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広澄流清原氏の氏祖。江戸時代後期の『群書類従』版「清原氏系図」では、明経道で栄えた清原広澄流の清原氏が有雄流の系図につなげられているが、20世紀以降、日本史や氏族研究を専門とする研究者からは基本的に支持されていない。出自には諸説あるが、海氏(海宿禰)出身が定説。海氏の中でも特に天武天皇の時代の凡海氏(大海氏)の凡海麁鎌の子孫といわれる。 小野吉柯の門人。直講を経て、寛和元年(985年)権少外記に任ぜられると、寛和2年(986年)少外記,永延元年(987年)大外記と一条初期に外記を務めながら急速に昇任し、永延2年(988年)従五位下に叙爵して、外記局を離れた。 大隅守などの地方官を務めたのち、明経道助教として京官に復し、長保4年(1002年)明経博士に任ぜられた。寛弘元年(1004年)、海宿禰から清原真人に改姓し、位階は正五位下に至る。 寛弘6年(1009年)7月5日卒去。享年76。跡を養嫡子の頼隆(弟の近澄の子)が継いだ。死後、大江匡房の『続本朝往生伝』(1100年頃)では、一条天皇治世下(986~1011年)の代表的な明経道の儒学者について、善澄と広澄が双璧として語られている。
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