<皇孫系氏族>天武天皇後裔

KH09:芳賀高重  清原有雄 ― 清原業恒 ― 芳賀高重 ― 岡本富高 KH10:岡本富高

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岡本重親 岡本正親

 系図によれば、清党(清原氏を祖とする芳賀氏を中心とした下野の武将一族)岡本氏の3代目であり、2代・正高の子とされているが、年代的にこれはありえない。
 そこで注目されるのが、重親の妻の実家の玉生氏である。玉生氏は、重親の主君・塩谷氏からかつて分家した一族だが、貞治2年(1363年)6月17日、苦林野の戦いにおいて、時の玉生家当主である玉生富高が討死したが、戦功があり、この際、玉生氏は岡本氏の発祥の地である岡本郷を賜り、玉生富高の弟である勝親が岡本信濃守富武と名乗っており、勝親が岡本氏の名跡を継ぎ繁栄させ、その子孫が重親ではないかと考えられている。勝親は、玉生姓の時、縫殿助を名乗っていたが、後世の記録を見ると、勝親の子孫が、代々縫殿助の名を継承していたことがうかがえる。また、重親の孫・正親の孫に当たる岡本保忠も縫殿助を名乗っている。これも、重親が勝親の子孫であることを裏付ける事実と言えるが、ただ、ならば正高から重親までの間の系図がなぜ省略されてしまっているのか疑問が残るため、これらについては、さらに研究が必要である。
 岡本城で出生したと考えられている重親は、文明10年(1478年)正月18日塩谷孝綱の付家老として、下野国塩谷郡に孝綱とともに下り、松ヶ嶺城を築いて居城とする。妻の父・勝定の生没年「長禄3年(1459年)~永正17年(1520年)」を参考にすると、重親は勝定と同世代と考えられ、重親は、この時15~20歳、あるいは20歳前後ではなかったろうかと推測される。川崎伯耆守実録には、岡本宮内左ェ門の名が見える。そして、永正11年(1514年)の頃には、同年に造られた薬師如来像に主君・孝綱父子に続いて名を連ねるほどの重臣となっていた。 

 居城は、松ヶ嶺城。誕生もこの城と伝わる。下野国塩谷郡の国人領主の塩谷氏の重臣岡本・正重の子として生まれ、正重が天文14年(1545年)10月に佐久山にて討死(天文18年(1549年)9月29日説もあり)すると、家督を継ぎ、岡本家の当主となる。
 岡本家は、祖父・重親以来、代々塩谷氏の重臣であったが、正親の代には、正親の姉が主君・塩谷義孝の側室となって長子・義通を生み、正親は自分の娘を義通に嫁がせていたため、義孝の家督を継いだ義孝の正室の子である義通の弟・義綱に疎まれ、一時、実質的な追放の形で塩谷の地を追われる。追放後、正親は、照富と正富の2人の子と共に皆川広照に仕えるが、天正12年(1584年)5月7日、北条氏と佐竹・宇都宮の連合軍が戦った佐野沼尻の戦い(越名沼の戦い等とも呼ばれる)において正富・照富が討死し、落胆した正親は、2人の亡骸を大中寺に葬り、その菩提を弔うためにそのまま出家し、梅屋と称して高野山に向かう。
 この際、『塩谷軍記』によれば、高野山に立ち寄った後、京都で隠遁生活をしていた正親は、かつて奥州遊覧の途中で盗賊に襲われ難儀していたところを助けた京の謡曲師・道慶と再会し、この道慶の伝により豊臣秀吉との面会が叶い、この秀吉の後ろ盾を得て、正親は、塩谷家臣として復帰することができたという。この話の真偽は不明だが、事実、正親は塩谷家臣として復帰し、この時、正親は、秀吉が北条氏を攻める際には必ず参陣すると誓ったとされ、小田原征伐では、塩谷家の名代として参陣している。
 そして、この功が認められて、正親は秀吉より所領泉15郷3800石[3]を安堵され塩谷氏から独立する。
 なお、正親及び岡本氏が完全な塩谷氏の家臣ではなく、宇都宮氏との両属関係にあったとする見方がある。これは、同族と推定される岡本宗慶が宇都宮広綱の重臣として活動しており、正親の一族も単なる陪臣であったとは考えにくく宇都宮氏から塩谷氏の行動を監視する役目を命じられていたとするものである。しかし、小田原征伐に先立って正親が直接秀吉より安堵を得た時点で豊臣政権の直臣となったために塩谷氏や宇都宮氏との主従関係からは切り離されて両氏の改易後もそのまま所領を安堵されたと考えられている。
 正親は、塩谷氏から独立すると、天正19年(1591年)2月、居城を松ヶ嶺城の北東2,3kmほど離れた泉城に移し、慶長2年(1597年)頃、泉城が改修を終えると松ヶ嶺城を廃城とした。さらに、この年の12月、亡くなった2人の子のために新たに鏡山寺という菩提寺を立て、それまでの菩提寺であった慈光寺に代わり、新たな菩提寺としている。
 正親は、嫡子を失ったため、姉の子であり娘婿である義通の子の義保,保真,保忠を岡本家の養子に迎え、義保に岡本家の家督を譲る。そして、自らは泉城の南の荒井の地に隠居屋敷を建て住み、慶長7年(1602年)8月9日に75歳で没した。 

岡本照富 岡本正富

 照富は、岡本正親の嫡男として松ヶ嶺城に生まれる。武芸に秀でる一方、京の謡曲師・道慶に師事し、謡・鼓などを習うなど、正親の後継として育てられる。
 天正12年(1584年)5月7日、父と弟・正富とともに参戦した佐野沼尻の戦いにおいて、弟とともに北条方の武将・広沢三郎,向笠内蔵助と戦に先立ち一騎討ちを行い、これに敗れて弟とともに討ち死にした。享年21。当時、父・正親が皆川広照に仕えていた関係から、当初、照富の亡骸は弟とともに大中寺に葬られるが、慶長2年(1597年)、正親が2人の息子のために、その戒名(忠徳院鏡山全鑑大居士)から鏡山寺という菩提寺を創建し、ここに改葬した。  

 正富は、岡本正親の次男として松ヶ嶺城に生まれ、兄とともに京の謡曲師・道慶に師事し、謡・鼓などを習う。
 天正12年(1584年)5月7日、父と兄・照富とともに参戦した佐野沼尻の戦いにおいて、兄とともに北条方の武将・広沢三郎,向笠内蔵助と戦に先立ち一騎討ちを行い、これに敗れて兄とともに討ち死にした。享年19。当時、父正親が皆川広照に仕えていた関係から、当初、正富の亡骸は兄とともに大中寺に葬られるが、慶長2年(1597年)、正親が2人の息子のために、その戒名(孝叔院月山全心大居士)から心月山鏡山寺という菩提寺を創建し、改葬した。 

岡本義保 岡本義政

 正親の継嗣が死去したため、その養子となり、慶長3年(1598年)12月に家督を譲られ岡本家を継ぐ。岡本家の後継者として、慶長2年には弟の塩谷惣十郎(岡本保真)とともに豊臣秀吉に謁見し、その翌慶長3年(1598年)には徳川家康に謁見、さらに翌慶長4年(1599年)には家康の子・秀忠に謁見して、この頃より岡本家は徳川氏の旗本としての地位を固めていく。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍として大田原城に篭り、北の上杉勢の備えの役割を果たした。この功績により慶長7年(1602年)には1300石加増。さらに大坂の陣では、徳川方として2人の弟と那須衆とともに参陣し、31の首級を挙げ、飛び地領として芳賀郡の小貫村と七井村合わせて約500石の加増となり、家禄は4373石までに発展させた。
 徳川氏の治世となると、江戸幕府旗本として江戸詰めとなり、元和7年(1621年)の日光山奥院宝塔石材運漕や寛永17年(1640年)の今市旅館修理の助役などの役務を果たした。また自領においても針生に別邸を築き、岡本家の菩提寺である鏡山寺や庇護を受けていた修験寺である歓喜寺が、岡本領内に多くの末寺を築くなどし、その治世は安定した。しかし一方で、岡本家は旧主家の塩谷氏の旧臣の一部を含めた80人にも達する家臣団を抱えていたため、財政は苦しかった。
 そんな折、同じ下野の旗本であった蘆野資泰から、義保の次男・万吉(義則)の養子縁組が持ちかけられ、義保はこれを快く承諾した。蘆野家は約2000石の旗本であり、もし万吉が継承すれば実質2000石の加増となり、岡本家の財政にもかなりの助けとなる話であった。ところが、これに反対した蘆野家の家臣が、資泰が領内の芳賀郡赤羽村の庄屋の娘に生ませていた庶子の男子を擁立。すると資泰も了承して、この庶子を芦野左近(蘆野資俊)と名乗らせ後継とし、養子縁組の話は一方的に破談となった。
 これに激怒した義保は、万吉を同じく後継がいなかった弟の保真の娘の婿にして、養子にして江戸詰めの旗本にして、資泰を見返そうと画策。保真の禄高1000石に自領から1000石を分地して、蘆野家と同じ2000石にしようとしたが、この話がまとまる前の寛永18年(1641年)12月29日、死去。その翌年、義保の妻も62歳で没し、義保の跡を継いだ義政は、岡本家の財政のため叔父である保真を殺害、いわゆる泉騒動を起こすが、これをきっかけに岡本家は幕府より改易された。

 下野国に4,370石余りを領する旗本・岡本義保の長男として生まれる。父・義保は晩年、次男の万吉を蘆野資泰の養子にする計画を蘆野氏側から一方的に破断にされて面目を潰されたことに憤り、跡継ぎとなる男児の無かった弟である岡本保真(1,000石)の娘と万吉を婚約させ、万吉に1,000石を分与して保真の家を嗣がせようとしていた。
 これによって万吉を蘆野氏とほぼ同等の2,000石の江戸詰の旗本として蘆野氏を見返そうという計画で、これを保真も了解し、幕府への分地願いも出したが、それが受理される前の寛永18年(1641年)12月29日、義保が没し、この話はいったん延期となる。
 しかし、跡を継いだ義政は既に石高以上に多い家臣団を抱えていて苦しい財政事情であった岡本氏が1,000石も分与することは破綻に繋がりかねず、この計画には反対しており、改めて分地願いを出すことはなく遅延し続けた。
 やがて、義政は密かに叔父の保真を暗殺することによって万吉の養子縁組や分地願いの幕府への提出などを破断に持ち込む計画を立てたのであった。義政は、自分が領地に帰っているときに事件が起きると幕府から疑われるため、自分が江戸詰のときに家来を泉城に送り込み、事件を装い、保真を殺害しようとした。密命を帯びた浅間主税と花山十太夫は最初は実行に躊躇するが、江戸表からの再三の催促により、正保元年(1644年)3月10日、那須野に鷹狩りに出ていた保真を奥方様が用事があると泉城に来ていると偽り、泉城にやってきた保真を城内にて喧嘩を装い殺害し、浅間と花山はそのまま逐電。保真の遺骸は証拠隠滅のために即日葬られた。だが、保真方の遺族に面会の暇すら与えずに保真の遺体を処理したことはかえって義政への疑いを抱かせることとなった。
 暗殺から数ヶ月後、保真の不可解な死を義政の犯行であると見抜いた保真の義兄である千本長勝が幕府に「保真は謀略によって殺された」と訴えた。これに対して義政も「長勝と福原資盛(長勝の従兄弟)の陰事である」と反論し、泉騒動は幕府評定所にて審議されることになった(泉騒動)。
 当初は、義政の弁舌が長け、義政優位で審議は進められていったが、審議の最中の7月10日に、幕府の大老・土井利勝が没し、これにより幕府はこの事件に構っていられる状態ではなくなり、9月2日、喧嘩両成敗とばかりに岡本家と訴訟を起こした千本家の両家に改易、福原資盛に蟄居処分を言い渡し、また義政を九州久留米藩にお預けとして、裁判の幕引きを計った。ただ、後に福原資盛は蟄居を解かれ、千本長勝も蔵米500俵で旗本に返り咲く一方で、義政に再び領が与えられることはなく義政方にのみ罰が下された形となった。
 正保元年(1644年)9月19日、幕府上使・小倉忠右衛門と石川弥左衛門に泉城が明け渡され、岡本家は改易。岡本家の家臣のうち、54人が武士を捨て帰農することになった。義政は、27年間、久留米藩に預けられたのちに寛文11年(1671年)に妻方の実家である大田原氏の口添えでようやく赦免となり、江戸の上野広小路の屋敷を買い住み、元禄4年(1691年)5月6日に没し、寛永寺の現龍院に葬られた。没年齢については諸説あり。 

岡本義則 岡本久包

 下野国塩谷郡泉郷の旗本岡本義保の次男として生まれる。義則のの蘆野領主・蘆野資泰への養子縁組破談に激怒した義保は、岡本家と義則の面目を立てるため、弟の保真の娘と義則を結婚させてその跡継ぎとし、義則には、義保の領地より1000石を分地して持たせ、保真の領地の1000石と合わせて2000石の江戸詰の旗本にして、資泰を見返そうとしたが、寛永18年(1641年)12月29日、義保が没し、この話はいったん延期となる。
 もっとも、この話にはそもそも無理があった。岡本家の領地は4370石であったが、岡本家には60~70人とも言われる家来がいたが、財政的にかなり苦しく、1000石も分地すれば財政的に破綻に近い状態となるのは明らかであった。そこで義保の跡を継いだ義則の兄の義政は、この財政事情を考え、叔父の保真がいなければこの話も破談となり、うまくやれば保真の領地である1000石を甥と叔父の関係で相続することができると考え、保真の殺害を画策し実行した。いわゆる泉騒動の勃発である。寛永21年(1644年)に勃発したこの騒動で、兄の義政は、叔父の保真の殺害に成功し、保真側の親族の訴えによる幕府での審議も有利に進めていたが、最終的には、喧嘩両成敗の裁定により岡本家は改易となり、義則も浪人となる。翌1645年、義則は18歳で没した。
 後世、この事件については、義政による事件の決行が1~2年遅れていれば、問題は自然解決したにもかかわらず、事を急いて家を没落させてしまったことは不幸な出来事であったと評されている。

 江戸城の馬医・桑嶋忠久の3男として生まれる。正徳元年(1711年)12月18日に徳川家宣に仕え、表右筆となり禄米百五十俵を得て、祖先の姓である岡本氏を名乗って独立する。その後、久包は、順調に出世していく。正徳5年(1715年)4月30日には奥右筆となり、同年12月18日に禄米五十俵を加えられて禄米二百俵となった。さらには、享保16年(1731年)4月24日に西の丸に勤仕し、享保19年(1734年)4月18日には奥右筆の組頭になり、久包は幕府内の信頼と地位を高めていった。
 しかし、奥右筆組頭となった年の10月26日、田安館の火番の人数が足らなかったことから、その人員補充をすることになったが、すでに1人登用が決まっていたにもかかわらず、久包は、誤ってもう1人採用してしまい、重複させてしまう手違いを犯してしまう。これを咎められ、久包は拝謁停止の処分を受ける。ただ、謹慎は1ヶ月程度で解かれて同年中の12月6日に赦免となり、さらに12月18日には布衣の着用を許され、旗本格に列せられる。布衣の着用は、官位で六位の者と同格とされる名誉であった。寛保2年(1742年)7月9日、御納戸役の頭となる。
 延享3年(1746年)8月4日没。享年62。亡骸は浅草東國寺に葬られ、以降、久包の子孫の代々の菩提寺となった。 

桑嶋 裕

 清水徳川家家臣・横尾道益(名は不詳)の子として生まれる。江戸幕府の御家人であり、江戸城の馬医であった忠真は男子に恵まれず、最初に養子に迎えた忠順が忠真に先立って病死してしまったため、忠真の娘と結婚し、その婿養子となった。
 安永3年(1774年)12月22日に徳川家斉に初めて謁見し、安永4年(1775年)4月7日に江戸城の馬医見習いとなる。天明6年(1786年)11月7日、養父・忠真の死と共に家督を継ぎ馬医となる。この時45歳。
 文化9年(1812年)に隠居して家督を譲り、その3年後の文化12年(1815年)に病死した。晩年には、桑嶋家の祖先である岡本保忠の先祖供養を望み、下野国塩谷郡泉郷を支配した時代の岡本家の菩提寺である鏡山寺に寄進を行い、その死後の天保7年(1836年)に保忠と岡本家の祖先の新たな墓石が建立されている。