<皇孫系氏族>景行天皇後裔

K104:日本武尊  日本武尊 ― 宮道速麿 MI01:宮道速麿


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宮道速麿 宮道弥益

 宮道氏の祖は、日本武尊の子・建貝児王(『古事記』)あるいは稚武王(『先代旧事本紀』)の裔、宮道ノ別とされる。
 宮道天神社(愛知県豊川市)には、建貝児王の子・宮道宿禰速麿が穂県主となり、その子孫が建貝児王を祀ったのが宮道天神社であるという伝承がある。承和2年(835年)には、山城国宇治郡を本拠地とする宮道宿禰吉備麻呂,宮道宿禰吉備継らが朝臣姓を賜っている。京都の宮道神社(京都市山科区)では、宮道氏の祖である日本武尊とその子・稚武王を祀っている。
 あるいは、宮道氏の祖は、景行天皇の子・宮道別皇子とされるが詳細は不明である。
 さらには、戦後の「蜷川家諸流大系図」では「物部弓削宮道守屋」の9代孫が弥益として編纂され、また、江戸時代の『寛永諸家系図伝』や『寛政重修諸家譜』では物部氏の裔とのみあるが、詳細は不明である。 

 清和朝の貞観4年(862年)薩摩守,貞観5年(863年)主計助を歴任した後、漏刻博士在職中の貞観9年(877年)内位の従五位下に叙せられている。陽成朝から光孝朝にかけて主計頭を務める一方で、越後介や伊予権介を兼帯し、この間の元慶6年(882年)従五位上に昇叙されている。
 娘の宮道列子が藤原高藤の室となって儲けた藤原胤子が元慶8年(884年)頃に光孝天皇の第7皇子・源定省と結婚。胤子は元慶9年(885年)に長男・源維城(のち敦仁に改名)を産む。仁和3年(887年)、源定省が即位(宇多天皇)したことから弥益も昇進し、時期不明ながら位階は従四位下に至り、刑部大輔や宮内大輔も務めたとされる。その後、寛平9年(897年)に敦仁親王が即位(醍醐天皇)したため、弥益は天皇の外曾祖父となった。
 寛平10年(898年)に宮道氏の祖神である日本武尊とその子である稚武王を祀った宮道神社が創設された。寛平8年(896年)に没した胤子の菩提を弔うために、醍醐天皇の命により栗栖野にあった弥益の邸宅が寺に改められ、高藤の諡号から勧修寺と名付けられた。 

宮道列子 宮道潔興

 宮道弥益の娘として生まれる。『今昔物語集』によると、鷹狩の雨宿りとして弥益の屋敷を訪れた藤原高藤に嫁いだ。高藤との間に生まれた胤子が宇多天皇女御となり、その子(源維城)が後に醍醐天皇になると、列子は天皇の外祖母として従三位に叙せられた。『宇治郡名勝誌』によると、907年11月30日(延喜7年10月17日)に亡くなったとされ、勧修寺栗栖野に葬られたという。同年12月9日(旧暦10月26日)に正一位が追贈された。また、のちに父の弥益や夫の高藤らとともに宮道神社に祀られるようになった。
 『今昔物語集』巻22「高藤内大臣語 第七」には、高藤と列子のロマンスが伝えられている。鷹狩が趣味であった高藤は、15,16歳の時に鷹狩のため南山階を訪れていたが、にわかに雨が降り始め、通りかかった郡の大領である弥益の屋敷で雨宿りをした。勧められるままに弥益の邸に1泊した高藤は弥益の娘の列子に一目ぼれして一夜の契りを結んだ。翌日、京に戻ろうとした高藤は、自身の佩刀を列子に預けて身の回りに他の男を寄せ付けてはいけないと言い残して屋敷を去った。鷹狩から帰らぬ息子を心配した高藤の父・良門は、高藤が今後鷹狩に行くことを厳しく禁じたため、列子は高藤と長らく音信不通になってしまった。それから6年後、高藤はようやく列子と再会するが、その時、列子はかつて、高藤との一夜の契りで宿した娘を連れていた。その姫君(胤子)は宇多天皇女御となり、後に生まれた男子2名(定国と定方)も大いに繁栄し、父である弥益も四位に叙せられ、修理大夫となった。
 また、『源氏物語』の光源氏と明石の御方らの恋の話も、身分格差のあった列子と高藤が結ばれた話がモデルであると言われている。作者の紫式部は高藤と列子の子孫にあたる。 

 平安時代前期の官人・歌人で名は潔樹とも記される。従兄弟(または兄弟)の宮道列子の孫にあたる皇太子・敦仁親王に帯刀舎人として仕え、敦仁親王即位(醍醐天皇)後の昌泰元年(898年)内舎人に任ぜられる。昌泰3年(900年)内膳典膳に遷り、延喜7年(907年)には紀貫之と交替して越前権少掾となり地方官に転じた。勅撰歌人として『古今和歌集』に和歌作品1首が収められている。 
宮道弘氏
平安時代の貴族で、天禄2年(971年)頃、叔母の夫である藤原為信から越後守を譲られている。天延元年(973年)4月23日、群盗が源満仲の邸宅を襲って資材を掠め放火した。弘道は現場に駆けつけるも、賊の矢に当たり死去。