<皇孫系氏族>天武天皇後裔

KH03:清原業恒  清原有雄 ― 清原業恒 ― 芳賀高重 KH09:芳賀高重


リンク KH10・{F647
芳賀高親 芳賀高名
 紀党の益子正重とともに、源頼朝の奥州合戦に参加した宇都宮朝綱の有力武将として従軍した。以後、宇都宮氏の属下となり、益子氏と並び紀清両党として武勇を誇った。 

 初め宇都宮公綱に仕えて鎌倉幕府の楠木正成追討に参加、天王寺の戦い・千早城の戦いでの幕府軍の苦戦にかかわらず奮戦して武名を挙げる。公綱は建武政権崩壊も南朝方についていたが、禅可は公綱に対する反発から彼を排除、嫡子・氏綱を擁立して宇都宮氏を北朝方に転じさせる。このため、南朝側の反感を買って暦応4年/興国2年(1341年)には居城の飛山城を攻め落とされている。だが、観応2年/正平6年(1351年)の薩埵峠の戦いでは、足利尊氏に味方して勝利を決定づけ、合戦後に成立したいわゆる薩埵山体制において主君・氏綱は戦功によって足利直義方について失脚した前関東執事・上杉憲顕に代わって上野・越後両国の守護に任じられた。功労者である禅可は両国の事実上の守護代に任ぜられた(ただし、当時禅可は既に出家していたため、実際には子の高貞・高家が守護代に任ぜられ、父の禅可が実務を執っていたとされている)。両国には復権を狙う上杉氏・新田氏の勢力が存在しており、禅可率いる宇都宮軍はそうした勢力の鎮圧に尽力した。また、憲顕に代わって関東執事となった畠山国清も鎌倉府の機構を入間川御陣に移すなどの支援体制を取った。
 ところが、鎌倉公方・足利基氏は父の尊氏が没すると、父が討伐対象にした上杉憲顕を復権させるべく働きかけ、貞治元年/正平17年(1362年)に突如、宇都宮氏綱は越後守護職を解任されて憲顕が守護に復帰した。これに反発した芳賀氏一族は上杉氏の軍勢に対して抵抗した。翌年、越後に入った憲顕が基氏の命により関東執事に復帰するために鎌倉に向かうことを知った禅可は途中の上野板鼻で憲顕を討ち取ろうとするが失敗、武蔵岩殿山・苦林野で基氏の追討を受けて敗れ去った。既に畠山国清が失脚している中でのこの事件は、宇都宮氏による鎌倉府への反抗とみなされる。
 氏綱は上野守護も解任され、基氏による討伐を受けて降伏した。『太平記』によれば、この時、氏綱は「禅可の先の行動は私は全く同意した覚えはない」と述べたとされている。憲顕の復権という目的を達成した基氏はそれ以上氏綱の責任を追及することはなく、禅可が宇都宮氏のために責任を負う形で退くことになった。
 応安5年/文中元年(1372年)に82歳で没したと伝えられる。栃木県真岡市の海潮寺には禅可の肖像画が伝えられている。 

芳賀高益 芳賀景高

 宇都宮明綱が寛正4年(1463年)に早逝したため、宇都宮氏の外孫である兄・太郎丸が宇都宮氏本家の当主となる。そのため、兄に替わって芳賀氏の家督を継いだ。
 宇都宮氏は享徳3年(1455年)からの享徳の乱以降、古河公方・足利成氏寄りだったが、文明2年(1470年)頃には、関東管領・上杉氏寄りに寝返った。これらの動きは、高益の献策であるといわれている。兄・正綱が文明9年(1477年)に上野国で陣没した後は、その嫡男・成綱の叔父として後見人となり、支えていくことになる。成綱が宇都宮氏の家督を継いで間もない頃に、武茂氏の重臣らが不満を抱き、武茂六郎を中心として叛乱を起こすが、高益が成綱と共に鎮圧している。その後も筆頭家老として、成綱を補佐するが、長享2年(1488年)に没する。
 子・景高の頃になると、家中における権力が一層増大し、武茂氏に代わる勢力として台頭する。その後、主君である成綱と芳賀氏の関係は悪化し、永正9年(1512年)には、宇都宮錯乱という内紛が起きることとなる。 

 近年の研究では芳賀高益の嫡子ではない説が浮上している。また、宇都宮成綱を擁立して台頭するまでに芳賀氏内部で権力抗争があったことを示唆されており、景高はその権力争いに勝利し、芳賀高益の養子になったのではないかとされている。
 景高は宇都宮成綱が家督を継承した際に単独で成綱を擁立し筆頭重臣としての地位を獲得する。また成綱や芳賀氏に不満を抱いていた武茂氏との衝突が表面化するとこれを鎮圧する。さらには古河公方の公認を得て再服従させ、政治の権力中枢から武茂氏を没落させ、実権を掌握する。
 景高は実質的なもう一人の当主として幼い主君の成綱を補佐し、優れた内政手腕で奉行人として活躍するだけでなく室町時代で没落していた宇都宮氏当主の権力強化にも大きく貢献した。 一向寺の諸公事を免除したり、当主の宇都宮成綱と連署で成高寺への寺領を寄進した。

芳賀高勝 芳賀興綱

 父・景高が明応6年(1497年)に没した後、芳賀氏の家督を継ぐ。その頃には宇都宮家中は宇都宮成綱派と芳賀景高派の二つに分かれて対立していた。当主・成綱と共に天英祥貞が開山した宝珠院を現在地(現栃木県真岡市)に移設し、寺名を海潮寺に改名したといわれている。また、宝珠院(宝珠庵)には永正7年(1510年)に下野国分寺内にある広済寺を寄進している。
 高勝も晩年の父同様、主君・成綱を軽んじて、横暴に長じた。所領安堵文書を勝手に発給し、成綱が追認するという主従逆転の状況も発生していた。この頃の芳賀氏は3万石(清党含めて6万石)という家中屈指の所領を持っていたため、家臣でありながら軍事力も主家に匹敵していた。
 永正3年(1506年)、古河公方・足利政氏とその子・高基が家督を巡って対立する永正の乱が勃発すると、高勝は古河公方家の争いに介入し、政氏を支持した。しかし、当主の宇都宮成綱は高基を支持したため家中の分裂が決定的になった。小規模な内訌もあったという。成綱は宇都宮家中が一致していないことを危惧し、また自身への権力の集中も兼ね、芳賀氏の粛清討伐を決意。成綱は着々と芳賀氏を打倒するだけの兵力を整えた。永正9年(1512年)、高勝は成綱の器量を危惧し謀略によって成綱の嫡男・忠綱に強引に家督を継承させ、成綱を強制的に隠居させる。
 同年、宇都宮城内で成綱によって謀殺された。この出来事によって宇都宮錯乱という大きな内紛が発生し、宇都宮氏と芳賀氏が争う。成綱や家臣の壬生綱重,同盟国の結城氏らの活躍によって芳賀氏は敗北し、乱は鎮圧された。芳賀氏の勢力,軍事力は全盛期は約半分にまで弱体化した。
 宇都宮錯乱を経て、成綱の代に家中は一つになり、下野国統一への基盤が整えられるが、絶対的な権力者である成綱が混乱鎮静を見届けるかのように永正13年11月8日(1516年12月1日)、宇都宮城内で病没した。その後、高勝の弟・高経は宇都宮氏に復讐するために宇都宮家宿老の壬生綱房や結城氏の結城政朝らに協力を求めて暗躍する。その結果、高経の謀略によって、忠綱は宇都宮城を追放される。そして、成綱の3男・宇都宮興綱を新たな当主として立て、壬生綱房,芳賀高経,芳賀高孝による政治の専横が続くことになる。こうして宇都宮興綱・尚綱の代で大きく弱体化し、近隣の大名に大きく後れをとることになる。

 宇都宮興綱の出自については、第16代当主・宇都宮正綱の子で俊綱(尚綱)の父、享年61とするのが通説であるが、一方で宇都宮氏の系譜には忠綱・俊綱(尚綱)・興綱を兄弟とするものも存在している。また、興綱を忠綱の子であるとする説もあり、それを裏付ける文献もいくつか存在している。宇都宮正綱次男説が有力とされてはいるが、興綱については、正綱,成綱,忠綱の誰の子とするかは、いずれも決定的な確証がなく未だに議論が絶えないのが実状である。
 大永3年(1523年)、結城政朝が猿山合戦で宇都宮忠綱を破って宇都宮城から放逐した際に、忠綱の圧政に不満を抱いた芳賀高経ら反忠綱派の家臣と図って擁立された(大永の内訌)。だが、興綱が成人して独自の行動を取るようになると芳賀高経,壬生綱房と対立するようになり、やがてその争いに敗れた興綱は隠居を余儀なくされ、その後に自害した。 

芳賀高定 芳賀高継

 大永元年(1521年)、益子勝宗の3男として誕生。天文10年(1541年)、宇都宮氏に反抗的で謀反を起こした芳賀高経が宇都宮尚綱に討ち果されると、高定は主君・尚綱からの命で芳賀氏を継いだ。
 天文18年(1549年)、尚綱が喜連川五月女坂の戦いで那須高資に敗死すると、尚綱の子で幼年であった伊勢寿丸(後の宇都宮広綱)を連れて宇都宮城を脱出、居城の真岡城へと戻り、幼い当主・広綱を補佐して主家の再興を図る。天文20年(1551年)には謀略をしかけて、千本城主・千本資俊に先君の仇である那須高資を千本城にて誘殺させ、弘治元年(1555年)には宇都宮氏に対して反抗を続ける芳賀高照(高経の子)を自害に追い込んだ。
 弘治2年(1556年)、高定は芳賀氏出自の母を持つ江戸忠通や、古河公方の足利義氏、関東一円を勢力下に置いていた北条氏康を通して常陸国の佐竹義昭に宇都宮城奪還のための出兵を要請し、これを受けた佐竹軍が飛山城へと進軍、宇都宮城を占拠していた壬生綱雄を追放し、名実共に広綱を擁して宇都宮に帰還を果たした。
 その後は佐竹氏との婚姻同盟を成立させ、また後北条氏とも結び、益子家宗(高定の甥)に匿われていた芳賀高継(高照の弟)に家督を譲って隠棲した。

 天文10年(1541年)、父・高経が主君・宇都宮尚綱と対立し反乱を起こすも敗死し、兄・高照も弘治元年(1555年)に芳賀高定に追い詰められ自害すると、高継は益子氏の下に身を寄せる。その後、高定の養子となり家督を継いだ。
 永禄9年(1566年)、主君・宇都宮広綱の名代として軍勢を率いて小田氏治を攻撃する。翌年も広綱の代わりに出陣した。天正4年(1576年)に広綱が没すると子・国綱に仕え、後北条氏と巧みな外交をしながら独立を保ち、その一方で結城氏や佐竹氏,白河結城氏と手を結んでこれに対抗した。
 天正年間(1580年代半ば)に、宇都宮広綱の正室・南呂院らの要望で、国綱の弟・時綱(後の芳賀高武)を養子とし、宇都宮に近い芳賀家の飛山城に移った。天正17年(1589年)には家中の勢力争いから益子氏を攻め滅ぼすが、高継の親北条路線が親佐竹路線を採る主君・国綱と反目し関係が悪化。同年、後北条氏に寝返り北条氏邦らと共に手勢を率いて、多気城(多気山城)を攻撃したが宇都宮氏家臣・多功綱継の活躍によって退却したが、復帰を許された。翌天正18年(1590年)には国綱と共に佐竹義宣に小田原への参陣を勧めている。その後、程なくして陸奥国白河に追放され、文禄元年(1592年)に同地で没した。 

芳賀高武 芳賀高孝

 元亀3年(1572年)、下野国の大名・宇都宮広綱の3男として誕生した。母は佐竹義昭の次女・南呂院。有力家臣の芳賀高継の養嗣子として入嗣し、天正20年(1592年)の高継が死去すると跡を継いだ。兄・国綱と協力して家中の家臣団統制をはかり、同年の文禄の役の際に兄と共に肥前国名護屋城に駐屯、慶長元年(1596年)には国綱から官途を付与されるなど、兄の右腕として活躍した。
 しかし、家臣団への統制強化によって塩谷氏など古くからの宇都宮氏重臣が居城を奪われて宇都宮への集住を強制されて力を失う中で、居城・真岡城や所領を安堵されて当主の実弟としての発言力も有した芳賀氏が家中随一の門閥勢力となったことで、皮肉にも高武本人が家臣団統制の最大の障害となり、その権力を抑制しようとする国綱の側近との対立を招くことになる。
 その後、慶長2年(1597年)、跡継ぎの無い国綱に対し豊臣政権五奉行の浅野長政の子・長重を養子に迎えようと家中で計画されると、高武は強硬に反対。これを主導した重臣・北条勝時と今泉高光を殺害・自害に追い込んだことから、豊臣秀吉によって兄共々改易されたという。
 その後はお家再興に尽力し、慶長の役への参陣や石田三成の配下になるなどし、伊勢神宮に再興の願文を出したというが、それらが報われることは無く、慶長17年(1612年)に死去した。子の高成は水戸徳川家に仕えたといわれる。 

 永正9年(1512年)、芳賀高勝が宇都宮成綱によって謀殺されると宇都宮錯乱と呼ばれる宇都宮家中を二分する大きな内紛が起きる。成綱が内訌を鎮圧すると高孝は甥・芳賀高経と共に成綱によって助命され、宇都宮城に拘留された。その後、高孝は宇都宮成綱の3男(宇都宮正綱の末子の説もある)・興綱が芳賀氏を継ぐまでの短い間に芳賀氏を継いでおり、成綱を頂点とする政治的支配体制に取り込まれた。
 永正13年(1516年)、宇都宮成綱が没すると、高経に協力して、宇都宮忠綱を宇都宮城から追放し、興綱を新たな主君に立てた。興綱の代に高孝は重臣として重用され、芳賀氏は宇都宮錯乱で失った権力を瞬く間に取り返した。その後は、高経,壬生綱房と共に宇都宮氏の筆頭宿老として、政治を横専した。天文元年(1532年)には、高経・綱房と共に興綱を強制的に隠居させ、宇都宮尚綱に家督を継承させている。当時、主君ですら逆らえないほどの権力を高孝らは持っていた。この体制は高経と尚綱が対立する頃まで続いた。天文10年(1541年)、主君・宇都宮尚綱に反旗を翻した芳賀高経が敗死すると,高孝もその係累と見做され、日頃から反目していた壬生氏・益子氏の手によって最期を遂げる。
 永正7年(1510年)から天文4年(1535年)にかけて海潮寺,成高寺に幾度か寄進をしている。

小宅尚時

 宇都宮家臣の小宅高国が坂戸城を築城し小宅氏の居城としていたが、戦国時代中期には宇都宮氏と小田氏の間でこの城を巡り激しい争いがあった。天文18年(1549年)、古河公方・足利晴氏の要請を受けた宇都宮尚綱とともに喜連川に布陣して那須高貴の軍と対持したが、尚綱が那須方の弓矢を受けて戦死したため、宇都宮の大軍は総崩れとなる。小宅尚時も小栗城に逃れたが、宇都宮の敗北を知った結城氏に小栗城は奪われ、同時に坂戸城も小田政治に攻められてしまい、小田家臣の信太氏が城主となった。
 その後、小宅尚時は上杉謙信関東出兵に際して小栗城を奪還。永禄7年(1564年)、上杉謙信の小田北條攻めに応じて坂戸城主だった信太掃部介を攻め、再び坂戸城主になった。同年、小田家臣の信太頼範を大将とする軍勢が攻め込んで来ており、城主の小宅尚時は主家の宇都宮広綱に救援を出し籠城するが、坂戸城は攻め落とされ小田氏の手に渡り、小宅尚時は小栗城へ逃れた。その後、再び宇都宮勢の反攻に遭い坂戸城は再び落城し信太頼範は討死あるいは自刃したという(ただ、信太頼範は別人説もある)。小宅氏は再び坂戸城の城主へと返り咲いた。