<皇孫系氏族>天武天皇後裔

K309:舎人親王  天武天皇 ― 舎人親王 ― 清原夏野/有雄/長統/岑成 KH01:清原夏野/有雄/長統/岑成

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清原夏野 清原瀧雄

 舎人親王の孫である内膳正・小倉王の5男。延暦23年(804年)、同じ内舎人の官職にあった親族の山河王と共に清原真人姓の賜与と臣籍降下を希望し、これを父・小倉王が桓武天皇に上表し許される。また同時に、桓武天皇の皇女・滋野内親王の名と重なることを避けるために、名を繁野から夏野に改めている。平城朝では中監物・大舎人大允を務める。
 嵯峨朝に入ると、弘仁元年(810年)蔵人に春宮大進を兼ね、天皇と皇太子・大伴親王の双方に身近に仕える。翌弘仁2年(811年)従五位下に叙爵。のち宮内少輔,春宮亮を経て、弘仁5年(814年)従五位上、弘仁13年(822年)正五位下に昇叙される。また、この間に、讃岐介,讃岐守,伯耆守,下総守と地方官も兼任した。
 弘仁14年(823年)4月に春宮亮として仕えた大伴親王が淳和天皇として即位すると、従四位下・蔵人頭に叙任され、同年11月には参議に任ぜられ公卿に列した。天長2年(825年)には先任の参議3名(春原五百枝,多治比今麻呂,直世王)を超えて従三位・中納言に昇進し、左右大臣に並ぶ藤原冬嗣・緒嗣と、天皇の弟の大納言・良岑安世に次いで、一挙に太政官の第4位の席次に抜擢される。その後も、天長5年(828年)権大納言、天長7年(830年)大納言、天長8年(831年)正三位と目覚ましい昇進を遂げ、天長9年(832年)には右大臣に任ぜられて、天皇の外戚である左大臣・藤原緒嗣に次ぐ地位まで昇った。
 学識の高さや政治・経済に対する確かな見識をもって朝廷・民間双方からの信任篤く、淳和朝において多くの政治的足跡を残している。天長元年(824年)諸公卿の提言を入れて国司に関する新たな制度が定められているが、官長が任期中に1・2度入京して天皇に施政を報告すること、不堪佃田の他にある常荒田の耕食を許すこと、については夏野の提言が採用された。天長3年(826年)には桓武・平城・嵯峨の各天皇の子息である多数の親王家を維持する財源確保と、親王に充てるべき官職の不足解消のために、諸親王を常陸国・上総国・上野国3国の国守(太守)に任じる親王任国制度を設立している。また、天長9年(832年)に私財を投じて播磨国に魚住泊を建設。朝廷はこの事業の重要性を認め、最終的には公金をもって助成を行っている。
 天長10年(833年)には菅原清公らと『令義解』を編纂すると共に、『内裏式』の改定も完了させた。また、『日本後紀』の編纂にも加わっている。同年、仁明天皇の即位に伴い従二位に叙せられる。承和4年(837年)10月7日薨御。享年56。没後に正二位の位階を追贈された。
 平安京右京の双岡に山荘を営んだことから双岡大臣・比大臣と称された。この山荘へは天長7年(830年)に淳和天皇が行幸、承和元年(834年)には嵯峨上皇が行幸して水木を鑑賞している。山荘は夏野が没して約20年後の天安2年(858年)に文徳天皇の発願で伽藍が建立され、天安寺と称した。現在の法金剛院が山荘跡とされる。

 淳和朝の天長3年(826年)右兵衛少尉に任官したのち、右衛門大尉,左衛門大尉と武官を歴任する。天長7年(830年)、父・夏野が新たに造営した双岡山荘に淳和天皇が行幸した際、滝雄は従五位下に叙爵される。天長8年(831年)、侍従次いで雅楽頭に任ぜられる。
 仁明朝の承和元年(834年)4月に嵯峨上皇が双岡山荘に行幸した際、夏野の3人の息子が昇叙されたが、滝雄は従五位下から従四位下へと一挙に4階の加叙を受け、同年7月には参議に昇進した藤原良房の後任として蔵人頭に任ぜられる。承和4年(837年)10月の父・夏野の死去に伴い喪に服すが、ひどく嘆き悲しんで痩せ衰えてしまったという。承和7年(840年)、病気を理由に蔵人頭を解任される。
 嘉祥3年(850年)、文徳天皇が即位すると従四位上に昇叙され、治部大輔に任ぜられる。仁寿4年(854年)、安芸守として地方官に転じ、文徳朝末の天安2年(858年)中務大輔に遷り京官に復す。
 貞観5年(863年)1月11日卒去。享年65。

清原秋雄 清原有雄

 天長8年(831年)内舎人。承和元年(834年)、父・夏野の造営した双岡山荘に嵯峨上皇が行幸した際、夏野の子息がそれぞれ昇叙されて、秋雄は従五位下に叙爵し、同年侍従に任ぜられる。
 承和4年(837年)10月の父・夏野の死去に伴い服喪のために官職を辞すが、翌承和5年(838年)正月には本官に復する。承和9年(842年)に発生した承和の変に際しては、山城国五道の一つである大枝道(山陰道の山城・丹波国境)を守護した。承和13年(846年)、左兵衛佐に任官する。
 文徳朝では左兵衛佐,右近衛少将と武官を歴任する傍ら、丹波介,信濃介,備中権介と地方官を兼ねる。この間の仁寿3年(853年)に従五位上に昇叙されている。天安元年(857年)備中権守に転任し、翌天安2年(858年)には豊前守と文徳朝末期には地方官を務めた。
 清和朝に入ると、天安3年(859年)左馬頭に任ぜられ京官に復す。貞観5年(863年)の兄・滝雄の卒去と前後して正五位下に昇叙されると、貞観7年(865年)左近衛権少将、貞観8年(866年)従四位下と要職を務めて順調に昇進する。その後、散位となるが、貞観12年(870年)大和権守に任ぜられ、右兵衛督を経て、貞観16年(874年)従四位上に至る。同年4月24日卒去。享年63。
 射芸が得意で好んで強弓を引き、他に並び立つ人がいないほどの腕前であった。一方で、些細な行動を修めることをしなかった。また、飲酒が度を過ぎており、晩年は酒に酔いつぶれる日々を過ごし、殿上への出仕も十分にできないほどであったという。 

 淳和朝の天長5年(828年)、式部卿・葛原親王の推挙によって正親佑に任ぜられる。天長7年(830年)従五位下・正親正に叙任。
 仁明朝の承和6年(839年)従五位上に叙され、翌承和7年(840年)越前守に任ぜられて地方官に転じる。承和9年(842年)玄蕃頭次いで中務大輔に遷り一時京官に復す。翌承和10年(843年)摂津守に任ぜられ、摂津国校田使次官も兼ねるなど再び地方官に転じるが、有雄の統治に多くの人民は喜んで服し、国内は安静となり穀物を貯蔵する倉庫は満ち溢れるなど、有雄は地方官として名声を得たという。その後も、出雲守・肥後守を歴任する一方、承和14年(847年)正五位下、嘉祥2年(849年)には治国の功績で従四位下に叙されるなど、仁明朝末にかけて国司を務めながら順調に昇進を果たした。
 嘉祥3年(850年)、清原真人姓を賜与され臣籍降下し、仁寿4年(854年)には従四位上に昇叙されている。天安元年12月25日(858年1月13日)に卒去。有雄の死に対して、人々の哀慕は極まりなかったという。 

清原深養父 清原元輔

 延喜8年(908年)内匠少允、延長元年(923年)内蔵大允等を歴任、延長8年(930年)従五位下に叙せられる。晩年は洛北・岩倉に補陀落寺を建立し、隠棲したという。
 勅撰歌人であり、『古今和歌集』(17首)以下の勅撰和歌集に41首が入集している。藤原兼輔,紀貫之,凡河内躬恒などの歌人と交流があった。家集に『深養父集』がある。琴の名手であり、『後撰集』には清原深養父が琴を弾くのを聴きながら、藤原兼輔と紀貫之が詠んだという歌が収められている。
 夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづくに 月宿るらむ(『古今和歌集』夏166)
存命中は高い評価を受けていたが、藤原公任の『三十六人撰』(いわゆる三十六歌仙)に名を挙げられなかったこともあって、この歌は平安末期まで秀歌の扱いを受けなかったが、その後、藤原俊成,藤原清輔らに再評価され、中古三十六歌仙の一人に撰ばれた。


 村上朝の天暦5年(951年)正月に河内権少掾に任ぜられるが遙任であったらしく、同年10月に勅撰和歌集撰集の命により、元輔は撰和歌所寄人に任ぜられ、梨壺の五人の一人として『万葉集』の訓読作業や『後撰和歌集』の編纂に当たった。応和元年(961年)少監物に任ぜられると、翌応和2年(962年)中監物に昇格する。
 大蔵少丞を経て、冷泉朝初頭の康保4年(967年)10月に民部卿・藤原在衡の申請によって民部少丞に転じ、12月には民部大丞に昇格する。
 円融朝初頭の安和2年(969年)62歳にして従五位下・河内権守に叙任された。天延2年(974年)周防守に任ぜられ遂に受領となるが、周防国は長門国・河内国とともに時として鋳銭司がおかれて貨幣の鋳造が行われることがあったが、この時もこの鋳銭事業が行われたらしく元輔は鋳銭長官も兼ねている。また、周防守在任中に薬師寺の廓の造営を担当し、その功労により天元3年(980年)従五位上に叙せられている。
 寛和2年(986年)79歳の高齢で肥後守に任ぜられ、再び受領として九州に赴く。元輔は上国である周防国の受領を一期勤め上げたことから、一定程度の経済基盤を築いたと想定されるが、子息の官途がはかばかしくなかったことから、清原家の家庭経済はそれほど裕福でなかった可能性があり、それが高齢での地方赴任に繋がったとも考えられる。また、この任官は娘(清少納言)婿の橘則光の母で、花山天皇の乳母である右近が天皇に強力に推薦した結果と想定される。
 永祚2年(990年)6月に赴任5年目にして任地にて卒去。享年83、当時としては非常に長命であった。熊本市の清原神社(北岡神社飛地境内)に祭神として祀られている。 

清原致信 清原正高

 大宰少監などを務め、藤原保昌の郎党としても行動していたが、寛仁元年(1017年)3月8日の夕刻に平安京の六角福小路の邸宅を源頼親の指示する7,8騎の騎兵および10余名の歩兵に襲われ殺害された。これは大和守を務めていた主君・保昌が同国内の利権を巡り源頼親(保昌の甥)と競合した際、大和の在地領主で頼親の郎党であった右馬允・当麻為頼を殺害したことに致信が関与したことに対する報復であったと考えられている。なお、源頼親はこの殺害の罪を問われて、右馬頭兼淡路守の官職を解かれた。
 なお、致信を襲撃したのは頼親の実兄である頼光に仕えた頼光四天王の仕業とされ、この事件の背景に頼光と保昌の緊張・対立関係を反映していると考えられていたとする見方もある。また、この際に清少納言が同宿していたことから、致信と清少納言を同母兄妹とする見方がある。 

 豊後清原氏の祖とされ、『船岡新宮八幡縁起』などに言及があるものの、来歴等については諸説があり、実在の人物ではなく伝説上の存在と見なされることもある。
 少納言として平安京で官職にあった。寛平3年(891年)豊後介として地方官に転じ、玖珠郡古後に客居すると任期満了後もそのまま久しく同地に住み続けた。のち、帰京して幾ばくもたたない内に山科旧居で卒去した。文才がある一方で、音楽にも秀でたという。
 以下の伝説がある。醍醐天皇の孫で、章明親王の姫であった小松女院と通じたとして、少納言の官職を解かれて豊後国玖珠郡に左遷された。天延元年(973年)に玖珠に入った正高は、山田郷の地頭であった矢野検校・藤原久兼のもとに留まり、その娘を妻として嫡子・正通(正道とも)を儲けた。後に赦されて京に戻り、山科で晩年を過ごしたとされる。また、横笛の名手であったという。
 玖珠に伝わる伝承によると、正高を慕う小松女院は後に当地まで訪ねてきたが、正高に既に妻子がいると知り、三日月の滝に身を投じ、侍女11人もこれに従ったという。正高は小松女院たちの供養のために、当地に石祠を建て、また、後の正高寺の前身となる寺院を建てたとされる。

清少納言 清原長統

 梨壺の五人の一人にして著名歌人であった清原元輔の娘。曽祖父は『古今和歌集』の代表的歌人である清原深養父。本名を清原諾子とする説がある。「清少納言」は女房名で、「清」は清原姓に由来するとされているが、近い親族で少納言職を務めたものはおらず、「少納言」の由来は不明である。カツラを被るほど髪が薄く、縮れ毛であった。人物画に横顔が多いのは器量がよくなかったからという説がある。
 中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人に数えられ、42首の小柄な家集『清少納言集』が伝わる。『後拾遺和歌集』以下、勅撰和歌集に15首入集。また漢学にも通じた。
 天延2年(974年)、父・元輔の周防守赴任に際し同行、4年の歳月を「鄙」にて過ごす。なお、随筆『枕草子』第290段における船旅の描写の迫真性は、同段落に「わが乗りたるは(私が乗った船は)」とあるので、父親の赴任に伴い、水路を伝って行った実体験と考えられる。この間の京への想いは、のちの宮廷への憧れに繋がったとも考えられる。
 天元4年(981年)頃、陸奥守・橘則光と結婚し、翌年、一子・則長を生むも、武骨な夫と反りが合わず、やがて離婚した。ただし、則光との交流はここで断絶したわけではなく、枕草子の記述によれば、長徳4年(998年)まで交流があり、妹背の仲で宮中公認だったという。のちに、摂津守・藤原棟世と再婚し娘・小馬命婦をもうけた。
 一条天皇の時代、正暦4年(993年)冬頃から、私的な女房として中宮定子に仕えた。博学で気が強い彼女は、主君・定子の恩寵を被った。藤原実方との贈答が知られる。
 長保2年(1000年)に中宮定子が出産時に亡くなってまもなく、清少納言は宮仕えを辞めた。その後の清少納言の人生の詳細は不明だが、家集など断片的な資料から、いったん再婚相手・藤原棟世の任国摂津に下ったと思われ、『異本清少納言集』には内裏の使いとして蔵人・信隆が摂津に来たという記録がある。没年は不明だが、没落した様子が『古事談』などに記されている。
 紫式部の酷評に加え、女の才はかえって不幸を招くという中世的な思想が影響し、鎌倉時代に書かれた『無名草子』『古事談』『古今著聞集』などには清少納言の「鬼の如くなる形の女法師」など落魄説話が満載された。

 父,母とも不詳。承和13年(846年)に子息の玄瞻・正文らが清原真人姓を与えられ臣籍降下する。
 嘉祥4年(851年)従五位下・上野介に叙任される。その後、子息に続いて長統自身も清原真人姓を与えられ臣籍降下する。斉衡3年(856年)3月に大学頭として京官に任ぜられるが、同年8月には越後権守に転じる。以降、伊勢介,下総守,越後守,甲斐守と、文徳朝から清和朝にかけて地方官を歴任した。伊勢介を務めていた貞観3年(861年)には安濃郡の百姓・神人部束成や建部継束らから、課丁218人を隠蔽して大帳に記録しなかったことを告発される。朝廷から派遣された藤原朝野により長統らは徒罪にあたると判断されたが、前年11月に発せられていた恩赦により罪を免れている。



清原令望 清原岑成

 元慶2年(878年)5月に秋田城下の乱鎮圧のために、鎮守将軍・小野春風に従い出羽権掾を兼務して下向。7月には出羽権守・藤原保則の指示により、同じく権掾の文室有房と共に秋田川の南岸に布陣し、蝦夷の渡河を防ぐ。同年12月に200名の蝦夷がかつて官軍から略奪した鎧22領を持参して降伏を願い出た際、令望は降伏する人数に比べて持参した鎧が少なすぎる(鎧を隠し持っている)ことから虚偽の降伏の懸念があるため、もっと数多くの鎧を持参させた上で降伏を認めるべき旨の意見を述べる。しかし、小野春風は自ら敵情視察を行った結果、蝦夷の降伏は本心によるもので、わざわざ霜雪を越えてやってきたのは降伏を強く願う証拠であるとの意見を出した。結局、春風の意見が採用されて蝦夷の降伏を受け入れることになり、出羽権介・藤原統行および文室有房らと共に令望は降伏した蝦夷に派遣されて労いの饗宴を行った。乱を平定後、秋田城司となり城介の代行を務め、俘囚の長の役目を担った。
 仁和2年(886年)従五位下に叙せられ、その後、散位を経て、翌仁和3年(887年)修理大井堰使を務めた。宇多朝では大宰少弐を務めるが、寛平6年(894年)対馬国への兵士の配置、翌寛平7年(895年)博多警固所に配置された俘囚の増員と、新羅の入寇に備えた防衛の増強を朝廷に申請している。
 出羽国仙北の清原氏の始祖ともいわれている。

 天長5年(828年)近江大掾を経て、天長6年(829年)従五位下・筑後守に叙任される。その後、淳和朝から仁明朝初頭にかけて順調に昇進を重ねる。またこの間の天長10年(833年)には美能王から岑成王に改名している。
 承和7年(840年)淳和上皇の崩御にあたっては、養役夫司を務めている。承和11年(844年)正月に越前守に任ぜられて赴任するが、休暇により帰京したまま隠棲して出仕しなかったことから、同年10月に弾劾を受けて解任され、さらに翌承和12年(844年)には位階も剥奪された。
 承和13年(846年)赦されて再び正五位上に叙せられ、承和15年(848年)従四位下に復した。この間、大和守,美濃守,弾正大弼を歴任する。嘉祥2年(849年)臣籍降下して清原真人姓を賜与される。同年閏12月左中弁。
 嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位に伴い蔵人頭に任ぜられる。仁寿2年(852年)2月に蔵人頭を解かれて再度越前守に任ぜられて現地に赴任するが、8月には弾正大弼として京官に復した。以降、斉衡2年(855年)従四位上・右大弁、天安元年(857年)大蔵卿と要職を歴任した。
 清和朝に入り、貞観元年(859年)参議に任ぜられて公卿に列す。貞観2年(860年)大宰大弐となり大宰府へ赴任するが、翌貞観3年(861年)2月29日に任地で卒去。享年63。
 岑成が大弐として大宰府に赴任したが、府の倉庫が著しく破損していたため、修理のために神社の木を伐採しようとした。ある人が、この神社に祀られている神は霊力があり祟りにより災いを受ける、として伐採を止めるよう諫言したが、岑成は聞き入れずに伐採を強行した。このために、岑成は病を受けまもなく没したという。