| 江戸時代後期の『群書類従』版「清原氏系図」では、清原氏の有雄流の系図につなげられているが、20世紀以降、日本史や氏族研究を専門とする研究者からは基本的に支持されていない。天武天皇の養育係であったともいわれる凡海麁鎌の7世孫である海信恒の子ともいわれる。凡海麁鎌の一族は天武天皇の壬生(養育者)だったとみえ、その一方で皇別氏族の清原氏がしばしば天武天皇の子孫とされたことから、その縁を頼りにして、凡海氏(大海氏)の末裔は天武後裔を自称し、清原氏を称すようになったのではないか、とする。房則の養子になったかは不明だが、『群書類従系図』では、寛弘元(1004)年に海宿禰を改め清原真人となっている。正五位下・左京大夫、勘解由次官。この系が貴族清原氏の本流(広澄流)となっていく。 |
鎌倉前期の幕府公事奉行人,政所寄人。『尊卑分脈』は、実父を藤原時長の子孫の以邦で清原信定の養子とする。図書允,左衛門尉。京下りの文筆官僚とみられ、鎌倉幕府内での重要政務や訴訟裁決さらには各種行事に精通した奉行人として活動していた。また右筆役となり、執筆の任を果たすことも多かった。建久5(1194)年には大庭景能,安達盛長と共に、鶴岡八幡宮担当の御願寺社奉行となる。建仁3(1203)年、源実朝の征夷大将軍就任による政所始めには家司として参加。さらに武蔵・駿河などの大田文作成を命じられる。幕府評定衆の長定・満定は子息。 |