<皇孫系氏族>天武天皇後裔

KH07:清原良業  清原有雄 ― 清原業恒 ― 清原広澄 ― 清原頼業 ― 清原良業 ― 舟橋秀賢 KH08:舟橋秀賢


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舟橋秀相 舟橋在賢
 慶長20年(1615年)6月24日に従五位下式部少輔に叙任。元和6年(1620年)1月5日に従五位上、元和9年(1623年)1月5日に正五位下に昇り、1月11日に明経博士となる。寛永5年(1628年)1月5日に従四位下となり、寛永9年(1632年)1月11日に少納言に就任。寛永10年(1633年)1月12日より侍従を兼任する。寛永20年(1643年)9月15日に少納言を辞する。正保3年(1646年)12月27日に従三位に昇るが、翌正保4年(1647年)9月15日に死去した。   安政5年(1858年)、日米修好通商条約締結に反対し、嫡男の舟橋康賢とともに廷臣八十八卿列参事件に参加した。 
舟橋遂賢 伏原宣明

 明治から大正期の宮内官、政治家、華族。山城国京都で少納言・舟橋康賢の2男として生まれる。父の死去に伴い1880年(明治13年)1月16日、家督を相続し、1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。
 1882年(明治15年)以降、京都宮殿勤番,殿掌などを務めた。1889年(明治22年)東京専門学校邦語政治科卒業。1890年(明治23年)7月10月、貴族院子爵議員に選出され、死去するまで在任した。 

 光格天皇,仁孝天皇,孝明天皇の三代にわたり朝廷に仕えた。官位は正二位・明経博士。伏原家8代当主。伏原家は代々儒学を以って朝廷に仕える公家舟橋家の分家筋にあたり、伏原家も儒学を家学とした。
 寛政10年(1798年)に従五位下に叙爵。享和3年(1803年)、元服して従五位上・備前権介となる。文化8年(1811年)、従四位下に昇叙し、少納言・侍従となる。文政2年(1819年)には正四位下・明経博士に任じられた。文政6年(1823年)に従三位、文政10年(1827年)に正三位、天保14年(1843年)に従二位、安政元年(1854年)に正二位となる。子の宣諭が家督を継ぎ、孫の伏原宣足の代に伏原家は子爵に列した。
 江戸時代後期の朝廷儒学者として幕末期から明治に活躍した多くの皇族や公家の子女たちに儒学を教えた。明治天皇や岩倉具視も幼少期に宣明に師事している。宣明は堀河家の次男であった岩倉具視を「大器の人物」と見抜き、岩倉家への養子縁組を推薦したという。 

伏原宣足

 伏原家10代当主。京都で少納言・伏原宣諭の長男として誕生。安政3年12月15日(1857年1月10日)に元服し昇殿を許された。安政6年6月20日(1859年7月19日)左兵衛権佐に任じられ、その後、少納言,侍従を歴任。父・宣諭の死去に伴い、1876年(明治9年)10月16日、家督を継承した。
 明治3年(1870年)以降、次侍従,侍従,式部寮出仕,掌典補,式部属,太政官属などを歴任。明治17年(1884年)7月8日、子爵を叙爵。
 明治23年(1890年)7月22日、賀茂別雷神社宮司兼賀茂御祖神社宮司に補任された。翌年(1891年)4月16日、賀茂別雷神社宮司を免ぜられた。明治25年(1892年)6月21日、賀茂御祖神社宮司も免ぜられた。
 明治26年(1893年)3月29日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、1925年(大正14年)7月まで在任した。