<皇孫系氏族>天武天皇後裔

KH01:清原夏野  天武天皇 ― 舎人親王 ― 清原夏野 ― 古市但馬公 KH21:古市但馬公


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古市胤憲 古市胤仙

 興福寺大乗院の筆頭宗徒であった古市胤賢の子として生まれる。1451年(宝徳3年)、妻の吉岡尼は神社参拝の際、敵方が人質にするため車輿を待ち伏せていたが、途中で車輿を降りて歩いていたため難を逃れた。
 1457年(康正3年)2月、興福寺の「花頭」という行事について取り仕切れと命令があったが、指示が不十分のため実行できないと申し立てたところ処罰された。
 1459年(長禄3年)3月に妻の吉岡尼が死去。1460年(寛正2年)8月20日、逝去。8月22日の『大乗院寺社雑事記』には、「寺院の務めや儀式を執り行うにあたり、胤憲死去によって、この先50日間は古市氏の御座(立場・役席)を設けることができない、などという通達がなされた」と記録されている。

 大和国の国人で興福寺衆徒。同じ興福寺衆徒の筒井氏とは対立しており、嘉吉3年(1443年)の摂津国河上五ヶ関務代官職を巡って大乗院門跡経覚と成身院光宣・筒井順永兄弟が対立したとき、胤仙は経覚に与して光宣を破り、同年に管領・畠山持国の指示で豊田頼英,小泉重弘らと共に大和の支配を任された。文安元年(1444年)2月には3名が経覚から改めて3名に官符衆徒棟梁・奈良中雑務検断職に任ぜられている。
 しかし、その後、光宣が勢いを盛り返し、経覚派を打ち破った。胤仙も光宣の弟の筒井実憲を討ち取ったが、文安2年(1445年)に光宣に敗北、経覚派の拠点・鬼薗山城を奪われた。以降、胤仙は居城の古市城に拠って光宣との戦いを続け、文安4年(1447年)には経覚を強引に古市に迎え入れ、その権威を利用して筒井氏や一族内の反対派を抑え込もうとした。享徳2年(1453年)3月には光宣の弟・筒井尊覚(実憲の兄)を討ち取ったが、5月には自身も熱病に倒れて6月に死去。これをきっかけに筒井氏と経覚派は歩み寄り、翌享徳3年(1454年)に和睦した。
 文化人でもあり、文安4年(1447年)には経覚を招待して連歌会を催した。この気質は2人の息子にも受け継がれていく。

古市胤栄 古市澄胤

 享徳2年(1453年)に父・胤仙が没したため、跡を継いだ。康正元年(1455年)9月、筒井氏の没落に伴い、豊田氏,小泉氏,鷹山奥氏,秋篠尾崎氏とともに官符衆徒棟梁に任命され、元服前の胤栄の代官に一族の山村胤慶が就いた。寛正6年(1465年)8月に出家(元服)して胤栄と改名、翌文正元年(1466年)5月に斯波義廉から所領を与えられ、主従関係を結んだとみられる。大和は畠山氏のお家騒動で2分され、国人は畠山義就と畠山政長それぞれを支持して争っており、胤栄は越智家栄と共に義就を支持し、応仁の乱が起こった応仁元年(1467年)6月に上洛、政長派の筒井順永,箸尾為国,十市遠清らと戦った。また、一族・家臣に対する統制を強化して、文正元年(1466年)には不和となった山村胤慶を追放し(半年後に赦免)、文明2年(1470年)には騒乱を起こした被官2名を処刑、一族を含めた30名を追放した。処分された者の中には山村氏のように興福寺内では古市氏と同格の、官符衆徒になりうる家の者が含まれていたが、公的機関である興福寺がそれに異議を挟むことはできなかった。領地は6万石であった。
 文明7年(1475年)5月の春日社頭の戦いで敗れたのを機に、同年に弟・澄胤に家督を譲った。これは、胤栄の強引な家中統制に対する批判を避ける意味もあったとされる。隠居後、胤栄は「古市西」と称され、文明9年(1477年)10月には澄胤とともに合戦に出ている。永正2年(1505年)に67歳で死去。
 風流人であり、淋汗茶湯と呼ばれる風呂と茶を愉しむ寄り合いを行ったことで知られ、澄胤と共に茶の湯の祖・村田珠光の弟子になっている。古市氏の後裔が江戸時代、小笠原総領家(小倉藩主)の茶道頭をつとめたため、小笠原家茶道古流の祖として名があげられる。風流踊も好み、9歳の時には囃子手を務めている。文明元年(1469年)に風呂釜が壊れた際には修繕費用捻出のため、当時奈良において禁止されていた風流踊が踊れる小屋をつくり、入場料として6文をとった。この小屋は大盛況となり、3千人もの人々が集まり、「日本初の有料ダンスホール」とも評されている。

 東山時代の文化人大名でもある。興福寺の官符衆徒。
 叔父・古市宜胤のいる興福寺発心院に入り14歳で出家、倫勧房澄胤と号した。興福寺大乗院門跡の六方衆となる。文明7年(1475年)、兄・胤栄の隠居により退寺し家督を相続した。応仁の乱において興福寺衆徒を統率し、義父の越智家栄や畠山義就と結んで筒井順尊,十市遠清,箸尾為国を追放、大和に勢力を拡大した。明応2年(1493年)には山城国守護を兼ねる室町幕府政所執事・伊勢貞陸によって南山城の相楽・綴喜両郡の守護代に任じられ、南山城に入って山城国一揆を鎮圧した。その後は細川政元配下の武将・赤沢朝経の大和への侵攻に協力している。
 大和地方の半分を支配する大和守護格となり、古市播磨法師の名で活躍、6万石の城(古市城)を築き威勢を放った。永正5年(1508年)、細川澄元配下の武将・赤沢長経に属して河内国高屋城主・畠山尚順を攻めたが、敗走してその途中で自害している。
 澄胤はいわゆる戦国成り上がりの田舎大名であり、一時に数百貫を賭ける博打を好んだり、名馬を渉猟するなど派手な振舞いをする一方、神仏への信仰心も厚く、貴人や公家,高僧,諸芸能人とも交わり、茶の湯,謡(能・猿楽),尺八にも優れ、文人としても有名で、美意識を兼ね備えていた。
 もともと古市一族は、「淋汗茶湯」と呼ばれる茶会を行っていた。淋汗とは夏風呂のことで、風呂と茶の湯があわさったものと考えられる。兄の胤栄が行った記録によれば、風呂の他、庭に松竹を植えて、山を作り滝を流し、周囲には花が飾られ、唐絵や香炉、食籠などが置かれ、客は百人以上にも及ぶこともあったという。飾り付けられた作り物を見物しながら茶を飲み、酒宴もあるという、賑やかなものだった。また、一族の行う茶の湯とは相反する茶の道を求める茶人・村田珠光に師事し、珠光の一番弟子となっている。

古市了和 古市胤子

 澄胤の後裔で江戸時代の茶人。小笠原家茶道古流、古市流4代家元。名は勝元,俗名源右衛門。了和,乗覚とも号す。竹中太膳太夫了益の孫・了誉の3男で古市紹意の養子となった。
 江戸時代には古市了和が、弓馬術・礼儀作法の名家である小笠原家総領家(小倉藩主)に茶道頭として仕えた。古市了和の門人に、小笠原家の執政をしていた下條三郎兵衛一以があったため、後に小笠原忠真に推挙され茶道頭として仕官することになった。珠光から一の弟子である澄胤に受け継がれた茶の道や作法は、小笠原家の家風と融合し、小笠原家茶道古流として現在に受け継がれている。古市家の代々は茶道頭として幕末まで小笠原家に仕えた。
 古田織部とも親交があり、茶は織部の傳を得ていたと言われる。また蹴毬を飛鳥井雅章に学び、名手の誉れがあり、徳川秀忠上洛の折、上覧に供したことがある。
 明暦3年(1657年)に死去し、小倉城下の立法寺に葬られた。

 はじめ、室町幕府15代将軍・足利義昭の子の義尋(高山,義広)に嫁し、義尊と常尊をもうけた。
 義尋が慶長10年(1605年)に没した後は、母方の親戚である後陽成天皇女御の近衛前子の縁で宮中に出仕し、茶々局,三位局の女房名で呼ばれた。その後、後陽成天皇の召人となり、冷雲院宮,道晃法親王,空華院宮をもうけた。後陽成院の晩年まで傍に仕えており、院が危篤の際には、見舞いにきた後水尾天皇との面会を取り次ぎ、これが院と天皇との最後の対面となった。
 寛永15年(1638年)には実相院のある岩倉に閑居し、宮中を退いた。その後も宮中の人々とは良好な関係を築いており、正保2年(1645年)5月7日には、文智女王に同行して岩倉の円通寺を創建した圓光院殿瑞雲文英尼大師とともに近江国永源寺の一糸文守を訪ねている。文智女王に同行した翌年、岩倉の地に日蓮宗の證光寺を創建した。卒年は76歳。