰子の推挙で弟の教通を関白にしたが、反摂関家の急先鋒で東宮時代の天皇を庇護していた故能信の養子の藤原能長や、村上源氏の源師房や源経長等を登用して摂関家の政権独占打破を図り、大江匡房や藤原実政等の中級貴族などを登用し、積極的に親政を行った。また、源隆国のように、東宮時代の天皇を頼通に気兼ねして蔑ろにしていた者に対しても、隆国の子息の俊明を登用する等、決して報復的態度を取らないように公正な態度を示した。
 後三条天皇は桓武天皇を意識し、大内裏の再建と征夷の完遂を打ち出した。さらに大江匡房らを重用して一連の改革に乗り出す。延久元年(1069年)には画期的な延久の荘園整理令を発布して記録荘園券契所を設置し、延久2年(1070年)には絹布の制、延久4年(1072年)には延久宣旨枡や估価法の制定等、律令制度の形骸化により弱体化した皇室の経済基盤の強化を図った。特に延久の荘園整理令は、今までの整理令に見られなかった緻密さと公正さが見られ、そのために基準外の摂関家領が没収される等、摂関家の経済基盤に大打撃を与えた。このことが官や荘園領主,農民に安定をもたらし、『古事談』はこれを延久の善政と称えている。一方、摂関家側は頼通・教通兄弟が対立関係にあり、外戚関係もなかったために天皇への積極的な対抗策を打ち出すことができなかった。
 また、同時代に起きた延久蝦夷合戦にて、津軽半島や下北半島までの本州全土が朝廷の支配下に入る等、地方にも着実に影響を及ぼすようになる。
 延久4年(1072年)、即位後4年にて第一皇子の貞仁親王に譲位して院政を開こうと図ったが、翌年には病に倒れ、40歳で崩御した。尚、近年の研究では、天皇の退位は院政の実施を図ったものではなく、病によるものとする説が有力である。後三条天皇の治世は摂関政治から院政へ移行する過渡期としての役割となった。 

 康平5年(1062年)に3歳で母・茂子と死別、その後は祖母・陽明門院のもとで養われる。治暦4年(1068年)、父の後三条天皇の即位により内親王宣下。延久元年(1069年)6月、三品に叙される。同5年(1073年)3月11日、斎院に卜定されたが、同年5月7日、父上皇の崩御により在任2ヶ月弱という歴代斎院中最短期間で退下した。承暦3年(1079年)准三宮。寛治5年(1091年)10月、関白・藤原師実の養女として、甥の堀河天皇に入内、女御の宣旨を受ける。同7年(1093年)2月、中宮に冊立される。嘉承2年(1107年)7月、夫の堀河天皇が崩御、同年9月に出家。永久2年(1114年)没。享年55。
 斎院退下ののちひっそりと暮らしていた篤子内親王は、30歳近くになってからの縁談、しかも相手が19歳も年下の甥であることを恥ずかしがったという。兄の白河上皇や後見の陽明門院の意向であろうとも言われるが、『今鏡』では「幼くより類なく見とり奉らせ給ひて、ただ四の宮をとか思ほせりけるにや侍りけむ(幼い頃よりこの上なく素晴らしい方と思って、后にするならどうしても四の宮(篤子内親王)をとお思いになられたようだ)」とあり、堀河天皇自身がこれを強く望んでの入内であったとしている。更に『扶桑略記』には篤子内親王が関白・藤原師実の養女となっていたことが記されており、実際に師実はじめ摂関家の歴代当主が陽明門院没後の彼女の後見を務め、彼女自身も師実夫妻没後の仏事をはじめとする摂関家の儀式にその一員として参加している記録が残されている。つまり、当時の宮廷で強い発言力を有する利害関係の異なる有力者たちがこぞって彼女の入内に動いていたことになり、その入内には複雑な背景があったとみられている。兄の白河上皇からも重んじられていたが、師実が引退して上皇に批判的な藤原師通が当主となり、陽明門院が死去して堀河天皇の地位を脅かす存在であった輔仁親王の力が弱まると、上皇は自らが後見となる后妃に堀河天皇の後継者が誕生することを望むようになり、上皇の従姉妹にあたる藤原苡子が女御として入内することになる。
 妻というよりむしろ母代わりに近い后ながら、ともに聡明で文雅を愛した天皇との仲は睦まじかったようで、それだけに堀河天皇が若くして崩御した際は深く悲しみ、出家後も天皇が崩御した堀河院でその菩提を弔う余生を全うした。また、摂関家との関係も継続されており、師実の曾孫にあたる藤原忠通(後の関白)も幼少時に篤子内親王の養子であったと伝えられている。なお、遺言により亡骸は生前のまま雲林院へ運ばれ土葬された。

実仁親王 輔仁親王

 父・後三条天皇は、傍流とはいえ藤原北家の血を引く長男の貞仁親王(白河天皇)よりも、同家と外戚関係を有しない源基子との子供に皇位継承候補者として期待をかけた。そこで延久4年(1072年)の白河天皇即位の際、実仁親王はわずか2歳で皇太弟として立てられ、更に翌年の輔仁親王誕生直後に上皇となっていた後三条が重態に陥ると、実仁親王が即位した後には輔仁親王を皇太弟とするよう遺言した。
 承保2年(1075年)に着袴、承暦2年(1078年)に読書始の儀式、永保2年(1081年)に元服の儀式が行われている。誕生前に外祖父・源基平は既に死去しており、後見がいなかったものの、祖母である陽明門院の寵愛を得ていたことから、世間からも「いと清らかなる男」称されて、将来を期待されていた。
 しかし応徳2年(1085年)、実仁親王は疱瘡により倒れ、15歳の若さで急死してしまう。白河天皇は翌年には父の遺言を無視して実子・善仁親王(堀河天皇)を皇太子に立て、その日のうちに譲位を宣言して院政を開始することになった。

 後三条天皇は、藤原北家閑院流の血を引く長男の貞仁親王(白河天皇)よりも、女御・源基子との間に生まれた、藤原氏と外戚関係を有しない皇子に皇位継承候補者として期待をかけていた。そこで、1072年(延久4年)に白河天皇の即位に際して実仁親王を皇太弟とし、さらに翌年の輔仁誕生直後、上皇となっていた後三条が重態に陥ると、重ねて実仁親王が即位した後には、輔仁親王を皇太弟とするよう遺言した。しかし、1085年(応徳2年)に実仁が亡くなると、白河天皇は翌年には父の遺言を無視、実子である善仁親王を皇太子に立て、その日のうちに皇太子への譲位を宣言して堀河天皇を即位させた。
 1075年(承保2年)親王宣下。1087年(寛治元年)に祖母・陽明門院の御所である室町第で元服、加冠を藤原実季、理髪を源道良が務める。だが、異母兄・白河上皇からは冷遇され、品位も与えられなかった。その後、1103年(康和5年)、堀河天皇の第一皇子・宗仁親王が誕生、1107年(嘉承2年)宗仁親王が鳥羽天皇として即位したが、朝廷内では依然として輔仁親王への期待が高い状態であった。そのような状況の中で輔仁親王は仁和寺のあたりに幽居したが、1113年(永久元年)に輔仁親王の護持僧である醍醐寺の仁寛らによる輔仁親王即位に絡む計画(永久の変)に巻き込まれて皇位継承の可能性が絶たれ、自ら2年間の閉門生活を送っている。
 同母兄の実仁親王とともに、兄弟揃って英明の資質を備えていたと言われている。また、詩歌に秀で、風雅の士として知られていた。漢詩文では、博学多才を謳われ左大臣に昇った醍醐天皇の皇子・兼明親王と並び称されるほどであり、『本朝無題詩』の25首、『新撰朗詠集』の5首が現在まで伝わっている。和歌においては、『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に17首が入集している。 
 親王の没後、白河法皇が源俊頼に命じて『金葉和歌集』を編纂させた際に、親王の歌を9首採用したが、そこに「輔仁の親王」と書かれていたのを見た白河法皇が「三宮」と書き改めさせたとの話が伝わっている。 

祐子内親王 禖子内親王

 生後2ヶ月で内親王宣下を受ける。母后・嫄子の死後は頼通に養育され、長久元年(1040年)10月に着袴と共に准三宮。頼通とともに高倉第に住んでいたため、高倉一宮あるいは高倉殿宮と呼ばれた。延久4年(1072年)出家。承保元年(1074年)、甥・白河天皇から二品を授けられたが辞退した。長治2年(1105年)11月7日、68歳で薨去。
 祐子内親王は歌合を盛んに催すなど一大サロンを形成し、歌人の祐子内親王家紀伊や菅原孝標女などが仕えたことで知られる。 

 誕生後わずか10日で母后・嫄子が崩御し、姉・祐子内親王と共に祖父・藤原頼通の元で育てられた。寛徳3年(1046年)3月24日、兄・後冷泉天皇の即位に伴い8歳で賀茂斎院に卜定、寛徳3年(1048年)4月12日に紫野院へ入る。病弱のため康平元年(1058年)4月3日に20歳で斎院を退き、その後も長く病に苦しんだらしい。一方で幼い頃から和歌の才能に優れていたといわれ、「天喜三年(1055年)五月三日物語歌合」を始め、判明しているだけで25回もの歌合を開催した。斎院退下の後は、母方の曽祖父である具平親王の六条邸に住んだという。晩年に出家、嘉保3年(1096年)58歳で薨去。
 なお、禖子内親王に仕えた歌人六条斎院宣旨は『狭衣物語』の作者であると言われる。

正子内親王
 後朱雀天皇の崩御から3ヶ月後に誕生。天喜6年(1058年)6月27日、異母姉・禖子内親王の後をうけて14歳で賀茂斎院に卜定。康平3年(1060年)4月12日、紫野院に入る。延久元年(1069年)7月24日、病のため25歳で退下、その後は尼となった。永久2年(1114年)、70歳で薨去。