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代々、局務(大外記上首)を務めた広澄流清原氏出身で、頼元自身も事務方の官人として経験を積み、建武の新政にあたっては、かつて父・良枝や兄・宗尚も歴任した大外記に任じられた。その際に実務能力を買われたらしく、雑訴決断所,記録所,恩賞方など、新政の主要な機関の職員を歴任し、勘解由次官にまで進んだ。 建武3年(1336年)に新政が終止符を打たれると、そのまま北朝の光厳上皇方にとどまり、文殿の職員となっている。しかし、建武5年(1338年)9月には、懐良親王に少納言の官職で随行して吉野を発しており、この間に南朝方に転向したと推測される。 懐良親王は当時10歳に満たなかったと思われ、九州およびその途次の瀬戸内地方の各武士への令旨は、ほとんどが頼元の手によるものと思われる。また、これら武士勢力の懐柔だけでなく、懐良親王の征西将軍宮としての教育なども頼元の監督下で行われている。他の後醍醐天皇皇子の地方下向には、多くの場合、武士や南朝を代表する公家が随行していたにも関わらず、懐良親王の下向では頼元を始め、地位の低い実務官人が随行しており、その武力動員にはまったく令旨の力に頼るしかなかった中、頼元は興国3年(1342年)の九州上陸以降も精力的に令旨の発給を続け、全てが頼元を奉者とするものばかりではないが、今日残っているものだけでも150通を超えるとされる令旨の最多の奉者であり、懐良親王の九州制圧時代を現出した功労者と言える。 正平16年(1361年)には懐良親王はついに九州の中心である大宰府に入り、北朝勢力を北九州の一角に押し込め、九州をほぼ統治下に置くことに成功した。頼元の生存中はこの状態が続き、征西府は健在であった。この間、倭寇の取締りを期待する明との間で親密な外交関係を構築し、懐良親王を日本国王と認めさせるに至っている。 正平20年/貞治4年(1365年)に出家して宗性を名乗り、正平22年/貞治6年(1367年)5月20日に筑前国三奈木庄にて卒去。享年78。
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初めは後南朝に属し、尹良親王に従って主水正に任ぜられ、応永34年(1427年)、尾張国津島に移り、一時は吉野にも潜行した。 のちに平安京に戻り、後花園天皇・後土御門天皇の侍読として仕える。大膳大夫・大炊頭を経て明経博士に任ぜられ、文安5年(1448年)従四位上に叙せられると、のち直講,大外記,少納言等を歴任した。享徳4年(1455年)従三位に叙せられ、清原氏(広澄流)として初めて公卿に昇った。長禄元年(1457年)大蔵卿を経て、長禄2年(1458年)正三位に至り、真人姓から朝臣姓に改姓している。同年10月25日出家。法名は常忠。応仁元年(1467年)5月31日薨去。 学識が高く評価され、「天下の学者皆之を師とす、清原の学大いに興る」(『碧山日録』)と賞賛された。明経道の学風は古注に宋学の朱熹の学説を加味したものであったという(『論語抄』)。明法道にも通じ、明法家の中原・坂上両家が衰微すると、業忠の学説が重視されるようになり、細川勝元の要請を受けて初めて貞永式目を講じ、『貞永式目聞書』も著している。著作に『永享大饗記』がある。
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