<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

K008:武内宿禰  孝元天皇 ― 武内宿禰 ― 紀 角 KI02:紀 角

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紀 角 紀 小弓

 『日本書紀』では「紀角宿禰」、『古事記』では「木角宿禰」、他文献では「紀都奴」「都野宿禰命」「都怒足尼とも表記される。
 武内宿禰の子で、紀朝臣およびその同族の伝説上の祖とされる。対朝鮮外交で活躍した人物である。
 系譜に関して『日本書紀』に記載はない。『古事記』孝元天皇段では、建内宿禰(武内宿禰)の子7男2女のうちの第5子として記載されている。
 『新撰姓氏録』では、左京皇別 紀朝臣条等においていずれも武内宿禰の子と記されている。また『先代旧事本紀』「国造本紀」都怒国造条では、紀臣の都怒足尼(紀角宿禰)の子に田鳥足尼(紀田鳥。写本によっては島足尼)があると見える。その他にも、後世の系図類では遠耶臣(紀遠耶),紀白城,真利宿禰(紀真利)という息子らがいたことになっている。
 『日本書紀』応神天皇3年是歳条によると、百済の辰斯王が天皇に礼を失したので、紀角宿禰は羽田矢代宿禰,石川宿禰,木菟宿禰とともに遣わされ、その無礼を責めた。これに対して百済は辰斯王を殺して謝罪した。そして紀角宿禰らは阿花王を立てて帰国したという。
 また同書仁徳天皇41年3月条では、天皇の命で百済に遣わされ、初めて国郡の境を分けて郷土の産物を記録した。その際、百済王同族の酒君に無礼があったので紀角宿禰が叱責すると、百済王はかしこまり、鉄鎖で酒君を縛り葛城襲津彦に従わせて日本に送ったという。
『古事記』では事績に関する記載はない。

 雄略天皇9年(465年)、雄略天皇の命で蘇我韓子,大伴談,小鹿火宿禰らと新羅を征伐するために朝鮮へ渡った。その際に、「自分は妻をなくしたばかりで、自分の身の回りの世話をしてくれるものがいないので、そのことを天皇に伝えてください」と大連の大伴室屋を介して伝えた。天皇は気の毒に思い、小弓の面倒を見るようにと、吉備上道采女大海を与えた。
 新羅に入国してからの小弓の活躍は目覚ましいものであったが、残兵の抵抗に苦戦し、大伴談らが戦死した。残兵も自然に退却していったが、彼も新羅で病死した。
 小弓にあてがわれた大海は喪に服するため日本へ帰ったが、どこに埋葬すれば良いのか分からない、と大連の室屋に相談した。室屋の奏上により、天皇は小弓の功績を讃え、小弓と大伴氏の領地が同じ国にあり、隣り合っているところから、接点である田身輪邑(和泉国日根郡淡輪村,現在の大阪府泉南郡岬町淡輪)につくるよう指示した。大海は喜んで、6人の家人を室屋に献上した。
 小弓とと共に半島に派遣された小鹿火宿禰は、小弓の喪に服するため帰国し、角国(周防国都濃郡)に留まった。そして、八咫鏡を室屋に献上して、自分は(小弓の息子の)紀卿と共に天朝にお仕えすることができないとして角国に在留させてくださいと申し上げた。そして、小鹿火は角臣の祖先となった。

 

紀 大磐 紀 男麻呂

 雄略天皇9年(465年)5月、父が雄略天皇の命を受けての新羅との交戦中に病死したと聞いて、百済に向かうが、横暴な振る舞いによって小弓の後に大将として権力を握っていた小鹿火宿禰を怒らせてしまう。小鹿火は、蘇我韓子を唆し、彼を暗殺しようとしたが、韓子は返り討ちにされ、小鹿火も、帰還の際、角国に留まってしまうことになる。このとき生磐も一時帰国していた。
 その後、顕宗天皇3年(487年)、再び朝鮮に渡り、任那を掌握して高句麗と結び、三韓(朝鮮南部)の王となろうとして政府機構を整備、君号を「神聖」と名乗った。任那の左魯・那奇他甲背たちが計略を担当して、百済人を殺害し、道や港を塞ぐため帯山城を築き、百済軍を兵糧攻めにして苦しめた。それに激怒した百済王は将軍の古爾解らが率いる兵を差し向けたが、生磐の猛攻にあって敗北。生磐の軍は向かうところ敵なしの状態で快進撃を続けたが、その年のうちに突然倭国に帰国した。残された百済では左魯・那奇他甲背をはじめ300人近くを処刑した。
 『日本書紀』欽明天皇2年秋7月条では、聖明王が新羅に通じた任那日本府の河内直,移那斯,麻都を批難した際に、その先祖とされる那干陀甲背と「爲哥可君(百濟本記云、爲哥岐彌、名有非岐)」が百済を苦しめたという話が登場するが、上記の『日本書紀』顕宗天皇3年是歳条の記述や、『日本書紀』の北野本では爲哥可君の別名である「有非岐」が「有非跛」と記されていることから、爲哥可君は紀大磐であるとする説が存在する。
 『日本書紀』欽明天皇2年7月条に表れる紀弥麻沙(紀臣奈率彌麻沙)の父であるとする説が存在する。

 欽明天皇23年(562年)任那を滅ぼした新羅を攻めるために、大将軍として朝鮮半島に派遣される。新羅が任那を攻めたときの様子を問責するために、哆唎から任那に入ると、薦集部登弭を百済に遣わせて新羅攻撃計画の打ち合わせをさせた。登弭は移動の途中で軍の機密文書や弓矢を紛失したことから、攻撃計画が新羅の知るところとなり、新羅は急に大軍を動員して故意に敗北を重ねて降伏を請うた。男麻呂は新羅軍を破って百済軍に合流すると、勝っていても安心せずに危急に備えるべき旨、配下の士卒に注意を促したという。
 用明天皇2年(587年)に発生した丁未の乱では、男麻呂は巨勢比良夫,膳賀陀夫,葛城烏那羅らと共に大臣・蘇我馬子側に従って大連・物部守屋を討った。
 崇峻天皇4年(591年)、巨勢比良夫,巨勢猿,大伴囓,葛城烏奈良と共に大将軍に任ぜられ、任那再興のために2万人以上の兵を率いて筑紫まで出陣するが、崇峻天皇暗殺事件もあって朝鮮半島への進軍は行われず、推古天皇3年(595年)大将軍らは都に帰還した。