| K104:日本武尊 | 日本武尊 ― 宮道速麿 | MI01:宮道速麿 |

| リンク | MI02・MI03 |
| 宮道速麿 | 宮道弥益 |
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宮道氏の祖は、日本武尊の子・建貝児王(『古事記』)あるいは稚武王(『先代旧事本紀』)の裔、宮道ノ別とされる。 |
清和朝の貞観4年(862年)薩摩守,貞観5年(863年)主計助を歴任した後、漏刻博士在職中の貞観9年(877年)内位の従五位下に叙せられている。陽成朝から光孝朝にかけて主計頭を務める一方で、越後介や伊予権介を兼帯し、この間の元慶6年(882年)従五位上に昇叙されている。 |
| 宮道列子 | 宮道潔興 |
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宮道弥益の娘として生まれる。『今昔物語集』によると、鷹狩の雨宿りとして弥益の屋敷を訪れた藤原高藤に嫁いだ。高藤との間に生まれた胤子が宇多天皇女御となり、その子(源維城)が後に醍醐天皇になると、列子は天皇の外祖母として従三位に叙せられた。『宇治郡名勝誌』によると、907年11月30日(延喜7年10月17日)に亡くなったとされ、勧修寺栗栖野に葬られたという。同年12月9日(旧暦10月26日)に正一位が追贈された。また、のちに父の弥益や夫の高藤らとともに宮道神社に祀られるようになった。 |
平安時代前期の官人・歌人で名は潔樹とも記される。従兄弟(または兄弟)の宮道列子の孫にあたる皇太子・敦仁親王に帯刀舎人として仕え、敦仁親王即位(醍醐天皇)後の昌泰元年(898年)内舎人に任ぜられる。昌泰3年(900年)内膳典膳に遷り、延喜7年(907年)には紀貫之と交替して越前権少掾となり地方官に転じた。勅撰歌人として『古今和歌集』に和歌作品1首が収められている。 |
| 宮道弘氏 | |
| 平安時代の貴族で、天禄2年(971年)頃、叔母の夫である藤原為信から越後守を譲られている。天延元年(973年)4月23日、群盗が源満仲の邸宅を襲って資材を掠め放火した。弘道は現場に駆けつけるも、賊の矢に当たり死去。 |