| KH09:芳賀高重 | 清原有雄 ― 清原業恒 ― 芳賀高重 ― 岡本富高 | KH10:岡本富高 | ● |

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| 岡本重親 | 岡本正親 |
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系図によれば、清党(清原氏を祖とする芳賀氏を中心とした下野の武将一族)岡本氏の3代目であり、2代・正高の子とされているが、年代的にこれはありえない。 |
居城は、松ヶ嶺城。誕生もこの城と伝わる。下野国塩谷郡の国人領主の塩谷氏の重臣岡本・正重の子として生まれ、正重が天文14年(1545年)10月に佐久山にて討死(天文18年(1549年)9月29日説もあり)すると、家督を継ぎ、岡本家の当主となる。 |
| 岡本照富 | 岡本正富 |
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照富は、岡本正親の嫡男として松ヶ嶺城に生まれる。武芸に秀でる一方、京の謡曲師・道慶に師事し、謡・鼓などを習うなど、正親の後継として育てられる。 |
正富は、岡本正親の次男として松ヶ嶺城に生まれ、兄とともに京の謡曲師・道慶に師事し、謡・鼓などを習う。 |
| 岡本義保 | 岡本義政 |
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正親の継嗣が死去したため、その養子となり、慶長3年(1598年)12月に家督を譲られ岡本家を継ぐ。岡本家の後継者として、慶長2年には弟の塩谷惣十郎(岡本保真)とともに豊臣秀吉に謁見し、その翌慶長3年(1598年)には徳川家康に謁見、さらに翌慶長4年(1599年)には家康の子・秀忠に謁見して、この頃より岡本家は徳川氏の旗本としての地位を固めていく。 |
下野国に4,370石余りを領する旗本・岡本義保の長男として生まれる。父・義保は晩年、次男の万吉を蘆野資泰の養子にする計画を蘆野氏側から一方的に破断にされて面目を潰されたことに憤り、跡継ぎとなる男児の無かった弟である岡本保真(1,000石)の娘と万吉を婚約させ、万吉に1,000石を分与して保真の家を嗣がせようとしていた。 |
| 岡本義則 | 岡本久包 |
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下野国塩谷郡泉郷の旗本岡本義保の次男として生まれる。義則のの蘆野領主・蘆野資泰への養子縁組破談に激怒した義保は、岡本家と義則の面目を立てるため、弟の保真の娘と義則を結婚させてその跡継ぎとし、義則には、義保の領地より1000石を分地して持たせ、保真の領地の1000石と合わせて2000石の江戸詰の旗本にして、資泰を見返そうとしたが、寛永18年(1641年)12月29日、義保が没し、この話はいったん延期となる。 |
江戸城の馬医・桑嶋忠久の3男として生まれる。正徳元年(1711年)12月18日に徳川家宣に仕え、表右筆となり禄米百五十俵を得て、祖先の姓である岡本氏を名乗って独立する。その後、久包は、順調に出世していく。正徳5年(1715年)4月30日には奥右筆となり、同年12月18日に禄米五十俵を加えられて禄米二百俵となった。さらには、享保16年(1731年)4月24日に西の丸に勤仕し、享保19年(1734年)4月18日には奥右筆の組頭になり、久包は幕府内の信頼と地位を高めていった。 |
| 桑嶋 裕 | |
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清水徳川家家臣・横尾道益(名は不詳)の子として生まれる。江戸幕府の御家人であり、江戸城の馬医であった忠真は男子に恵まれず、最初に養子に迎えた忠順が忠真に先立って病死してしまったため、忠真の娘と結婚し、その婿養子となった。 |